参 水面の話

 種々の事象があれど、日が沈めば新しい朝が来る。そんな、いつも通りに流れる時間のありがたみを感じること無く、未希は食卓についた。台所に立つ仙狸こと望は、鼻歌を歌いながら彼女の前に朝食を並べる。菜飯に焼き魚、青菜のお浸しになめこの味噌汁。どれも出来立てで食欲をそそるが、未希の顔は若干引き気味だ。

『朝からそんなに食べられない、という顔でふすね』

「い……いつも思いますが、この半分くらいで十分です……」

 湯飲みにお茶を注ぎつつ、食卓に目を向ける。彼女前に置かれている子ども用の小さな茶碗には、半分にも満たない量の菜飯。それでも多いとのたまう未希に、仙狸は腕を組んでため息をつく。

『私のご飯が美味しくないならそう言って下さい』

「お、美味しくない事ない! 全部美味しい!」

「……毎朝やってるな……」

 神主として朝の勤めを終え食卓に来た貴仁は、二人のやりとりを見ながら呆れ顔。この二人はほぼ毎朝、同じやりとりを飽きもせずに繰り返す。ある種のコミュニケーションを取りながら、登校準備をするのが未希の日常なのだ。

 まばらに雲が浮かぶ青空の下、神社の境内では散り始めの桜の花びらが揺れ落ちる。時折強く吹く風が、地に落ちる前の花びらを空に舞い上げた。

「帰ったら参道の花びらだけでも掃いておくか……?」

「未希」

 履き慣れた靴を踏み鳴らし、立ち上がった未希を貴仁が呼び止める。珍しいことだ、と言葉にせぬままに彼女は思う。腕を組んで見下ろす兄の、緋が滲んだ黒い切れ長の目が、下足場に立つ妹を見る。二段下に立つ妹もまた、深紅が溶ける黒い目で兄を見上げる。

「最近隠世が騒がしい」

「浄化が足りませんか?」

「違う。ただ乱れがある。"要"として注視していろ」

 言うだけ言って返答も聞かず、貴仁は未希に背を向けた。この兄妹は、端から見れば仲は良くない。しかし実際、未希に兄との関係を聞くと、悪くはない、と答える。本当に思いやっていないなら、何かを話たり、忠告したりはしないだろう、と。兄の気遣いは分かりにくいだけだ、と未希は聞かれる度にそう答えている。


 穏やかな青空と浮かぶ白雲は、まさしく春の陽気と言って差し支え無い。しかしその実、風だけは強く冷たく吹き抜ける。その寒さをものともせず、黄色いランドセルの群れがはしゃぎながら駆けていく。制止する声もあるが、聞く耳などありはしない。そんな黄色いランドセルの群れを乱すように、強い寒風が吹き抜けた。

「……多少の悪戯なら止めないが、度を越した怪我を負わせるなよ……」

 風上の方に目を向けて、未希は聞こえないような小声で囁く。彼女の言葉に、風の中に隠れるナニかが怯んだのが分かる。深紅の左目が見つめる隠世では、鎌のような鋭く長い爪を持つイタチが怯えたように、長い身体を丸めて震えていた。つむじ風の中に紛れ、吹き抜け様に切り傷を負わせる妖怪、鎌鼬かまいたち。身を切る寒さが起こす現象を説明できず生まれた妖怪の、その存在意味を牽制した理由は一重に、多少で終わらないであろう怪我を負わせようとしたからに他ならない。

「中立を保つのは難しいな。妖怪達かれらの存在意義を奪う訳にはいかないが、人に大怪我を負わさせる訳はいかないから」

「あ、佐伯さん! おはよう、今日は早いね! ならアタシの遅刻はまずないな!」

 知らず知らずの内に大怪我を負わされそうになっていた子ども達が去って、代わりに駆け寄って来たのはクラスメイトだった。赤い細フレームのメガネのズレを直して豊満な胸を張る須和片すわかた奏子かなこを見て、未希は面倒くさそうに首を振る。盗み見たスマホに表示されている時間から、学校には遅刻せずに到着できそうだ。

「おはよう須和片さん。自覚があるなら早く出れば良いんじゃないか?」

「何言ってるの? 朝は布団にギリギリまで籠るのが幸せなんじゃない!」

「……マジか……」

 苦言を呈したつもりが逆に力説され、思わずたじろいだ。言葉の圧が違いすぎる。正しい事を伝えている筈だが、彼女の言い分の方が正しいかもしれないと思わされてしまい、二の句が告げない。

「と、言う訳だから、珍しく興奮しているんだよ! 佐伯さん、分かる?」

「分かりたくない。が、興奮は遅刻しないから、だけではないんじゃないか?」

 学校に至る道のりはまだ長い。それに、見かけたとして、ただのクラスメイトの足を止めさせてまで話し掛けることはしない筈。なら、話し掛けるに値する何らかの用事があるのではないか。そうアタリをつけた未希が先回りして聞くと、メガネの向こうで奏子の丸い目が不満そうに半目になる。そんなクラスメイトの意外な反応に未希は首を傾げた。彼女にしてみれば、会えば挨拶を交わして少し話をする程度のさして親しい相手ではない、という認識なので、ジト目で見つめられるのは理解できない。

「なんか、冷たくない? もっと会話を楽しもうよ」

「寒い通学路で何を言ってる? それに、せっかく遅刻しないで済むかもしれない時間だぞ」

「だから興奮しているんだよ! でもさ、今しか出来ない会話もあるじゃん?」

「例えば?」

「プールで足を引っ張られた不良の話の続報とか?」

 その言葉に、未希は切れ長の黒い目を僅かに見開き奏子を見た。通学路は終わりに近付き、あとは校門に至る最後の上り坂のみ。にわかに増えた雑踏が聞こえない程集中して、未希はさして親しい間柄ではないクラスメイトに話の続きを促した。待ってました、と、ピンク色の薄い唇を釣り上げて、奏子は情報を得るのが如何に大変だったか意気揚々と語り出す。知りたいのはそこじゃない、と言いたい言葉を飲み込んで、彼女が満足するまで聞くに徹する。長すぎる前座が終わった頃には既に、校門を超えて教室に到着していた。

「それでまぁ大変だったんだよ! 先生達からは近づくなって言われるし、止められるし、現場検証出来ないんだよ、分かる?!」

「……流石、"オカルト"新聞部。その熱量は尊敬に値する……」

「オカルトは余計! でね。なんか、プールサイド歩いてるだけでも引き摺りこまれた、て話もあるんだよ。ただ、忍び込もうとして捕まって、検証出来てないんだよね……」

「危ないから当たり前だ」

 残念そうな奏子にピシャリと言い切ったと同時に始業のチャイムが鳴り、ざわつく教室が慌ただしくなる。チャイム終わりに勢いよく教室に飛び込んだクラスメイトの後ろから、ゆっくりと担任が入って来て小声を垂れた。項垂れて席に着いたのは、滅多なことでは遅刻する事のない結美だった。今日はやけに珍しいことが続くな、と口に出さず思う。思いをしたが、そういう日もある、と切り替えて、落ち着かない空気の中授業に臨んだ。もちろん、集中なんぞ出来るはずなかった。

 そんな日の昼休み。幼馴染みにプールでの異常な話を持ち掛けようと、弁当箱片手に振り向いた。

「結美、今日……」

「未希聞いて!!」

「えっ」

「今日ね、父さん達が帰ってくるって! 昨日の夜連絡があったんだ!!」

 興奮冷めやらぬ態度でまくし立てる幼馴染みに、話そうとした言葉を思わず飲み込む。滅多に帰らぬ家族の帰還が待ち遠しい彼女に、危険と隣り合わせな調査の話をする気はなかった。そんな態度に気付かず、結美はどれだけ待ち遠しかったをひたすら喋り続けている。未希は話を聞きながら、珍しいことは連続するものなのか、と考えていた。決して短くない昼休みは、止まらない結美の話を聞き続けて終わった。やっぱり午後からの授業も、未希はろくに集中できなかった。

「今日は部活休むって言ってるから! じゃ、また明日ね、未希!」

「あぁ、気をつけて」

 今にもスキップし始めそうな様子で去る幼馴染みに手を振って、未希もまた校庭に出る。陸上部に所属する彼女は、短・中距離とハードルをメインにしている。校庭で決して軽くはないメニューを無心でこなしていると、気付けば日は暮れかけて、部活は終わりの時間になっていた。

「職員室に用があります。部室の鍵は私が返します」

「佐伯か。分かった。じゃあ任せる」

「ありがとうございます」

 陸上部の部長にさりげなく鍵の返却を申し出れば、二つ返事で快諾された。そのまま鍵を職員室の規定の場所に返しつつ、他の鍵があるかどうかさりげなく確認する。プールの扉の鍵は、指定の場所になかった。

「佐伯さん? どうかしましたか?」

「いえ、何でもありません。長居しました、失礼します」

 暫く観察していたせいで怪しまれかけたが、己にしかわからない痕跡により、誰が鍵を持っているのか把握した未希には関係無い。真っ直ぐ帰るふりをして、体育館の裏手に回る。そこからプールへの道が続いている。職員室からも教室棟からも、その道は死角になる為、向かうのは容易だった。

「やっぱり来たな、佐伯。あの新聞部の生徒、抑えとくべきだったか」

上崎かみさき先生。分かりやすく残しておいて、酷い言い草ですね。それに噂話はバカに出来ませんし、人の口に戸は立てられぬ、ですよ」

 その道で待っていたのは、黒っぽいジャージを着た体育教師の上崎拓斗。彼は未希の行動を注意しているような格好をするが、強く帰宅を促さない。それどころか、扉の鍵を開けて彼女を中に招き入れた。

「隠世の事が噂になるのもなぁ……」

「そのお陰で、現世にいながら隠世の異常を掴む事が出来るので良し悪しですよ、拓斗さん」

「情報源が噂話ってのもねぇ……。時々徒労に終わることもあるし、信用しきれない面もあるよ、未希ちゃん」

「それはそれです」

 結美の従兄にあたり、同じく秘密の守り人でもある拓斗と共にプールサイドに上がるが、見た目には全く変わりがない。雨水が貯まったプール槽には青く藻が浮き、お世辞にも綺麗とは言い難い。左右に分かれて周りを見て回るが、やはり異変が見当たらない。

現世ここにないなら隠世むこうか。すみません、黒狼こくろう。探りに行ってきます」

「えっ? は? なっ! おい、ちょっと待って! 要!」

 対岸にいる拓斗に言って黒狐の面を付けると、止める声を無視して未希はプール槽に落ちていく。顔が水面に付くより先に水掻きの付いた手が伸びて、その姿が水面に消える。水飛沫はおろか波紋も無く、浅いプールに沈んだ人影も無かった。

 自ら望んで引き摺り込まれた先もやはり水中。この場所も、見通しは全く良くない。良くないが自身の周囲に何かが在ることは分かっていた。

「ここは……澱んだ池? 水の中なのに息も出来る。……では説明を頂こう、河童殿?」

『さすが境界の守り人殿。察しが良くて助かる。澱んだ子等は既に亡い。どうか我らを救って欲しい』

 緑色に濁った水中で、亀のような甲羅を背負って頭に皿を乗せた河童が嘆く。河童の訴えの通り、水中には変色した小さな塊がいくつも浮いていた。触れずともそれが死んだ嬰児なのだと分かってしまう。痛ましい姿をなんの感慨も無く見つめ、河童達の願いを理解する。彼らは川で産まれ、川で生き、川で死ぬ。そんなモノ達が澱んだ池に居るという異常。決まりきった事象だけで流れる隠世の時間で、本来あり得ない事態が起こっている。

『子等を産むに登る道を巨石に封じられ、辿るに辿れぬ。我等の神通力では壊せなんだ。このままでは望まぬままに約定を犯す』

「分かった。調和を保つのも守り人の役目。引き受けよう。そこに案内……いや、現世に伝言……」

 このまま案内された方が今後を考えると好都合だが、なんの音沙汰も無いと残された拓斗も困るだろう。僅かな逡巡は、頭上から落ちてきたモノを見て解決した。寄越されたのは拓斗の気遣いを孕んだ伝言。一言、問題無いから帰れ、という言葉に感謝しつつ、彼女は河童に道案内を頼んだ。

 隠世に流れる川を下流から辿り、上流へ登る。河童の神通力のお陰で、水中も難なく進んで行く。隠世に流れる川は一つしかない為、川を遡るのは容易だった。

『水量が少なく、これ以上は登れぬのだ。境界の守り人殿、どうか頼み申す……!』

「この、さらに上流という事か。すいは苦手だから助かった。この先は任せてくれ」

 浅くなった川から身を起こし、川岸を更に遡る。河童の言う通り、この川は本来の水量を保てていないことが分かる。流れのままに抉られた川幅は、現在流れている水量よりずっと広い。木々が生い茂る道無き山道を登ると、唐突に川を塞き止める巨岩にぶつかった。人二人分の背丈はゆうに越えるそれは、感じることの無い気配を纏っている。

「なんだ……? 腐った、土の臭い? ……嫌な霊力だ。さっさと破壊するか」

 見上げる程の巨岩を前に、呼吸を整え呪符を構える。二度、三度と深呼吸を繰り返し、未希は自らの内に意識を集中させていく。周囲の木々が震え、彼女の左腕に向かって蔦が伸びる。

「……五属感応ごぞくかんおう経路短絡けいろたんらく木属変換もくぞくへんかん……萌芽ほうが一蔦いっちょう!」

 左腕に絡まる寸前の蔦ごと、呪符を巨岩に投げつける。呪符は蔦と共に真っ直ぐ巨岩にぶつかり、ひびの中に食い込んでいく。そして、一拍置いて蔦に絡まれた岩が粉砕した。塞き止められた水が勢い良く流れ出し、一度は減った水量が元に戻っていく。

『おぉ……。これで我が子等は無事産まれる……! 感謝を、境界の守り人殿』

「あぁ。……気をつけて」

 少なく見積もっても六体以上はいる河童達が、未希に感謝して去っていく。その背を見送って、彼女は仮面を外した。どす赤い夕暮れと鬱蒼とした森は姿を消し、代わりに月夜の下雑草が伸び放題の廃校舎が姿を見せる。隠世から戻ると予想だにしない場所に出るのはいつもの事だが、今回ばかりはどうにも何か引っ掛かる。

「ここは、……旧第二小? また曰く付きの場所に出たな。閉校する前から妙な噂があったし、調べる必要がある……のか……?」

 少子化により閉校した旧上弦第二小学校は、閉校前から奇妙な噂に事欠かない場所だった。裏側である隠世ではただの深い森で、曰くも何も無い。だが、謎めいた何かに愛されている場所であるのは間違いない。しかし、最早夜と言わざる得ない時間である以上、調査する時間は無い。これは調査は後日にして、早々に帰宅の徒に付くしかなさそうだ。未希は後ろ髪を引かれる思いで、小学校の廃校舎を後にする。何故急に川を塞き止める巨岩が現れたのか、兄の忠告の意味はなんなのか、残された問題への解決の糸口は、未だ見つけられてはいない。

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