現代アヤカシ怪奇譚
ディアナ
零 秘密の話
例えば、こんなことは無いだろか。片付けたはずのモノがあるべき場所になかったとか、置いたはずのモノの行方が分からなくなったとか。些細な、と言うには日常的過ぎるそれらの出来事。或いは、歩く道すがら何もない所で躓きそうになったとか、慣れた道で迷ったとか。割と起こりうるそれらの事象、日常に紛れがちなそれに違和感を感じることさえ稀だろう。だが、ここではそれに足を捕られる。裏側を覗く切欠になる。それらの違和感を日常に落とし込むこと、それがここ――上弦町で生きるために必要なことである。この町には、触れてはいけない秘密がある。
「くそっ、むしゃくしゃする。どいつもこいつも使えねぇ!」
会社員の男はイライラと、閉ざされて久しい空き店舗の横に設置された自販機を蹴る。管理されているらしい自販機には、販売中のランプが虚しく点灯している。男は別に、普段から暴力的な性格ではない。むしろその逆、比較的温和な性格で周りといざこざさえ起こさない。
「なんだってこんなにイライラするんだよ! そうだ、あいつらが使えないからだ!」
蹴っても蹴っても、自販機の販売中のランプは消えない。物に当たっても募る苛立ちは消えることが無い。思えば朝から、虫の居所が悪かった。少し増えた仕事に対して上司にそれとなく嫌味を言ったり、ミスした部下をネチネチ責めたり。普段の男を知る人々は困惑していた。それが如実に分かるから、余計に苛立ちが増す。そこから先は断ち切れない負の連鎖。唯一の幸運は定時で職場を出ることが出来たことだろうか。
「俺はもっと出来るんだよ! あいつらみたいなカスとは違うんだよ!」
人気の無い道で悪態をつき、暴言を吐きながら物に当たる。そんな男は、自らの姿を遠くから観察する視線に気付かない。
「うわ、あれなんかヤバくない?」
「関わりたくない、と言いたいが……」
「ダメなやつ?」
「あぁ」
人気の無い道を歩くのは、同じ制服の女子高生二人。学校帰りであろう二人は、悪態をつきながら自販機を蹴る男を、それとなくじっと観察している。関わりたくないなら道を変えるとか、無視するとか、方法は様々あるはずなのに、二人の女子高生はそれらの自己防衛を行う素振りを見せない。学校生活や部活の話等、当たり障りの無い話をしつつ横を通り抜けようとする。その他愛の無い会話が、男の神経を強く逆撫でた。
「なんだ、お前ら! 鬱陶しいんだよ、チラチラ見やがって!!」
ただ帰路を急ぐだけの少女二人に男は唐突に殴りかかり、その拳は空を切った。手応えも無ければ人影もない。ただの路地には、苛立ちよりも困惑が勝った男が一人取り残されていた。
「正解ってのがヤなとこじゃない?」
「こうなるのは分かっていた」
二人がいる場所には、彼女達以外の人はいない。それは殴りかかってきた男も例外ではない。その地を照らすのはドロリと赤い夕焼けの空。ただの夕焼けよりも禍々しい気がするのは決して気のせいではない。異様な空間に居る筈なのに、奇妙な仮面を身に付けた二人に動揺はみられない。それどころか慣れている気配さえ感じる。
「分かっちゃいたけど……。ねぇ、やっぱりキメラみたいな蟲って気持ち悪い……」
「簡単で良いじゃないか。……だが、ただの蟲じゃない。しょうけら、だな。これがあの男の本来の性ということか」
異様な雰囲気を纏う仮面の少女達の視線の先、男が居た場所には、獅子の顔に尻尾の無い犬の身体、虫の羽を持つ奇妙な何かがいる。それは鋭い爪でざらつく地面を引っ掻き、涎を滴しながら牙を向く。吼えたてる声は如何なる動物にも似ていない。茶色い髪を一つに纏め、目元のみを覆う白狐の面の少女は、隣に立つ黒のショートヘアで似たような、しかし色が違う黒狐の面を付ける少女を振り返る。
「み……じゃなかった。
「人間の身体で悪さする妖怪」
白狐の面の少女は、要と呼んだ少女の説明にげんなりした空気を隠さない。だが追加の説明を要求する前に、しょうけらと呼ばれた異形が飛び掛かる。振りかざされた鋭い爪は、何もなければ二人を容易に引き裂く筈だった。しかしそれは、透明な壁に阻まれて届かない。執拗に爪をたてるが、壁は壊れるどころか傷も付かない。要と呼ばれた少女は手を突き出したまま、その様子をじっと見つめている。
「単純っていいね。分かりやすい」
「油断すると怪我するぞ?」
「分かってるって! ……雷鳴……招来……!」
要と呼ばれた少女に言われ、白狐の面の少女は一枚の札をしょうけらの頭上に投げる。虚空に投げられた札は瞬く間に小さい黒雲となり、透明な壁を壊そうと必死のしょうけらを穿った。後に残っているのは煤けた灰のみで、それも吹き抜けた風に消えていく。土が剥き出しの地面には焦げた形跡もなかった。
「さすが
「褒めても何も出ないよ? ありがとうね、要!」
白兎と呼ばれた白狐の面の少女は、仮面越しでも分かるくらいはっきりとした笑みを浮かべる。が、すぐに笑みを引っ込めて周囲を見渡し始めた。いつの間にか、周囲は優しいオレンジ色に染まり、人の気配が戻っている。行くのも唐突であれば、戻るのも唐突。二人は閉ざされて久しい空き店舗の前に立ち尽くしていた。虫の居所が悪かったらしい男は、どうやら立ち去った後のようだ。
「ホント、呼ばれるのも戻るのも唐突だよね。そう思わない、未希」
「いつもの事だから、慣れた。……行く事が無いに越したことは無いけどね、結美」
白狐の面を外した茶髪のポニーテールの少女——
「そこまで何もなかったけど、明日も早いしさっさと帰ろう。ほら、心配してるかもしれないし!」
「兄さんの事だから、そこまで心配してないと思うが……。あまり遅くなるといろいろ面倒かもしれない」
連れだって歩き出した二人を斜陽が優しく照らす。並んで歩く二人の影はしかし、少しずつ距離を離し始める。足を止めた未希はじっと、自販機の先にあった家の軒下の影を見つめていた。何もない、誰もいないその陰を、左手に黒い狐の面を持ったまま獣の如き深紅の目を見開いてじっと見ている。
「……何もない陰に、ナニカを想像するのは人の悪い癖だ。そこに何もありはしない。だが、」
誰に向けるでもない独り言はしかし、確かに暗がりに向かって放たれている。黒狐の面を左目にあて、まるで面の目穴越しに何かを視るように首を傾げ、未希は暗がりに語る。何もいないはずの、誰もないはずのただの影に、まるでナニカがいるように。
「境界を超えるなら、
語る言葉が不意に途切れる。世界のすべての音が遠くなる錯覚。風の音も、車の音も、人影も、夕日も、すべてが曖昧になる。その感覚が、突然ブツリと途切れた。明日の約束を交わす子ども達の声が、遊び足りない我が子を嗜める親の声が、店仕舞いをするシャッターの音が、己を呼ぶ声が、車のエンジン音が、春の優しい夕焼けが、すべての感覚が何の前触れもなく戻って来る。
「未希ーー! 置いて行くよー! 早く!!」
驚きに見開かれた深紅の目は瞬き一つ、元の漆黒に戻る。切れ長の目は一度、視ていた暗がりに目を向けて、友の呼ぶ声を追って走り出した。
「命拾いしたな」
風に流れて消えた声は誰も拾わない。横に並んで仲良く帰る二人の女子高生を追う者などない。それこそ誰もが持ち合わせている日常なのだから。
——この町には秘密がある。その秘密を守る者達がいる。秘密の守り人は誰も知らない。それこそが守り人が守り人である所以。日常を守りたければ、違和は違和のままに、探ることなかれ。
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