第一話 アザミウマ
たちばな市は、西日本にある地方都市です。
山の麓にアーケード商店街や住宅地が連なっています。
堅実な市政と豊富な教育、循環する経済活動がおこなわれ、地方においても年々人口が増加している稀有な街でありました。
街の西側、閑静な住宅地に武家屋敷がありました。建築からゆうに百年は越えていますが古ぼけた印象もなく、美しさと荘厳さは健在です。立派な門構えには人の身長ほどもある栗の一枚板が掲げられ、流麗な筆文字で『市原』と刻まれています。
家人の朝食が終わった時刻を見計らって、
冷たい三月の空気の中、ピリリと機械音が鳴りました。源五郎は胸ポケットから携帯電話を取り出し、パカリと開いて電源を落とします。
視線を下げると、手に持った大きな籠では双子の赤子が眠っています。穏やかな寝息を立てる男の子と女の子は、源五郎の初孫です。今日この屋敷にやって来た目的は、この二人のためでありました。
源五郎はゴコン、ゴコンとチャイム代わりのノッカーを打ちました。間もなく使用人が通用口を開いて源五郎を中に迎え入れます。
「お邪魔いたします」
源五郎は薄手のコートを脱ぎ、軽く一礼してから通用口をくぐりました。遠くで鹿威しがカコンと小気味良い音を鳴らします。
客間に案内されると、使用人は「こちらでお待ち下さい」と障子を引きました。
四畳半の客間で、源五郎は当然のように下座に座り、籠を隣に置きました。しかし、使用人は上座を勧めようとはしません。
もし、この屋敷以外で源五郎がそのような扱いをされたならば、使用人は即座に首を切られるでしょう。しかし、ことこの屋敷に限っては上座を勧める行為こそが無礼にあたります。上座に座るべき人物は、客人である源五郎を差し置いても格上なのは明らかなのですから。この街で上座が許される者は、もう存在しません。
四十路はとうに過ぎている源五郎ですが、この屋敷に漂う緊張感には未だ慣れません。身体の強張りを解すように、小さく息を吐きました。正座をしたまま肩から力を抜きます。
しかし、これから会う人の事を考えると心臓は勝手に硬くなりました。
廊下から微かな足音が近づき、使用人が障子の向こうから言います。
「失礼いたします。先生がいらっしゃいました」
人が入ってくる気配を察すると、源五郎は上座へ手を揃え、まっすぐ頭を付いて迎えました。微かな衣擦れの音で当人が正面に座ったと分かると、そのまま挨拶を口にします。
「一色先生、十月(とつき)ぶりでございます」
言葉を選ばない者から『化物』とも呼ばれ恐れられる人物です。
一色はまっすぐ源五郎を見ています。否、源五郎でさえも視界に入らず、誰もいない虚空をぼんやり眺めているようでした。
「なにか」
声を発した瞬間に、部屋の空気がぐっと引き締まります。源五郎は毛が逆立つのを感じ、一色が放つ目に見えない力に圧倒されます。
機嫌を損ねぬよう、急いで言葉を返します。
「一色先生に、この子らの名前を付けていただきたく参りました」
木更城家と市原家は昔、この地を訪れ山を拓き、田畑を耕し、海を広げたとされる御三家であります。御三家は互いの家と権力を守るために、三家内の一番年寄りを意思決定者に据えました。その者には多くの裁量が与えられており、そのうちの一つが名付け親であります。
木更城家の現当主である源五郎も例にもれず、伝統保守派でありました。先達が作り上げた街と守ってきた伝統は、当然守るべきと思っていました。つい十か月前までは……
一色は籠で眠る赤子を一瞥し、源五郎に問いました。
「東雲の子か」
「はい。一昨日の朝方、娘が産みました」
双子の母親は源五郎の娘であります。母親に似た幼い顔立ちをした双子は、えぅと小さく泣きました。声に釣られて、源五郎は伏せたまま赤子に目を配ります。
「なぜお前は今日来たのか」
「っ……」
源五郎は息を呑みました。咥内が全て苦くなり、乾燥して舌がうまく動きません。畳の目が眼前に迫り、眼球が回るような錯覚を感じます。目を閉じ眉を寄せ、急ぎ思案します。
娘の担当医からは、母子ともに健康であっても五日間は外出を禁じられていました。外気に触れて病気を貰わないためでもあり、双子の体質上、慎重に経過を見るためでもあります。
しかし、源五郎は指導を無視し、出産後二日で屋敷に来ました。
先程の一言でその事実を見抜かれたことと、一色の見識の広さに驚きつつも強く主張します。
「木更城の人間なら、当然三日と要りません」
眉間の皺が深くなります。
「この子らは、小さくとも木更城の人間であります。であれば当然、何歳であろうといつでも万全の状態を維持しなければなりません。この程度で死ぬならば、そこまでということ。ならば「御託はよい」
一色は静かに、力強く、源五郎の言い訳を遮りました。
「嬰児らは五徳に乗せられた。お前はどうする」
「……お望みの通りに」
「これは娯楽ではない」
「はい」
源五郎が即答すると、一色は寸の間瞼を閉じ口を歪ませました。客間に鹿威しの流水が轟きます。
「筆を持ちなさい」
障子に声を掛けると、すぐに使用人が文机と硯を用意しました。
静寂な部屋にサリ、サリと墨を磨る音が響きます。
源五郎は姿勢を正し、目を閉じて幽香を堪能しました。香りは確かに身体を変化させます。静かな部屋に同調するように、源五郎の強張っていた心臓は落ち着きを取り戻していきました。
一色は墨を筆に持ち替えました。まっさらな半紙に、黒墨に染まった筆先を静かに置きます。半紙の右側に女児の名を、一度墨を足してから左側に男児の名を書きました。墨が乾くまでの間、一色は瞑想します。
終筆の溜まりが消え、鹿威しが幾度か鳴いた後、命じました。
「これを」
一色の指示で使用人が動き、黒盆で半紙を受け取ります。盆のまま源五郎の前に置かれると、源五郎は書かれた名前を口に出しました。
「
「吉兆は益にも害にもなる」
「どちらでも、ということですか」
一色は濁りはじめた瞳で源五郎を見据えます。蛇に睨まれた源五郎は、鼓動が速くなったように感じました。恐怖からではありません。
(木更城の名を汚さぬように、私がこの子らを育てていかなければならない)
小さな命が人として生まれ落ち、名前が付いたことで一層気を引き締めました。
「お前の思うようにやってみなさい」
「はい。私はずっと、私の為だけに動く手足が欲しかったのです。この子らは……」
一色の激励に、力強く答えます。この街に巣食う伝統のために、この双子は生まれてしまいました。もう、無かったことには出来ません。
そう言い聞かせていても、源五郎の中には未だ罪悪感が残っていました。
源五郎は持参した”たとう”に半紙を置き、もう一度筆を眺めました。たった今書き下ろされた文字が滲みはじめたかと思ったら、滲んでいたのは源五郎自身の目頭だと気付きました。
「私も年を取りました。
「力、徳、脳を得て、そこに収まるか」
「それが私の結論です」
源五郎は書を丁寧に包み、籠に差し込みました。柔らかい毛布に包まれ、双子と書が仲良く眠っています。
その動作の音に混じり、屋敷の前が少し騒がしくなりました。雪見障子から見える建築中の高層マンション『木更城ビル』の作業音とも違います。喧騒は一色の耳にも入り、眉を顰めました。
「なにか」
廊下から使用人が「表で記者が集まっております」と答えました。
源五郎が市原家を訪ねたと知れば、マイクを握りカメラを構えるのは当然のこと。孫の情報を聞き出そうと躍起になっています。
源五郎にとって今日の訪問は、赤子を連れた挨拶とともに、木更城家の盤石を周知する場でもありました。木更城家で話題があれば隠さず提供し、自らが表に立つ。木更城家は市民の関心の的なのだと内外に示すことで、敵対勢力を牽制します。
目論見は伝えていないはずなのに、一色はそれさえも的確に推測しました。
「ここでやるのか」
「煩くして申し訳ございません。門前を少し拝借致します」
「市長の役は忙しいか」
「はい。現職のままでも役目は果たします」
目論見とは裏腹に、一色に対しては角度の違う思いを抱いていました。命名という役割を与えると同時に、その行為自体に勇退の懇願を暗に込めています。
「木更城様、そろそろ」と使用人が源五郎を促します。
「それでは先生、失礼致します。桜祭りのたちばな舞、楽しみにしております」
源五郎は深く頭を下げ、客間を後にしました。
門前、源五郎はカメラに向けて答えます。
「孫は男女の双子で産まれました」
「名前は市原一色先生より頂きました。木更城鮮美、木更城勇馬といいます」
「このたちばな市では夏が近づくと橘の花が咲きます。白い花には純潔、清廉という思いが込められており、この街の象徴です。私も一層身を引き締め邁進していく所存で御座います」
三年前の映像が、『木更城ビル』上階のダイニングで流れていました。
ソファに座った女の子が画面をじっと見つめています。綺麗に整えられた長い黒髪に白い襟のワンピースを着た彼女。その目は画面中央の市長ではなく、背景に映る市原邸を観察しているようです。
ソファの前では、顔のよく似た男の子が胡座をかいています。緑の襟付きシャツにライダースパンツ。背を丸めて小さな手でマイナスドライバーを操り、テレビのリモコンを分解して床に並べていました。電池蓋、電池、四角いボタン、丸いボタンと種類ごとに整列させられています。
「まー君遅いね」
「下痢してるかな」
「勇馬ぁ、ここ正面ダメだけんね、横からだよ」
「横の生垣」
かつて籠の中で眠っていた小さな双子は、今年で三歳になります。
テレビ番組が天気予報に切り替わると、廊下から扉が三回ノックされました。双子が揃って扉を警戒するとノブが回され、身なりの整った背の高い男が扉を開けます。上司から支給されたスーツベストが不釣り合いなほど若い男です。
「鮮美様、勇馬様、おはようございます」
「おはよー!」
「はよ」
双子は同時に立ち上がり、男のもとへ駆け寄りました。立ってみると、二人とも平均より幼い体躯なのがよく分かります。
男は扉の前で片膝を付いて目線を合わせ、手帳を読みながら二人に伝えます。
「本日は病院のあと、旦那様のお宅へ伺い昨日の報告をします。帰宅し軽食のあと、十四時に白川先生がいらっしゃいますので数学・日本史のお勉強です。質問は御座いますか?」
男が問いかけると、鮮美は首をコテンと傾げました。手を後ろに組んで上目遣いをし、わざと可愛らしい声を出します。
「お爺様とお食事するの?」
「いいえ。旦那様は、市原英博様と会食にございます」
「どちらで?」
「市原様のご自宅です」
男が答えると、双子は互いに目を合わせます。
「さっきのとこ?」
「行きたいね」
鮮美がにやっと笑って男に聞きました。
「私と勇馬だけで病院行ってもいい?」
「いけません」
「二人で行けるよ?」
「旦那様に許可を頂いておりません」
「けち!」
男が言葉遣いを指摘するよりも早く、双子は男の横をすり抜けます。
「鮮美様! あ、勇馬様!」
双子はタタタッと全速力で走り、すぐ近くのプレイルームに駆け込みました。扉を閉めれば、間髪入れずに男が勢いよく開け放ちます。
「ぅぷぁ!」
背の高い侵入者のみを絡めとったのは、食品用ラップ。なんの変哲もない市販品です。男の顔の高さに取り付けられた、二つのハンガーに意図的に巻かれていること以外は。
男が顔面からラップを引き剥がすのに手間取っていると、勇馬はすかさず玩具の入ったプラスチックケースを抱え、中身をぶち撒けました。
「あぃた!」
足を後ろに引いた男は、転がった三角積木に全体重を乗せました。可愛い凶器は剣山の如く牙を剥きます。慌てて避けると、今度は丸積木で滑って尻餅をつきました。
「お、お二人とも、悪戯はほどほどに……」
冷や汗をかく男を尻目に、鮮美は部屋の壁際まで下がり、助走をつけて男に向かって走り出しました。男はその行動を理解できなくとも、本能的に腰を引いて回避しようとします。が、鮮美は速度を落とすことなく突進し、ちょうど右足の位置にあった男の股を踏みつけ、左膝で顔面を打ちつけました。
「ぁぐっ」
男は背中から廊下に倒れ、後頭部を強打しました。背を丸めて股間を守り悶えつつ、鼻が取れていないか脳味噌が漏れ出ていないか確認します。
その間にも、勇馬が男の横腹を飛び石代わりにして廊下に出ました。双子は、男の手が届かない安全地帯まで離れます。窓から差し込む朝の光を背負い、満面の笑みで言いました。
「私たちは復讐じゃないよ」
「僕らはただの悪戯」
文字通り踏んだり蹴ったりされた男は、奥歯をギリリと噛みました。身体の痛みで動けず、冷たいフローリングに突っ伏すことしか出来ません。
「お爺さまのとこにはちゃんと行くけん!」
「最初からそのつもり」
双子は仲良く玄関へ駆けていきます。しかし、やはりまだ子供。男を弱体化することはできても、鍵の存在は忘れていたのでしょう。つい一昨日勇馬がピッキングで壊した鍵は、二重ロックの最新式に交換してあります。男が持つ複製不可能なキーでしか開けることはできません。
「鮮美ちゃん、これ」
「おっけー」
勇馬が肩車の下から、頭上の鮮美に小さな銅色のキーを渡しました。双子は当然のようにドアを開けて出て行きます。
「あ、あれ?」
男が鍵を下げていたベルトには、マイナスドライバーだけが刺さっていました。
お昼を告げるチャイムが病院内に流れた頃。
「成長ホルモンって言われてもさ、ちっちゃいほうがいいよね」
「小は大を兼ねる」
診察を終えて駐車場に戻ってきた双子は、隅の一角に置いたアメリカンバイクの点検をしました。
子供用の玩具を、専門の職人によってエンジンやバッテリーをカスタムした物です。闇に溶け込む黒色のボディは擦り傷どころか埃ひとつ見当たりませんが、双子はバイクの前に屈んで点検を始めました。サイドカーの中とホイールの裏も隈なく見て、異物がないかチェックします。このバイクを与えられた時から、身を守るための習慣を欠かしたことはありません。
点検が終わると鮮美はライダースジャケットを羽織り、ジェットヘルメットを被ります。サイドカーのドアを開けて乗り込めば準備万端。
勇馬はジャケットを着たあとシステムヘルメットを被ってバイザーを下げます。シートに跨ったあと、バイクのエンジンを回しました。
駐車場の裏口から出て、人通りの少ない道を選びつつ次の目的地へ向かいます。
「おっきくならんかったら注射でしょ?」
「だね」
「こあいよー」
鮮美はわざとらしく眉を下げて瞳を潤め、自分の肩を抱きます。
「こあいね」
勇馬が答えたあとには、すでに遠くを睨んでいました。
「勇馬止めて」
「ん」
勇馬がすぐに徐行に切り替えると、鮮美は足元に置いてある赤いランドセルを持ちました。バイクが停まるとヘルメットとジャケットを脱いでサイドカーの中に押し込みます。
歩道脇の私有地、猫の額ほどの草むらで怪しくたむろする集団がいます。
鮮美は歩いて近付き、下校中にたまたま通りかかった体を装い舌足らずに話しかけました。
「おじさんなにしてんの?」
「ぁあん? 子供はあっち行っとけ!」
「なんや」
痩身の男が威勢よく突っかかってきたあと、短い顎髭を蓄えた小太りの男が振り向きました。
男達が囲むのは選挙用の看板。今期の候補者二名のポスターが掲示されています。そのうち、現職のポスターが乱暴に引き裂かれていました。
「ちいっとポスター直しとっただけやで」
顎髭の手には、刃が出たカッターナイフ。
鮮美はランドセルの肩ベルトに付けた防犯ブザーに指を掛けました。
「やめろガキ!」
「いちたすいちはー?」
「それ寄越せっ」
「にーだよ」
痩身が鮮美に掴みかかろうとします。鮮美は腕を避けながらボタンを押すと、甲高い警告音が鳴り響く――ことはなく、代わりに小さくカシャッと音がしました。
「こんのガキ! 馬鹿にしやがって!」
「沸点ひくーい」
すぐに鮮美は男達に背を向けて全速力で駆け出しました。
鮮美は世話係と遊んで鍛えられているため、瞬発力と持久力には自信があります。が、やはり歩幅が狭い分スピードもあまり出ません。
痩身はリーチだけは長いため、たなびく髪を捕まえられてしまいそうです。鮮美は電柱を身代わりにし、ガードレールを飛び越えて間一髪避けていきます。
しばらく戯れていると、T字路の向こうから聞き慣れたエンジン音が微かに聞こえました。カーブミラーには見慣れたアメリカンバイクと相棒が映っています。
鮮美はエンジン音に合わせるように一段階ギアを上げました。T字路に差し掛かると丁度、勇馬の運転するアメリカンバイクと鉢合わせます。
「ぴったり!」
鮮美は走ってきた勢いのままサイドカーに飛び乗ります。
バイクはそのまま走り抜けてT字路を置き去りにしました。鮮美が後ろ向きで眺めていると、男達はやっとT字路に来ます。最後に、にっこり笑いかけて手を振りました。
目的地に着いた鮮美と勇馬は、バイクのエンジンを切ってしばらく歩きました。
街の西側、閑静な住宅地にある武家屋敷です。先ほど通り過ぎた正門には『市原』の表札が掛かっていました。
外塀をぐるりと回り、屋敷横手の人目につかない日陰にバイクを駐車しました。双子は揃って生垣を見上げます。
「いけそう!」
「おけがわぬき?」
「お洋服汚れちゃうかな?」
「良い物ある」
勇馬はバイクのシートを開けて、チェック柄のピクニックシートと折り畳み式のアウトドアチェアを取り出しました。生垣の下にアウトドアチェアを突っ込み、シートを広げます。
その間、鮮美はランドセルの前ポケットから現像された写真を抜き、パタパタと仰ぎました。
「お土産でーきた」
「できてた?」
「ばっちり!」
鮮美は写真をワンピースのポケットにしまうと、膝をついてアウトドアチェアをくぐり抜けます。後から勇馬がくぐり、アウトドアチェアとシートを引き抜いて証拠隠滅しました。
敷地に侵入した双子は菜園、納屋、土蔵、庭園を自由に探検しました。偶に使用人とすれ違いますが、上手に隠れて見つかることはありません。ふと、屋敷の縁側を歩く人影を見つけました。
「英博さんだ!」
「一緒に遊ぼ」
楽しそうな子供の声に人影は足を止め、ガラス戸を開けました。細身の男性が柔らかく笑いかけます。
「誰かと思えば、木更城さんとこのチビちゃんでしたか」
数年前に屋敷と家督を受け継いだ主人――
鮮美はワンピースの裾を摘んで左足を後ろに引き、勇馬は右手を胸に当てて頭を下げました。
「お久しぶりです、英博さん」
「お久しぶりです」
「これはご丁寧にありがとう。今日はヨーロッパのご挨拶でしょうか?」
「はい」
鮮美は軽く頬を染め、首をコテンと傾けました。
「急にお邪魔してごめんなさい、英博さんにご挨拶したくって」
英博は「ふふ」と目を細めました。
「建前もお上手になりましたね。僕ではなく、木更城さんに会いに来たのでしょう。客間に来られてますよ」
「「ありがとうございます」」
双子は揃って手を前に組み、深く頭を下げました。いろんな意味を含めて。
「お家からここまで遠かったでしょう。お昼はまだでしたら、ご一緒にいかがですか?」
「喜んで!」
「いただきます」
英博は使用人を呼んで食事の追加を命じます。
英博と双子は縁側から上がり、三人並んで客間に向かいました。
続き間の広い和室に着きました。英博が襖を引くと、中では源五郎が立って掛け軸を眺めています。
「木更城さん、お待たせしました」
「やあ英博さん……」
英博が双子を連れていることに気づき、源五郎は呆れたように溜息を吐きました。
「お前たち、また……」
双子は悪びれることなく言います。
「今朝テレビで拝見したのです」
「三年前のお爺さま」
双子が笑いながら言うと、英博も目を細めました。
「それ僕も見ましたよ。お二人の命名の時ですね、懐かしい」
「そういえばもう三年経ちますか。この子らも大きくなるわけです」
「背は少し伸びましたか」
「赤ちゃんより大きいです」
「生後千日」
談笑しているうちに、使用人から食事の準備ができたと連絡が上がりました。
配膳が整うと、四人はそれぞれ席につきます。源五郎は上座、英博はその向かいで、双子は下座です。
鮮美と勇馬は手を合わせた後、ついで事のように言いました。
「英博さん、横の生垣危ないですよ」
「簡単に通れました」
英博は刺身に伸ばしていた箸を止めて「ふふ」と目を細めます。
「流石ですね」
源五郎は眉を下げて笑いました。
「ご迷惑掛けて申し訳ない」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
源五郎は「それで」と双子を視界に入れました。
「二人は何しに来たのだ?」
鮮美は食べかけだった唐揚げを一口で飲み込んで、ワンピースのポケットから素早く写真を取り出します。源五郎の隣に移動し、写真を差し出しました。
「先程、病院の近くで撮りました」
「ふむ」
源五郎が受け取った写真には、痩身と顎髭の男が鮮明に写っています。
「トカゲの尻尾はいくら切ってもしょうがない。根性だけは一人前のようです」
「何度目ですか」
「今期だけでも七か所、勧告は四回」
「いよいよ、正攻法では勝てないと見ましたか。二度も落ちたら、勝ち目がないと分かりそうなものですが……」
「私がくたばるのを待っているのでしょう。その時のために布石を打っているのです」
「木更城さんが失脚したら、この街が手に入ると思っているのでしょうか?」
「あちらは街よりも跡取りが大事のようで、温情の催促も来ます」
「ああ、成程」
それより、と英博は声音を変えて本題に移りました。
「今回の演説回りはどのように致しますか。僕は若い層、特に選挙権を持ったばかりの学生へアプローチしたいと思うのですが……」
「私もそう思っていました。いずれは街を回していきますから」
二人は数秒思案したあと、英博が先に口を開きました。
「手始めに
「『美夜』ですね。商店街回った時に覗いてみましょう」
「承知しました。僕から商工会に話を通しておきます」
英博は「市長選の競合もそうですが」と声色をワントーン下げました。
「父が亡くなってからというもの、下の者たちが騒がしくなっていますね」
英博がだし巻き卵を箸で割ると、半熟の黄身が流れ出ました。正面の源五郎を挑戦的な目で見ます。
「以前のように、天上の為政者が必要だとお考えですか?」
はは、と乾いた笑いが広い客間に響きます。
「滅相もない。それで痛い目見ましたから」
英博は「ふふ」と目を細めます。
「では、いっそ本体を切ってしまうのはいかがですか?」
「そろそろいい頃合いですね。あとはどう叩くか……」
源五郎は「ふむ……」と考えたのち、爪楊枝を持ってサザエの〝首〟に挿しました。
「奴の非行は全て把握しています。新聞屋にでも売りましょう」
手首を捻って回すと、簡単に身が晒されます。
「当然、東雲銀行にも影響が出る。東雲が信用できなくなれば、市民は口座を市原銀行に変えるでしょう。この街の企業なら、東雲からの融資は消極的になる」
くるんと巻いた尻尾の先まで抜き出ると〝仮面〟を外して肝ごと一口で咀嚼しました。
「そこで消えるのならそれまでのこと。生き続けるのなら飼い殺してあげましょう」
飲み込んでから真っ直ぐ前を向いて言います。
「そうすれば政治も、金融も、全て手の内のまま」
「今日のは特別立派なサザエですね」
「自慢の品です」
大人たちの不穏な会話が、卓上で繰り広げられていました。
傍らの双子が静かだと思ったら、鮮美は小さな爪でトマトの皮を剥ぎ、勇馬は黙って器ごと奥に動かしていました。
見かねた源五郎が厳しく咎めます。
「二人とも、出されたものは全部戴きなさい」
「まあいいじゃないですか。子供らしくて」
英博が優しい声音で宥め、鮮美と勇馬はにっこりと目を細めて甘い声を出しました。
「ありがとう英博さん」
「ありがと」
「どういたしまして」
双子と笑い合ったあと、英博は源五郎に向き直りました。
「可愛いものですね。こうしていると、彼の血が入っているとは思えない」
英博は襖の向こうの、冷たい廊下に居るだろう男を見遣りました。
「木更城さんは後継者はどなたに? やはり『ヒーロー』ですか?」
「あの子は結果は良いのですが、本人の気を乗らせるのに苦労するようです」
源五郎が箸で挟んだ冷奴は一度するりと抜け落ちました。もう一度掴むと今度はしっかりと持ち上がり、そのまま口へ運びます。
「長男か次男か、まだ迷っているのです。一番候補だった娘は三年前に絶たれましたからね」
源五郎は今にも消えそうな弱々しい声で続けました。
「先に手を出したのはうちの娘とはいえ、できることなら奴とこの子らは離すべきでした。しかし叶わなかった。それだけが悔やみきれないのです」
鮮美と勇馬を慈しむように見ます。
「せめて害虫にも益虫にもなれるように、一色先生は二人に名前を下さったのです」
英博は目を丸くしました。
「僕はてっきり、いつものシャレだと……」
「私がそう思いたいのです」
源五郎は力強く繰り返し、双子の目を真っ直ぐ見ました。
「お前たちの行動次第で、未来はどうにでも変えることができる。頼りにしているよ」
双子は目を合わせて、それから鮮美がにやっと笑いました。
「任せて!」
「ください」
四人は和やかに食事を続けました。
「おい」
源五郎が短く声を発すると
「はい」
廊下で、身なりの整った背の高い男が応えました。
「お前は一度東雲に帰り、自分の罪が公表されると伝えてきなさい」
「……はい」
男はすぐに立ち去りました。
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