壱 日々の話

 佐伯さえき未希みきという少女は、実に奇妙な存在である。彼女の通う高校で、彼女は一際浮世離れしている。感情という感情が抜け落ちた能面のような、それでいて整った顔立ちは見る者を引き付けつつ遠ざける。その反面、彼女は全くの無情という訳ではない。話し掛ければ相手の目をきちんと見て、話を聞く体制を整える。困っている者が手助けを求めれば、手を振り払う事もしない。そんな人間であるが、他者は彼女を遠巻きにする。異質な者と、言わんばかりに。

「別にね? 私はどうでもいいんだ。誰も私に関わろうとしなくても。人とズレてるのは分かってる」

 誰に言うでもない独り言。切れ長の黒い目は誰もいない廊下の陰を見つめる。学校の中で、いないはずの白い人影を見た気がする。眉間にしわを寄せた異質な少女に触れた熱、この世のものとは思えない噂話。

「ねぇ知ってる? 夜に学校のプールに忍び込んだ不良が、何かに足を引っ張られて溺れかけたらしいよ」

「それ知ってる。助けられた時に言ってたんでしょ? 何もないプールで、何に足を引っ張られたんだろう?」

 笑いながら噂話に興じ、立ち去る同級生をなんの意図もなく見送る。春先の風はまだ冷たく、咲き誇るはなをいたずらに散らして遊んでいる。風に遊ばれる黒い前髪を鬱陶しそうに掻き上げる未希の目が、一瞬紅く見えた気がしたのは気のせいではない。

「足を引っ張った、か……」

「未希~なにやってるの~?」

 暖かく間延びした声に現実へと戻されて、未希はしばし瞬きと共に硬直した。その背に容赦なく飛び掛かった声の主は、彼女が踏みとどまれるだけの力加減を分かっている。

「結美? あぁびっくりした」

「えへへ、ぼぉっとしてるの見たから悪戯しちゃった」

 人懐っこい笑みを浮かべて手を引くのは彼女の幼馴染。共に秘密を守る神条しんじょう結美ゆみ。明るく元気な結美は、なにかと暗くなりがちな未希のそばに居て明るくしてくれる。何度彼女の明るさに救われたか分かりはしない。そんな結美のそばには人が絶えない。誰とでもすぐ打ち解けて仲良くなれる彼女は、ころころとよく表情を変える。それは喜怒哀楽がはっきりしない未希とは対照的であるとも言えた。そんな結美は、茶色いポニーテールを風に揺らして大きな茶色い目を未希に向けて微笑んだ。

「そろそろ授業、始まるよ。今日は午後から入学式だから、授業は午前中だけ!」

「中高一貫で入学式もなにも無いと思うが……」

「助かるじゃん! 半日で授業終わるって思ったら!」

 連れたって教室に向かう二人の姿は、どこにでもいる今どきの女子高生そのもの。授業よりも、最近流行りのおしゃれやメイクが気になるお年頃であろうか。チャイムと共に騒がしく席に着く生徒たちを見守る花散らしの風はそれでも穏やかで、僅かに開かれた窓辺に寒さと花びらを置き去りにする。新学期に浮かれる生徒たちを、授業を行う教師は窘めつつも無駄なことと思っているらしい。小言を挟みながらも教科書を開き、黒板にチョークを走らせる。人の目をしながらその実違う場所に意識を飛ばす未希の耳に、可愛らしい猫なで声が届く。人しかいない教室で、今は授業中で、誰も話しかけるはずがない場所で、聞こえるはずのない声。

『悪い事、考えていないでしょうね?』

「……未希、この声もしかして……」

「……猫又殿。今は授業中です。話は後程……」

『集中できていないのによく言うわ、私の可愛い要殿? 大丈夫、ちょっと釘だけ刺しに来たのよ』

 一瞬緊迫した空気が流れたが、姿の見えない声の主はそれだけ言って消えたらしい。我知らずに詰めた息をゆっくり吐き出し、未希は黒板の文字が消える前に、と慌てる事なくノートに書き留める。後ろの席に座る結美も、止めていた手を動かし始めたらしい。幸いにして、授業を行う教師は気づいていないようだ。他の集中できていない同級生に、分かっているのかと質問を投げかけている。普段より浮かれた雰囲気を醸し出す授業風景はいつも通り、何の変化もなく進んでいった。


「結美、頼むから慣れてくれ……」

「うー……ごめん、未希……。頑張ってるけどつい……」

『ふふふ。そうよ、私の愛しい白兎殿。私の可愛い要殿の言う通りだわ』

 午後から入学式だ、と追い出された学校からの帰り道。帰宅するには早すぎる時間で、独りの家に帰りたくない二人は少ない小遣いで食べ物を買い、桜散る公園で花見を敢行していた。散り際の花を愛でる人はさほど多くはないのが意外なところでもあるが、秘密を共有する二人にはそれがちょうどいい。ベンチに陣取る二人の間には一匹の三毛猫。結美の優しい手付きで撫でられる猫の首には藍い首輪。飼い猫らしい三毛猫は結美によく懐いているようで、もっと撫でろと言わんばかりに頭をグイグイ押し付けている。

隠世かくりよはこことは違う。狐面には慣れたのに、名前……」

「だってさぁ……。普段呼んでるから、いきなり、世界変わりました~ハイ呼び方変えましょう、で変わる訳ないじゃん!」

「どれだけ長い付き合いだと……」

『私としては、名を隠さずに隠世あちらがわのモノ共に連れて逝かれるのは我慢ならないのよ?』

「猫又殿の言う通りだ。すぐに変えろ、とは言わないが、呼ぶときは一回考えてくれ」

「嘘、猫又さんも未希の味方なの……?」

『あら、私はいつでも私の愛しい白兎殿の味方よ? でも、それとこれは違うわ』

 人ならざるモノたちが棲まう隠世。何もなしにそこを認識できる者はごく少数。そこに在るモノたちに人の道理は通用しない。その隠世に踏み込む事が出来る人間は、認識出来る人間よりさらに少ない。認識した上で、踏み込み、時には連れ込まれて、出る事を許されている数少ない人間である彼女等は、当然それをよく知っている。連れ込まれようとも五体満足で出る為には、人の世とは異なる様々な制約がかかる。名前を隠す事、顔を知られないようにする事も、自衛のための一手段なのだ。だが結美は、どうにも名前を呼ばない事に慣れてくれない。随分と長い付き合いになるが、何度忠告しても真名を呼びそうになる。いい加減慣れてもらわなければ、いずれボロが出て連れて逝かれそうだと常々頭を抱えている。

「隠世の住人に、人の道理は通用しない。私はともかく、結美が連れて逝かれるのは許せない」

「同じこと、そっくりそのまま返すよ未希」

「そう思うなら慣れろ」

『ふふふ、仲が良いのは良い事ね』

 会話の合間に混ざる猫の鳴き声は、二人の言い合いに合いの手を入れているようにも聞こえる。二人も分かっているのか、猫の鳴き声を間に入れて会話を成立させている。人語を介する猫ではあるが、今は現世にいるただの猫であり、従うべき世の道理は現世に準ずる。隠世の住人ではないという認識で、二人は真名を隠すことなく会話する。三毛猫はのんびり顔を洗いながら二人を見上げた。

「名も顔も隠し通せるとは思わないが、せめて自衛をだな……」

「努力します~……」

『視るモノが見れば、顔なんてすぐに分かるけれど、真名さえ隠せれば連れては逝けない。逆も然りよ?』

「妖の判別は出来ません!」

「そこまでの知識は求めてない、安心してくれ」

 胸を張ってそっぽを向いた結美の手を舐める三毛猫と、肩を落としつつ呆れた表情を見せる未希。穏やかな昼下がりの、花を散らす風がちょっと寒い花見。そんな、幼馴染と過ごすつかの間の時間が、顔に出さないだけで未希は好きだった。三毛猫は、飽きれながらもほんのり唇を綻ばせる彼女の顔を見て欠伸を漏らす。上機嫌に振る三毛の尾が、根元から途端に二つに分かれた。開いた口から覗く牙は猫のモノより長く鋭い。三毛猫の急な変化を見ても動じず、未希も結美もお構いなしに頭や身体を撫でまわす。

「猫又殿、本性が見えていますよ?」

『あら、失礼。私の愛しい子達があまりに可愛くてつい』

「食べちゃいたい、って感じ?」

「冗談でもやめてくれ」

『あらあら。私の愛しい白兎殿は、私に食べられても良いと思っておいでなのかしら?』

「猫又殿もやめてくれ……。隠世の存在が現世に手を出すなら、いくら拓斗たくとさんの猫又殿でも見逃せない」

 白みが強い腹を撫でながら、未希は珍しく眉間にしわを寄せて苦言を呈する。人知を抱く者達が住む現世と、人知を越えた存在が棲む隠世は、いわば半紙の表裏。薄い帳を1枚捲れば、そこは既に人の理が通じない異世界。ただ普通に生きていれば気づかない世界は、しかしてこの町では容易に視える。撫でる猫の尾が二股に見えたとか、四辻で何回も同じ人に出遭うとか、知っている道を行ったはずなのに知らない景色にぶつかったとか。容易く視えるから容易く超えられる。それは人も人外も同じ条件。だから一定の境界を。侵すモノには制裁を。守る人をココに、境界に。人と人外、どちらにも傾かぬ天秤を。隠世を犯す者を陰に引き込め。現世を侵すモノを白日の下に晒せ。守り人としての役割を、未希は正しく理解している。今の脅しも、現世にいる飼い猫又でさえ守り人としての認識で裁く、という意志に他ならない。しかし、現世に居ながら隠世の住人でもある猫又には別の意志思いを見たらしい。

『ふふふ。傾かぬ天秤、境界の守り人。そういう割には、人に近くわれらに近しい。私の愛しい白兎殿と私の可愛い要殿は確かに天秤の両皿ね』

「どうしても人の側に加担したくなるのは仕方ないと思うよ?」

「……猫又殿、流石に怒りますよ?」

『あらあらごめんなさいね? そう怒らないで、私の可愛い要殿』

 白い腹を見せて愛らしい仕草で誘う三毛猫に絆され、口をまごつかせて腹を撫でる。それでも胸の内に燻る怒りは収まらない。なんとなく仕返ししたくて、未希は無言で三毛猫を抱き上げる。きょとんとした様子を見せる猫の腹に顔をうずめる。所謂猫吸いの体勢で、思いっきり息を吸い込んだ。顔に当たるふわふわした短毛、吸いこんだ日差しの香りが鼻腔をくすぐり脳の奥を痺れさせる。初めてやってみたが、これは癖になる。

「未希ぃぃぃ!! いきなり猫吸いなんて……、なんて……!! 羨ましい、早くかわれ!!」

『?!!? 私の可愛い要殿!? 急にどうしたのです?!』

「……これは……まずいな、癖になりそう……」

「返せ、私の猫又さん!!」

 楽しくて穏やかな花見の宴席が、急にドタバタと騒がしくなるのもまた日常だろう。叫びながらも決して手は上げない結美、呆然としたまま吸われ続ける三毛猫、無心に猫を吸う未希、謎過ぎる光景は日が暮れるまで続く。猫吸いの相手が変わるだけで、冷たい春風も舞い飛ぶ花びらも優しい陽光も、誰も彼女等の邪魔をしなかった。

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