だって、しょうがないの

 あっというまに、お兄ちゃんたちはわたしたちの家を占領した。

 普段は恭くんが座っているソファに、お兄ちゃんと沙綾先輩が座って。ダイニングテーブルには、真衣ちゃんと誠先輩が座る。


 わたしはいつもの「犬」の格好――裸に首輪とミトンの格好だけになって、四つ足で立たされている。

 恭くんは。そんなわたしの斜め前――普段よりも少しだけ前に出たところに、立っていた。


「さーて、恭。今日も見せてもらおうかな。咲花を存分にいたぶっているところをさ。俺たち、仲間だもんな、恭?」


 恭くんは、拳を握り締めて、うつむきながら。

 下から見ても青ざめているとわかる顔で、だけども、……何か小声で言った。


「あ? なんだよ。聞こえねえな」

「……やらない」


 沙綾先輩も、真衣ちゃんも、誠先輩も。

 みんなが。場の空気が。凍りついた。


「……よく聞こえなかったなあ。もう一度言ってみろ」

「やらない。俺はもう、言いなりには、ならない」


 ちょっと、……ちょっと、と真衣ちゃんが苦笑するように言ったけれど、その苦笑はすぐに重たい沈黙のなかに溶けた。


「自分が何してんのかわかってんのか、恭。俺の言うこと聞けねえんだったら、おまえ、もう一度『仲間』から『奴隷』に転落だぞ」

「……服を脱がせて、鞭で叩いて。満足するなら。していけばいい。……それで、帰って」


 恭くんは。

 拳も肩も震えて、声もちょっと、震えていたけれど。


 だけども――堂々と、していた。


 お兄ちゃんの瞳に、本物の怒りが灯ったのが、わかった。


「……奴隷の惨めさも、情けなさも、鞭の痛みも。忘れちまったみたいだなあ。教えてやるよ。もう一度」


 だめ――。

 お兄ちゃん、恭くんをこれ以上殴らないで。

 いじめないであげて。


 言いたいのに、……言えない。

 だって、……だって、怖いから。


 言ったら、今度はわたしが痛い目に遭う。

 もう……痛いのは、いやだから……。


 きゅうん、とさえわたしは言えなかった。

 ただ、目立たないように黙っているので……精いっぱいで……。


 だけど……恭くんが殴られないでほしいのは……ほんとうだから……。


 恭くんは、ふと、こちらに視線を向けた。

 その顔は――はじめて見るかもしれない、小さな微笑みだった。


 慈しむかのように、憐れむかのように。

 優しく、それでいて、軽蔑するかのように。

 恭くんは、遥か高みからわたしを見下ろしていた。


 そして恭くんが、ふと視線を動かして見た先には――棚に飾ってある、……犬のぬいぐるみがあった。

 わたしが、昔、恭くんにあげたもの。……半ば、無理やりに。


 あのときの。

 お兄ちゃんとの会話が、頭のなかに響く。


『面白くなかったら、お前も奴隷になれよ』

『……そ、それだけは、あの、ごめんなさい。――あっ。ね、ねえ恭くん、――ぬいぐるみで気持ちいいことしてみたらどうかな?』


 結果的に恭くんの、……大事なものを奪って。

 押し付けるかのように。……与えて。


 わたしは、奴隷にだけはなりたくなかったから。

 ううん。……違う。

 自分がもっと酷い目に遭うのが、いやだったから。


 いまだって、結局わたしは変われていない。

 正直なところ。ちょっとだけ。……安堵している。


 今夜はきっと、恭くんがたくさん、いじめられて。

 わたしは、ちょっとだけで済むんだ、って。


 恭くんを想うなら。

 なりふり構わず、やめてよお兄ちゃん、と言うべきなのかもしれない。


 でも、でも、だって、しょうがない。

 ……しょうがないの。


 わたし……だって……怖いから……。


 恭くんは、まるで――そんなわたしの醜さを見透かしているかのようだった。


 そして――。

 わたしは案の定、ダイニングテーブルの脚に鎖でつながれて放置されている。

 今夜のみんなの興味は、恭くんにある。

 真衣ちゃんがスマホで恭くんを撮って、誠先輩と沙綾先輩は、お酒を飲んでいる。


 恭くんが。四つん這いにされて。鞭で。叩かれている。


 お兄ちゃんは容赦なく、恭くんの背中に鞭を振り下ろす。

 ただでさえ昔、お兄ちゃんたちに鞭で叩かれに叩かれて、傷跡がいまでも筋のように残り続けている背中に。


 今日の鞭は、普段よりも、激しかった。


 恭くんは、格好よく耐え続けられたわけではなかった。

 普段通り呻き声もあげたし、悲鳴もあげた。


 だけど普段のように、……昔のように、懇願は、しなかった。

 謝りも、しなかった。


 誠先輩が、恭くんの顔を蹴る。

 恭くんはバランスを崩して、倒れ込んだ。そのお腹を、誠くんが更に蹴る。


「……恭。謝らなくていいのかよ。このままだと、マジで鞭打ち千回コースかもしんねえぞ。いやだろ、鞭は」

「……ほんとだよ……いやだよ……鞭は……もう」

「だったらさあ――」


 恭くんは誠先輩を見上げるだけで、それ以上、何も言わない。


「……はー、手ぇ疲れたわ。ちょっと煙草吸いに行ってくる。誠、パス」

「……おう」


 お兄ちゃんは誠先輩に鞭を渡すと、大きなため息とともに外に出て行った。

 急に静かになった部屋で、沙綾先輩が口を開く。


「……どうすんの。これ」

「えっとお……」


 誠先輩は鞭で軽く恭くんを叩くけれど。

 恭くんはもう、その程度の痛みだと反応もしないって――わかってるはずなのに。


 真衣ちゃんも、口を開く。


「奴隷のくせに生意気ですね……もっと痛めつけてやったらどうでしょう? あっ、傷口に塩でも塗り込みますか?」

「……沙綾さん。誠さん。真衣さん」


 三人は一斉に恭くんを見た――恭くんのほうからみんなに話しかけるなんて、……むかしだったら、ありえなかった。


「俺は……いまの生活を、穏やかに続けたいだけなんです。そっちも、そうでしょ?」

「どういう意味――」

「真衣さん。東京都出身なんですね。俺と同じ県の出身だったはずなのに」


 真衣ちゃんの表情が、凍りついた。


「……え?」

「沙綾先輩は、神奈川県の有名私立高校出身で。誠先輩は、ミステリアスなんですよね」


 すごいですね、と――恭くんは、痛みに喘ぐ呼吸のなかから、……笑うかのように、言葉を紡いだ。


「真衣さんも、沙綾さんも、誠さんも。……今の生活、大事ですよね」

「――こいつ。なにか嗅ぎまわった?」


 沙綾先輩の言葉に対して。

 恭くんは、肯定も否定もしなかった。


 お兄ちゃんが、戻ってくる。

 興覚めだ、今日は帰ろう、という沙綾先輩の提案に、お兄ちゃんも賛成して。

 四人は、……帰っていった。

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