第二話 ニートヒーローはランチを食べない

 暗い部屋で一人、木更城新都きさらぎ にいとは背伸びをしました。ベージュ色のぼさぼさ髪を掻きつつ意味も無く部屋を見渡します。ネットサーフィンをしていたら、いつの間にかカーテンの隙間が明るくなっていました。

(寝よ)

 音と現実を遮断するためにタオルケットに潜りました。成長期の身体はタオルケットからはみ出ています。身体を丸めて足を折り畳むと丁度収まりました。


 カチャカチャ。ガチッ。

 部屋の鍵を強引に開ける音がレム睡眠の脳内に跡を残していきます。強盗か、はたまた男の一人暮らしに侵入する物好きでしょうか。

 ゴチッ。

 乱暴に靴を投げたあと、無遠慮にドテドテ歩く音が響きます。

「おはようヒーロー! 今日も元気にニートしとった?」

 物好きのほうでした。タオルケットの端から覗くと、物好きもとい木更城京乃きさらぎ きょうのによってカーテンが開かれました。攻撃的な日光がダメ人間を炙ります。

「ほら! 今日もこんなにヒーロー日和だよ!」

「まだ昼じゃないすか」

「もう昼だよ!」

 京乃がずんずん近付いてくると、最後の砦であるタオルケットが引っぺがされました。

「依頼来てんだから早く起きて!」

「きゃーヘンターイお巡りさーん」

「こんなトコまでお巡りさん来れんよ!」

 ここは『木更城ビル』の二十階。四年前の建設時から近隣住民との日照権交渉が激しい高層マンションの最上階。一一〇番してやっと警察官が来ても、京乃相手なら組み伏せられてしまうかもしれません。

「起きます、起きます」

「素直でよろしい」

「依頼なんすか。自宅警備員すか?」

「うーん、警備員じゃなかったけど……」

 京乃はストレッチパンツのポケットをまさぐり、くしゃくしゃになった依頼書を取り出しました。床で押さえながら広げれば、力が強すぎて破ります。釣られて、ベージュ色の髪が大きく揺れました。

「……まあいいや。父親が急な仕事入っちゃったけん子供の面倒を見て欲しいんだって。昼ごはんとか。小学生のお姉ちゃんと弟と、保育園の妹。名前はえーとりき? うちゅう? ゆ、た? もう、変な名前」

 破れた箇所に書かれていた文字を適当に読んでいます。京乃はもう二十歳になる大人の女性ですが、思考回路が極端に短いのはちっとも変わりません。

「これでご飯買ってって。あと待ち合わせ場所書いてあるけん」

 京乃は白い封筒を新都に渡しました。

「ほら早く着替えて!」

 パンパンっと手を打って寝坊助の行動を急かします。せっかちな性格も変わりません。

 新都は渋々立ち上がり、壁に備え付けのロッカーを開けました。取り出したヒーローコスチュームには洗濯完了の札が付いています。ズボラにぴったりのサービスです。

「あの、着替えたいんすけど……」

 コスチュームを抱えながら京乃を見ると、あ! と大きな声が返ってきました。

「ごめん恥ずかしいよね」

 そそくさと部屋から出ていきます。変なところで物分かりのいい人です。

 思春期男子のプライバシーが確保されたところで、新都はさっそくスリープ状態のデスクトップパソコンを叩き起こしました。ブルーライトで目を覚まし、まずはメールのチェック。天邪鬼な弟に頭を下げ、木更城事務所に届くメールを全部見られるようにしてもらいました。

 今日の新着は二件。『玩具バイク車両区分の再確認』『盗撮冤罪についての御連絡』

 どちらも警察署長からでした。双子が乗り回すバイクは厳つい見た目のためか、何度説明しても玩具だと理解してもらえないようです。

(それよりこっちは、京乃さんがまたやらかしたんかな……)


 平素は大変お世話になり誠に有難う御座います。

 本日朝方、たちばな市自然運動公園にて野鳥の撮影をしていた男性から通報があったと報告を受けました。

 男性が言うには、鳥の撮影の為カメラを構えていたところ、若い女性に声を掛けられカメラを奪われたとのことです。女性は盗撮を疑ったそうですが、男性が説明するとカメラを返却したそうです。万が一、木更城市長のお嬢様であった場合、事後対応が必要かと存じますので僭越ながら御報告差し上げます。


 やらかしていました。

(いつもの事なんだから、こんな仰々しいメールしなくてもいいのに……まあ、しょうがないか)

 寝起きのルーティーンも終わったので、新都は着替えることにしました。

 ヒーローコスチュームは凡庸な少年に変身できる便利アイテム。ニット生地のハイネック、ジーパン、靴下で構成されています。ジーンズにポケットが多い所が新都のお気に入り。貰った封筒は尻ポケットに入れました。

「まだ?」

 靴下を片方履いたところで、廊下から顔だけ覗かせるせっかちさん。じっとしてるのが苦手で、今も電灯のスイッチが弄ばれています。

「一分も経ってないすよ」

「え、うそ?」

「ほんとっす」

「ねえこの『急な仕事』ってさー……」

「はいはい、行けますよ」

 新都は伸ばしっぱなしの髪を適当に束ね、輪ゴムで雑に結びました。暇を持て余した京乃に手を出される前に、さっさと出発するのが吉です。

 どんな依頼でも困ってる人がいれば助ける。それがヒーローです。


 子供三人と合流した新都は『たちばな商店街』に来ていました。

東西に長い木造のアーケードに、天蓋から初春の柔らかい日光が差し込んでいます。広い歩道の両側は多様な店で埋め尽くされ、地元民や観光客で賑わいが絶えません。店先にはベンチが設置され、木更城源五郎を応援するポスターが景観を損ねない程度に貼られていました。

 新都はさっそく、父親から預かった軍資金を確認しました。外見は『いちぎん』のロゴマークが入っており厚みはありません。封筒を振っても祇園精舎の金の声は聞こえない。中を覗くと千円札が一枚。諸行無情なり。

「りらおそうざいにする」

「そらくんも」

「ゆちゃもー」

 子供三人――りら、宙、ゆらの後に続いて、新都も総菜店に入りました。出来立て総菜はもちろん、子供向けのお菓子や玩具も充実している店のようです。子供三人は早速、お菓子コーナーで吟味し始めました。

 姉のりらは手に取ったキャラクターの顔のチョコを新都にずいっと押し付けます。丸い顔に真っ赤な鼻と頬が大人気のキャラクターです。

「りらのおやつこれ」

「ご飯買ってって言われとるんすけど」

「ごはん見てくる!」

 りらは足早に総菜コーナーに行ってしまいました。残されたのは、屈託のない笑顔を浮かべるチョコレートひとつ。新都はそっと目を逸らし陳列棚に戻しました。

 弟の宙は隅で真剣に商品を見比べていました。男の子に人気の戦隊モノ『エイカード』のカード五枚とガム一個が入ったパックです。

「それ買うんすか?」

「かって」

「無理です」

 カード五枚入り四百円は、所持金千円にとってかなり痛手です。

「じゃあいい!」

 宙はパックを乱暴に戻し、総菜を見に行ってしまいました。

 一方その頃、妹のゆらの視線の先にはココアビスケットのお菓子。二個入りの小さな小袋です。

「ゆちゃすき」

「ふーん」

「ひーろーすき?」

「食べたことないすね」

 ゆらは新都の顔をじっと見たあと、小袋をひとつ掴んで姉と兄を追いかけて行きました。

 お菓子コーナーでポツンとひとり残される新都。店員の視線が居た堪れなくなり撤退します。

 新都は生まれてこの方、総菜コーナーというものを初めて見ました。まるで、幼い頃に父親に連れられて行った食事会のビュッフェのようです。

 ずらりと並んだ色とりどりのサラダ、名前の分からない美味しそうなおかず、積み重なった揚げ物たち。食欲をそそる匂いで、通り過ぎる客を次々射止めています。

 新都は揚げ物コーナーの中央に置かれたメンチカツにロックオンされました。無意識に手が伸びます。

「あちっ」

「何してんの? あれに入れるんだよ」

 りらが示したのは、揚げ物コーナーのすぐ横にひっそりと置かれた透明パックです。りらが手に持っているパックには、揚げた蛸足が溢れそうなほど入っています。

(あ、そういうこと)

 ふゃんふゃん動くパックと格闘しながら、新都はなんとかメンチカツを押し込みます。それでも暴れるので輪ゴムを三本掛けるとやっと大人しくなりました。

「ヒーローおそーい」

「お待たせしました」

 子供三人は既に選び終わっているようです。りらは蛸の揚げ物、宙はいなり寿司、ゆらはビスケット、新都はメンチカツ。

「りらのおやつは?」

「棚に戻しましたよ」

「なんで?」

「『なんで』?」

「買うって言ったじゃん!」

 りらはぷりぷり怒ってお菓子コーナーに戻ってしまいました。

「おねえちゃんだけずるーい」

「ゆちゃもー」

 宙とゆらも参戦します。お菓子コーナーでも各々好きな物を手に取りました。

「つぎはねレジでピッてしてもらうんだよ」

「いい子じゃないとしてくれないんだよ」

「ゆちゃいいこー」

『お会計』の看板の下には数人の列ができていました。新都らの順番が来ると、子供三人は慣れた様子で商品を台に置きました。

「ピッおねがいしまーす」

「しまーす」

「まーす」

「これもお願いします」

 担保にされた商品は店員が名前を読み上げ、値段が打ち込まれていきます。短いテープが貼られると、子供三人はそれぞれ戦利品を握りしめました。

「七点で一二十〇円ね」

 新都の手にはペラペラの千円札一枚。

「あら足りないの? どれかやめる?」

「あ……え……」

 初めての事態で新都の頭は思考停止しました。どれか諦めてもらおうにも、台に残されたのはメンチカツだけ。

「じゃあ……これで」

「メンチカツ一個ね。はい、ちょうど千円ね」

「ありがとうございます」

 会計が終わるやいなや、子供三人は店を出ていきました。

外のベンチで優雅に食事をしています。天蓋から降り注ぐ日光が、無垢な笑顔をキラキラ輝かせています。

「ヒーローごはん食べないの?」

「無いんすよ」

「りら遊んでくる!」

 りらは友達を見つけてつるみに行ってしまいました。

「ゆちゃとなりー」

 要請を請け、新都はゆらの左隣に腰を降ろしました。座った途端、流れるように膝はゆらの頭に占拠されます。

「あたらしいままかわいいのーあといっかいねたらーわんちゃんーおるー?」

「いや……二人分の命飼うほどの甲斐性ないすね」

「わんちゃんーぴんくー」

「……いいっすね」

 新都は会話を諦めました。

 右隣の宙は俯いて足をぶらぶらさせています。しばらく静かでしたが、不意に言いました。

「ねえヒーローはふこう?」

 声に抑揚がありません。

「そうとも言えます」

「なんのふこう?」

「なんでも不幸すよ。コードが絡まる不幸、本が折れとる不幸、布団から足が出る不幸、電池が切れとる不幸、お菓子の袋が変なとこで破れる不幸、ゼリーの汁が飛ぶ不幸、服が裏返しの不幸、靴紐がすぐ解ける不幸、軽くこんなもんす」

 宙はなにそれ、と口を尖らせます。

「ぜんぜんふこうじゃないし。やっぱりそらくんのがふこう」

「なんでっすか?」

「だってエイカードかってもらえんし。よわいのばっかだけん、こうかんしてくれんもん」

「分かります。不幸って人によりますよね」

「ちがうもん! そらくんのがふこう!」

「同じすよ」

 宙は地団駄を踏んでうーっと唸りました。

(同じ、だけど一緒じゃない。比べるもんじゃない)

 新都は天蓋を眺めながら、ぼうっと頭の中を巡らせます。


 何が不幸とか幸せとか、違って当然だ。

 性別も、性格も、環境も、食べる物も違うんだから。

 人にはそれぞれ好きなものがあって、嫌いなものがある。女性が好きな人もいれば、真面目な人が嫌いな人もいれば、田舎が好きな人もいれば、ハンバーグが嫌いな人もいる。全員が好きになるものなんて無いんだから、全員が嫌いになるものも無い。

 不幸か幸せかなんて、他人に押し付けるモンじゃない。……これも押し付けのひとつか。結局のところ、押し付けられた側の人がどう考えるかによるし。

 たまに言われることがある。「ヒーローよりも学校に行って勉強したら」って。

 僕がヒーローをしているのは親に言われたからじゃない。いや、最初は親に言われたから、深い意味も考えていなかった。拒否権なんてあって無いようなものだったし。

 けれど、今僕がヒーローをやっているのは僕が選んだからだ。不幸か幸せかなんて、勝手に決められて堪るか。

 誰がなんと言おうと、これが僕の価値観だし、僕の価値観でしかない。


 十五時のチャイムが鳴り、新都は現実に戻ってきます。肩にある暖かさで、宙が身体を預けて眠っていることに気付きました。

 いつの間にか、買い物客の顔ぶれが入れ替わっています。

 膝の上では、目を覚ましたゆらがスカートのポケットに手を突っ込んでゴソゴソしています。

「これあげる」

 ゆらが両手で差し出したのはビスケットの小袋。総菜店で買ったおやつを食べずに残しておいたようです。

 恥ずかしいのか、ゆらの丸い頬は桃色に染まっています。

「たべて」

「……ありがとうございます」

 新都が袋を開けると、中のビスケットは粉々に割れていました。

(一気にはダメだよな……。かけらをひとつずつ摘んだほうがいい感じ?)

「おいしー?」

「はい」

「おいしー?」

「……美味しいす」

 ゆらは満足そうな顔をして、ビスケットを食べる新都をずっと見ていました。新都が焦げそうなほど眩しい笑顔です。

 新都がちまちま食べていると、遠くから男性が「そらくーん、ゆらちゃーん」と呼ぶ声がしました。

「お父さんあそこー!」

 こちらはりらの声です。

「ああ、居た居た。おーい」

 大きな声に刺激されて、宙が目を開けます。

「んぅ……おとーさん!」

 宙が駆け寄った男性――父親はりらと手を繋いで近づいて来ます。

「すみません、うちの子たちご迷惑かけませんでしたか?」

「かっ手にどっか行ったらダメなんだよ」

 まるで新都たちが迷子になったような言い草です。

「こら。りらちゃんもお友達と遊んでたでしょ。お外ではみんなと一緒にって言ってるよね」

 父親は話が分かるようです。

「今日は有難うございました。本当に助かりました」

 父親は新都の右隣に座りまいsた。地面で遊ぶ子供たちを見ながら、肩を揉み解すように回します。

「ここだけの話なんですが、実は仕事辞めてきたんですよ。職場でちょっとありまして……」

 父親が勤める東雲銀行は、六年前までたちばな市で金融界の覇権を握っていました。市民に愛され安定した経営をしていました。しかし、とある事件を発端に「破綻するぞ」「預金が引き出せなくなる」「跡取りに問題がある」と絶えまなく噂されています。そのため、新興の市原銀行に顧客が流れ、噂が本当になりつつあります。

 頭取は代々、東雲家の当主が担っています。

 事件の加害者の一人は、当時跡取りと目されていた東雲信しののめ まこと。東雲家をはじめ関係者の多くが大家に縁があった為、すぐに箝口令が敷かれました。そして加害者らは秘密裏に制裁を下されたのです。

 事件自体が表沙汰になることはありませんでしたが、跡取りの急な挙動を不審がられ、東雲家の経営する銀行の業績は右肩下がりとなりました。本格的に悪化が見えてきたのは三年前。

 頭取が市長選に乗り出し、信の非行が暴露された頃でしょう。

「どうやら、後継者は違う人になるみたいでしてね」

 新たに跡取り候補となったのは親族の男の子。先日の七五三で『みんなでお餅つきやったら仲良くなる』と頭取に言ったらしいのです。真に受けた頭取は急遽、全行を挙げて餅つき大会を開催しました。当然、父親も呼び出されました。

「今日は有給取ってたんですけどね……」

 耐えかねた父親は、近場のレンタル屋の臼と杵を全て貸コンテナに隠しました。餅つきなのに臼も杵も無いので会場は大慌て。そんな混乱の中、父親はトンズラしてきたとのことです。

「この際だから、もういいかなと思いまして」

 目が笑っていない父親は、どこか遠くを見ています。

「朝、会社から電話があったときに、こう、何かが吹っ切れたんですよね」

 父親は「はは」と乾いた笑いを漏らしました。

「……そうだ。これから夕ご飯の買い物に行きますけどヒーローさんも一緒にどうですか?」

(依頼が済んだんなら帰りたいんだけど……)

「りらちゃん、宙君、ゆらちゃん。今日はヒーローさんとお料理しようか?」

「おりょうり?」

「そらくんせん!」

「ゆちゃするー」

「子供たちも懐いてるみたいなので、ぜひ」

 先ほどとは打って変わって、父親は朗らかに笑いかけます。

「とりあえず買い物行きましょうか」

 父親が立ち上がり歩き出すと、りらと宙も続きます。ゆらは新都の顔を伺い、付いて行こうとしません。

(……これが有名な、帰るタイミングを逃したってやつか)

 新都が脱走計画を練っていると、突然、大きな怒鳴り声が商店街に響きました。

「おい斉藤逃げとんじゃねぇぞ! 自分何したんか分かってんじゃろぅが!」

 家族の行く手を阻むのは二人組の男です。痩身の男が、興奮したハイエナのような目つきで叫んでいます。

 父親は咄嗟に、近くにいたりらと宙の手を掴みます。

「探したで、斉藤」

 親玉らしい小太りの男が、身体を威張り反らせて煙草をふかします。短い顎髭を撫でながらアーケード内を見渡しました。

「大きいとこからアタリ付けて正解じゃったな」

 顎髭が余裕こいている隙に、父親はゆっくり後退ってベンチにいる新都に耳打ちします。

「頭取が使ってる『裏』の人達です」

「あ、じゃあ、ここで……」

「とりあえず逃げましょう。もしはぐれたら家で合流で」

 言うが早いか父親はりらと宙の手をしっかり握り、男達とは反対方向に走っていきます。

「追え!」

 痩身に追われ、走り去る父親が最後に言った言葉がアーケードに反響しました。

「ゆらちゃん頼みまーす!」

 追加の依頼でした。受けた依頼は必ず達成すること。それがヒーローのルールです。

 新都は、小さくなる父親の背に何も返せず、ただ動けませんでした。

 よそ見をする新都とゆらに、顎髭が迫ってきます。

「おいテメェ」

 厳つい顔が眼前十センチの距離に現れました。フーッと顔に煙草の煙を吹かれます。

「テメェ何者だ。斉藤の共犯者か?」

「関係ないでーす」

 新都はゆらを抱っこして、全速力で逃げました。吐かれた煙草が鼻の奥にこびり付いて、気持ち悪そうに顔を顰めます。拭おうとするも、腕に命の重さを感じて我慢しました。

「テメェ逃げんなや!」

 顎髭が怒りの形相で追いかけて来ます。しかし、幼子を抱える新都よりも遅く、走るのは苦手なようです。追いつかれないのを良いことに、新都は一目散に逃げました。


 顎髭から遠ざかるように長いアーケードをひたすら走ると、ふと、ビジネスビルが目に留まりました。二階の大きな窓に活字体で『木更城源五郎事務所』と書かれています。

(これこそ不幸中の幸い。最近移転したんだっけ)

 新都が臆することなくチャイムを連打すると、眼鏡を掛けた秘書の男性がドアを開けました。

「はいはい何方様でしょうか。おや新都様でしたか」

「すんません、ちょっと匿って下さい」

「はい?」

 眼鏡の奥で目を丸くした秘書が何か言いたげにしていましたが、軽く会釈して押し入ります。

「あの新都様、事情をお聞かせ下さいませんか」

「すんません緊急事態で、五分くらいなんで」

 秘書の訝しげな顔を背中に感じつつ、二階へ逃げます。商店街に面した廊下に座りこみ、やっとのことで一息つくと、どっと疲れが襲って来ました。こんな時ばかり、ふくらはぎが一丁前に痺れて存在を主張します。

「おうちー?」

「家……とは違うっすね。住んでないだろうし」

「ゆちゃヒーローいっしょー!」

 ゆらの甲高い声が狭い廊下に反響します。

「しー、です」

「しー?」

 静かにするよう言ったのに、何故かゆらはニコニコしています。怖がって騒がれないだけマシでしょう。

(僕が木更城の人間だってバレたら、人質どころじゃないかもな)

 受けた依頼は必ず達成すること。

 それの意味するところは、木更城の名前を――ブランドの格を上げるためでありました。

 名前を広めるだけなら街宣車で市内を回り、地域行事に顔を出していればいいことです。しかし、それは先代までの為政者が陥ったミス。その結果、自分が痛い思いすれば、別の方法を取るのが人間というものです。

(籠の鳥は飼われていることに気付くと見放される)

 大人しく飼われているのは、新都なりの反抗でした。新都がニートであれば、木更城の世間体は悪くなります。

(蚊みたいなものだ。終わりに気づいた虫けらの、少しばかりの抵抗)

 木更城の望む未来のために、新都の人生にはレールが敷かれていました。決められた道を外れると危険。逆にいえば、決められた道の上にさえいれば安全は保証されます。

(たとえ籠の鳥でも、居心地がよければそれでいい。それがいい)


 十分ほど経った頃でしょうか。大きな声で威嚇する顎髭の怒号が間近に聞こえました。

「けったいなトコ逃げやがってクソガキ! 早よ出てこんかい!」

 新都の心臓は不思議なほど落ち着いていました。

(東雲の人って言ってたよな。それなら、この事務所は近寄りにくいはず。ここに居れば安全だ)

 男の声が静かになり、新都は様子を伺うために窓から顔を覗かせました。

顎髭は、ちょうど木更城事務所を睨み上げていたようで、バッチリ目が合いました。

「あっガキてめぇ!」

(大丈夫。大丈夫。ここには入ってこれない)

「そこで待っとれよ!」

 新都の祈りも虚しく、顎髭は前のめりで非常階段を上がってきます。

(こんなに見境なくなってんの⁉)

 逃げ道を探せ。探せ。

 新都は頭をフル回転して考えます。階段で降りれば逆に追われやすくなる。近くの空き部屋には窓、すぐ外は裏通り。ここは二階で下は植栽。

(……いける)

 新都は、ゆらをしっかり抱えて窓から飛び出しました。草と土がクッションになり華麗に着地成功、と思ったら……

「あてっ」

 後ろにコケて盛大に尻を打ちました。

「いたいー?」

「だ、大丈夫です」

 尻の痛みもなんのその、服に絡み付く葉っぱも除けずに植栽から脱出します。

「新都様お乗りください」

 裏通りにはグレーのバンが停まっていました。眼鏡の秘書が運転席から助け舟を出します。新都はすかさず後部座席にゆらを乗せ、自分も乗り込みました。

「すんません。迷惑掛けてしまって……」

「構いませんよ。これも依頼なのですよね」

「……ホントすんません」

「ゴラァガキ! 隠れとんじゃねぇぞ!」

 顎髭の遠吠えをバックに、車は止まることなく裏通りを走り抜けます。

 新都は安全な車内から何度か振り返りましたが、顎髭が追ってくる様子はありませんでした。きっと、事務所に残っている人たちが取り押さえてくれている事でしょう。

 しばらく車を流していると、やがて秘書が口を開きました。

「新都様、不躾では御座いますが、何方に向かえば宜しいでしょうか」

「あー、えっと……」

 新都はジーンズのポケットを探りました。家の住所が書かれた空の封筒は、尻ポケットに突っ込んでおいたままです。

「これ、ここにお願いします」

「畏まりました」

 秘書は付箋を一瞥するとハンドルを切りました。


 疲労困憊でボロボロのアパートに辿り着くと、父親が玄関のドアを開けて迎えました。

「ああ、ヒーローさん。お帰りなさい」

「おとーさーん」

「ゆらちゃん無事だったか、良かった! 怪我ないか?」

「うんー」

 父親は、ゆらの顔をさすったあと強く抱きしめました。

「よし、じゃ、家に入っといで」

「……」

 父親が促しますが、ゆらは父親の足元にぎゅっとしがみついたまま離れません。

「ヒーローさん、今日は本当にありがとうございました」

 父親はゆらを抱き上げて「家、入りましょう」と言いました。

「あの人たちはここまで来ないんすか?」

「ああ。前々から辞めようとは思ってたんで、会社の書類は前の家のまま変えてないんですよ」

 大したことではないような素振りで、父親は話題を変えます。

「夕ご飯どうですか? これから買い物になっちゃいますけど」

 新都は「お構いなく」と言って玄関から動きません。

(依頼はもう終わったんだ。僕はもう帰るんだ)

「そうだ謝礼を……」

 攻撃をやめない父親に、ポケットに入れたままだった空袋を見せて撃退します。

「もう貰いましたビスケット」

「え?」

「その子から」

 父親は不思議そうな顔をしていましたが、構わず新都は定型文を口早に告げます。

「今日はヒーローのご利用ありがとうございました。次回の選挙では木更城源五郎をよろしくお願いします」

 失礼します。と玄関のドアを閉めました。


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