弐 日暮れの話

 どんちゃん騒ぎと化した花見は、日暮れに近しい時間になった為お開きとなった。一人の家に帰りたくない、と零した結美に、では共に居よう、と三毛の猫又が寄り添い帰路につく。二人に散々猫吸いされた猫又は、少しばかり疲れているようにも見えた。

「じゃあね、未希! また明日!」

『気を付けて帰りなさい、私の可愛い要殿』

「あぁ、二人とも気を付けて」

 幼馴染みに手を振って背を向け、一人夕暮れを追って歩き出す。結美の家族は両親揃って単身赴任中で、割と幼い頃から、彼女は誰もいない家で独り生活している。勿論近所には彼女のいとこに当たる人もいて、全くの独りという訳ではない。そんな彼女の両親は、幸か不幸か結美が守り人として町の裏側を駆け抜けている事を知らない。危険なことに足を突っ込んでいる事は知らないが、遠く離れながらも愛情は忘れず、二ヶ月に一回二週間程度はどちらか片方、もしくは両方が帰って来るという。帰れなくとも電話があるという結美は、それでも独りが随分堪えるという。あまりに寂しがる時は、未希も一人にできずに自宅に呼ぶ。谷間にある上弦町の、山の上にあるさして小さくも大きくもない神社という名の自宅に。幸い、今日の結美の傍には三毛の猫又もいるし、さほど寂しさに打ちひしがれている様子もない。

「強い感情に魅かれるモノも多い。まぁ、今日は猫又殿もいるし大丈夫か」

『境界の守り人殿、少々よろしいか?』

 ザワリ、と風が鳴った。優しい夕暮れが禍々しくなる。人の気配が遠のき、廃屋と荒野が視界に広がる。現世このよのモノではない声に呼びかけられたのは分かっていたから、急に隠世に呼び出された事に驚きはない。黒い狐の面を付けて顔を隠し、声の方へ向き直る。面越しに見開かれた目は深紅に染まり、瞳孔は縦に長く、形はネコ科のモノに近しい。

「如何され……、おや、向かい山の天狗殿でしたか。此方までいらっしゃるとはなにやら急用ですか? もしや長殿に何か? もしくは幾年か前に娶られた奥方の方に?」

『いやはや、斯様な大事をお伝えに上がるなら、それがしの様な木っ端を遣わせる事はありませぬよ。此度の事は天狗一族我らに直接関わりあいのない事ですが、見てしまった故声を掛けさせて戴いた所存です』

 不思議な事があることだ、と口に出さずに未希は思う。本来、妖達は自らの棲みかを離れない。山に棲むモノが町に降りる事は、よほどの事情がない限りほぼ無いのだ。

「それは……、一体何を見られたのです?」

『貴殿の身内の方が何やら厄介なモノに絡まれていたので』

 身内、と聞いて、仮面越しに見開かれた目がスッと細くなる。己の知りうる人物ならば、余程の事がない限り自己解決しそうだ、と。しかし、天狗が視た上での、厄介なモノ、とは看過できない。

「厄介なモノ……ですか……。具体的には一体なんでしょう? 差し支えなければお教えいただいてもよろしいでしょうか?」

『勿論。ヒトです。我等を覗こうとする、悪意ある』

「……ヒト……。ヒト……ですか……。それは、確かに……」

 自宅にあたる神社は、所謂オカルト的に有名だった。夜に人魂を見たとか妖怪に会えるとか、酷いモノだと呪いが成就するとか。今時そんな眉唾物を信じる人間がどの程度いるのか甚だ疑問だが、それでも迷惑を考えずに突撃してくる愚か者はやはりいる。大抵は追い払えるが、覗こうとする――即ち秘密を暴こうとする――人間とは厄介極まりない。

「……面倒……ですが……」

『どうするかは貴殿次第。某はこれにて』

「ええ、ありがとうございます。知らせてくださって」

 頭を下げれば、天狗は鷹揚に頷いて空を飛んで山の方面へ去っていく。鳶色の翼が羽ばたいていくのをぼんやり見送り、未希はしばし思案するように唇に指を這わす。対応している身内を考えれば、急いで帰宅する必要は無い。だが、隠世を暴こうとする望まれぬ客は対処せねばならない。山から降りぬ天狗が、わざわざ伝えに来る程に看過できないのなら尚更。

『お困りかな、要殿?』

「……犬飼いの翁殿。あぁ、今日は羽犬の散歩ですか」

 ゆっくりと帰路につき、歩みを進める未希に声を掛けたのは翁の能面を着けた者。彼は傍らに翼の生えた白い大型犬を連れていた。白い大型犬は未希を見るなり大きな尻尾を振り回し、そわそわと落ち着きなく前足を動かす。飛び掛かられる恐怖に一歩後退していた未希は、その気配が無いことを確認してやっと犬に近付き頭を撫でた。

『急がねばならない事態までは行かぬ、と思われておりますかな?』

「いえ……そういった事は……」

『覗こうとしておる者共は、覗けば荒らしますぞ。この地を』

 穏やかな声で、しかし厳しい口調で未希を諭す犬飼いの翁は、生前多くの捨て犬を拾っては最期まで面倒を見続け、生を終えてもなお数多の犬の妖怪を世話している。撫でられて喜ぶ羽犬も、犬飼いの翁が面倒を見て生を見送り、終えた後に妖怪に変化した飼い犬の一匹だったりする。

「……そ……う……、ですが……」

『守り人の役目、放棄されぬよう動かれます様』

 頭を下げる犬飼いの翁に、狐面の顔を向け、意を決して頷く。羽犬はそれを見て、未希の前に伏せた。澄んだ青い目を向けて、目線だけで背に乗るよう彼女に促す。その賢さに笑みが浮かぶ。未希は伏せる犬の白い頭を撫でて、白い背に股がった。しっかりと首に腕を回すと、一度身震いした羽犬が走り出す。あっという間に手を振る犬飼いの翁の姿が遠ざかる。ふわりと浮き上がった犬の身体が空を走り、町の廃墟を眼下に目的地へ駆けて行く。

「……現世の町とはやはり違う。時が止まっているみたいだ……。隠世の時はどの辺りで止まったんだろう……」

 風を切って飛ぶ羽犬の背の上で流れる景色は、現世で見る景色とは一切が異なる。紅く禍々しい夕陽の下、廃墟が並ぶ町並みは古めかしい。腐った板張りの屋根は穴が開き、柱は苔むして折れている。おおよそ家屋としての体裁を成していない廃屋が多いが、そんな場所が妖達の棲み処にちょうど良い。道路は砂利道で、かろうじて大きな石は取り除かれているものの、現代のアスファルト敷きのように走りやすくはない。雨が降れば足元はぬかるみ、足を捕られるのは火を見るより明らかだ。尤も、隠世の天候は特殊な事情が無ければ、どす赤い夕暮れから変わらないのだけれど。

 風のように流れる景色を見ながら考え込んでいると、廃屋の低い屋根の際を駆ける羽犬が赤黒い夕陽に向かって唐突に吠えた。意識を思考の果てに飛ばしていた未希は、その声に意識を引き戻す。眼前には古い造りではあるがしっかりした建物が聳え立つ。こじんまりしているがある種の神殿のように見える建物は、隠世から見た己の自宅にあたる場所。

「……どうしてやろうか。ね、犬飼いの翁殿の羽犬。驚かすだけじゃ、また来そうだし」

 狐面越しに見る神殿の姿がブレる。垣間見えたのは現世での神社の様子。男女数名のグループが、神主の男になにやら詰め寄っている。詰め寄る者達の後ろで目立たないようにカメラを構えている辺り、このグループが最近流行りの動画配信者の集まりであろうことが伺える。詰め寄られている神主の男は一見、人の良さそうな、困ったような笑みを浮かべて真摯に対応しているように見える。

「面倒臭いから早くしろ、ですか。……分かりました、兄さん」

 現世と隠世、同じ半紙の表と裏で、一瞬の会話が成立する。彼は人の良さそうな顔で対応しながら、実際はかなり頭に来ているらしい。随分長い間拘束されているのだろう。

『要、帰るのが遅い。あいつら、よりによって霊護れいごはなを手折ろうとした。私が許可する。死ぬより恐ろしい目に合わせてやれ。ああいう手合いは痛い目を見ねば何も変わらん』

仙狸せんり殿? 兄さんはそれをご存じで?」

『知らない。アイツはずっと捕まってた。だがそんなこと、どうでもいい。さっさとやれ。お前や貴仁たかひとがやらないなら、私が全員手に掛ける』

「落ち着いて下さい。霊護の桜――この地の御神木に手を掛けた愚か者共の血で、その爪が穢れるのは私が我慢出来ない」

 兄である貴仁の名を隠世でなんの躊躇いもなく口した仙狸は、耳と目が獣の物である事以外はグラビアアイドルでさえ霞む程グラマラスな体型をしている。その細くしなやかな指に伸びる鋭利な爪を擦り合わせ、厚い唇からは牙が覗いて苛立たしげに歯ぎしりする。麗しい見た目に反して未希の前に立つ仙狸はまさに、猫の妖怪と言って差し支えない気配をぶちまける。並みの人間であれば、漏れ出すどころかぶつける勢いの妖気に卒倒しているはずだ。現に、垣間見える現世では、兄――貴仁に詰め寄る者達の後ろで、二人程が青ざめた顔で同胞を止めようとし始めている。

「羽犬、もう大丈夫だから犬飼いの翁殿の元にお帰り。ここに居たら巻き込んでしまう」

『おい、早くし……。ん? あぁ、不浄を肩代わりさせるのか。 もっと簡単にやれば良いものを』

「このご時世、行方不明が出るだけで凄まじい騒ぎになります。それなら"多少"不運に愛される方が良いでしょう」

 羽犬は不満そうだが、未希の周囲に渦巻き始めた黒いモヤに吠え立てて後退する。不機嫌そうに眉間に皺を寄せる仙狸は、未希がやろうとしている事に気付きニヤリと口角を上げる。仙狸と同じ顔で笑いながら、未希は右手にモヤを集めてサッカーボール大にまで固めてみせる。その塊状となった不浄を、現世に向かって投擲する。不浄の塊は半紙のごとき薄さの壁を容易く貫通し、現世で喚く人間達にぶつかり霧散する。サッカーボール大とはいえ、気の塊。ぶつけられたところで痛みも何もありはしない。せいぜい突風に煽られた程度だろう。気付いたのは兄たる貴仁のみ。

『かなりの量を投げ渡したな。あれだけ受ければ上弦町この地から出るまでに死にかねないなぁ?』

「死にませんよ。せいぜい車に轢かれかけ、盗みに入られ、機械が壊れる程度です」

 禍々しい夕陽は変わらないが、隠世の空は僅かに暗さを増した。隠世はその性質上あらゆる負の感情が溜まりやすい。人の世から流れ、行き場を失った有象無象が隠世に留まり、溜まり溜まって不浄となる。不浄は妖達の力になるが、何事も過ぎれば毒となる。その不浄を定期的に浄化するのも未希の役目の一つである。

『ははは! あいつら、急に社から逃げ出したぞ! カラスに襲われている! 自業自得だな!』

「現世のカラスは天狗殿の管轄外ですね。……あれだけの人数で不浄を分けたので、さほど大きな不運には愛されないのでしょうか。もう少しオマケしておきましょう。二度と来ることが無いように」

 腹を抱えて嗤う仙狸を前に、未希は冷静に逃げ帰る人間達の背に向かって追加の塊を投げつける。それは再び帳を越え、人間達にぶつかり消滅する。ぶつかった途端、走る男の一人が下り階段でバランスを崩した。そのまま二、三段転がり落ちる。幸い、落ちた先は踊り場のような箇所で、大事には至らない。しかし、急にカラスに襲われ、石段から落ちればさすがにもう来ようとは思わない筈だ。

「不浄を背負うの、大変なんだ。肩代わりして貰えて助かった」

「それはよかった。だがな、誰がそこまでやれと言った?」

『私が許可した。貴仁も、あいつらには辟易していたでしょう?』

のぞむか……。お前か許可するとは、相当なやらかししてやがったな。ったく……」

 暗さの増した隠世から、細い月がのぼる現世に戻る。黒狐の面を外した未希の前に、しかめっ面で腕を組む貴仁が立つ。そのまま小言を垂れる彼を宥めるように、彼の肩に茶髪の美女が垂れ掛かった。切れ長の茶色い目をいたずらっぽく細めて笑うのは、人の形を真似た仙狸その人。守り人に名を与えられ、使役される妖達を彼等は便宜上式神と呼ぶ。

『疲れたでしょう? さぁ、夕餉にしましょう。それと、現世で私は望。間違えないように、ね』

「はい、望さん」

 式神として従える以上、縛るその名を呼ぶことは本来主人たる貴仁にしか許されない。それを縛られる側の妖が許可した。それを以て、未希も改めて家族の一人である人型の仙狸の名を呼ぶ。満足そうに頷く仙狸が茶髪を揺らして社務所に向かう。グラマラスな体型を巫女装束に身を包んだ彼女は、どことなく妖しい気配が漂っている。手招く仙狸に従い鳥居をくぐる。ため息混じりに腰に手をやる貴仁に、躊躇いがち目を合わせる。

「……ただいま、帰りました……」

「遅い。……お帰り」

 ぎこちない兄妹のやりとりを遠くから見ていた仙狸が、早く、と笑いながら手を振った。

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