#17 友情


 あんな言葉は嘘だ、とわかっていた。

 音色さんが、わたしのためを想って、別れを告げたことくらい、わかっている。



 ――ちょうど良かったじゃん。他に帰る場所も、やさしくしてくれる人もできたんだから、俺はもう用済みでしょ。



 それでも、胸がひりつくように、疼いた。音色さんにあそこまで言わせてしまったことが、どうしようもないほど、痛かった。


 やさしいひとだから、わたしを傷つけたことに、傷ついているはずだ。苦しんでいるはずだ。


 それでも、ああいう風に言わざるを得ないほどの事態に、自分が彼を追い込んでしまったのだとわかっているから、何も、言えなかった。


 言葉が出なかった理由はそれだけじゃないでしょう、と、胸の奥から、囁きが響く。耳を塞いでも消えないその声に、繰り返し蘇るのは、あの言葉。



 ――そもそもきみは、別に俺のこと、好きでも何でもないんでしょう。

 ――きみはさ、俺に、何も望まないよね。

 ――ただ、好意を寄せられてるから、懸命に、返さなくちゃ、って思ってるだけで。


 違う、と言い返したかった。でもあの瞬間、ほんの少しだけ、自分に対する疑念が、心の中に、兆してしまって。


 ――本当に?

 ――お母さんのときみたいに、義務感を抱いてるだけなんじゃないの?

 ――やさしくしてくれたひとを、ただ、手放したくないだけなんじゃないの?


 それらの声を覆せるだけの言葉を、見つけられなくて。自分の〝好き〟が、どういうかたちをしているのか、どうすればかたちにできるのか、まだ、わからなくて。

 つかみどころのない自分の想いに、確固たる自信を持てなくて。だからこそ、告げられた言葉が、深く、突き刺さって。


 ――いい加減、解放してくれないかな。


 あの台詞は、わたしを遠ざけるためのものなんかじゃなくて、音色さんの本心なんじゃないかと、思えてきてしまって。


 ――俺は、ただ、音楽に、集中したいんだよ。こんなことに、いちいち煩わされたくない。

 ――そういうのにも、もう、疲れたんだ。


 嘘だ、という直感も、ただ自分がそう信じたいだけなんじゃないかと、疑わしくて仕方なくて。


 ――だから、さよなら。


 迷いのない足取りが、すべての答えのような気がして、ぎゅっと目を瞑ったそのとき、机の上に放置したままの携帯電話が、場違いなほど明るく鳴り響いた。


 一瞬だけ息を呑んで、おそるおそる画面を覗き込む。表示されていた『いちごさん』の名前に、ほっと息を吐いて、通話に出た。自分でも、その溜息と一緒に零れ落ちたのが安堵だったのか落胆だったのか、わからなかった。



「……もしもし、宮澤です」


『もしもしミラちゃん? ちょっと、なんか記事出てるけど、大丈夫?』


「えーと、その、……写真、でしたっけ?」



 正直なところ、先程まで音色さんの発言のことばかり考えていたので、やや反応が鈍くなってしまった。返答をしてからようやく、ああ、自分を案じて電話をくれたのだな、ということに気付く。



『あ、もう音くんから聞いた? ミラちゃんの顔は出てないから、ひとまずそこは安心して。今URL送るから見てみなよ。まあ正直、読んで気分いいものじゃないけど』


「はい。……ありがとう、ございます」



 毒づくような声音で付け足された言葉で、ある程度覚悟はしていたつもりだった。けれどその記事は、想定していた以上に煽情的で、ただ、好奇心を煽り立てるためだけに書かれたとした思えない内容だった。



「読み、ました。……あの、音色、さん」


『音くんなら大丈夫だよ。どうせいつかはばれるんだろうな、ってずっと言ってたし、あの性悪男が何も対策を練ってないわけないでしょ。だから、そんなに心配しなさんな、ミラちゃん』


「でも、事務所さん、とか、すごく、迷惑ですよね……」


『そういう時の火消しが、事務所の腕の見せ所でしょ。そもそも隣の部屋に女の子置いとくのをずっと黙認してたんだから、今更慌てないって。想定内だよ想定内。というか、別に悪いことなんてなんにもしてないんだから、胸張ってればいいんだよ。普通に、好き同士の二人が付き合ってるってだけじゃん』



 好き同士、付き合ってる、という言葉で音色さんの発言が蘇り、とっさに返す言葉を失う。束の間沈黙が落ち、画面越しにもその重さが伝わったのか、いちごさんはやや躊躇いがちな口調で、それでも核心にずばりと切り込んできた。



『……え、どうしたの? もしかして、あの超絶不器用朴念仁が、また要らないことでも言った?』



 音色さんがわたしに告げたことは、必要なこと、だったのだと思うけれど、それを口にするのも憚られたので、無言を貫く。



『まさかとは思うけど、別れよう、とか抜かしてないよね?』



 冗談交じりの軽い口調に、小さく、息を呑んでしまった。その反応に再び沈黙が落ち、どうしよう、何か取り成さなくては、と焦っているうちに、いちごさんが噴火した。



『――は!? なにアホなことほざいてんの、あのわからずや! そこは俺が守るからずっと傍にいてくれって言うところでしょ! ほんとあり得ない!』


「いえ、あの、その、わたしが悪いんです! 音色さんにも事務所さんにも、本当にご迷惑をかけてしまって。それにわたし、今までずっと、音色さんに守ってもらってばっかりで、負担をかけてばっかりで、そう言われても仕方ない、」


『五年。――なんのことか、わかる?』



 いつもと違う、水のような静かな声音に、紡ぎかけていた言葉が喉の奥で止まる。何のことだろう、とこちらが黙考する時間を見計らってから、いちごさんは続けた。



『俺が、音くんの家に入れてもらうまでに、かかった時間。……音くんって一見人当たり良さそうに思えるけど、誰に対しても一線引いてるみたいなとこあるじゃん。俺は、それを越えるのに、五年かかった。だからさ、ミラちゃんを初めて見た時、なにこいつ、って思ったんだよね。俺は部屋に来るまでに五年もかかったのに、何あっさりと隣に住んでんのって。――それくらい、特別なんだよ。ミラちゃんは』



 ただやみくもに慰めを口にしているのではなく、根拠のある事実を語っているのだ、と信じさせてくれるような、やさしい、響きだった。目頭と喉の奥がじんと熱くなり、声も出せずに頷くわたしを知ってか知らずか、笑み混じりに、いちごさんは問う。



『だから絶対、別れたいなんて本心じゃないよ。……ミラちゃんが今まで見てきた音くんとその言葉、どっちを信じる?』



 その問いは、わたしにとって、質問ではなく確認なのだと、思い出す。



「わたしは、音色さんを、信じます。……いちごさん、ありがとうございます」


『いーえ。じゃ、いろいろ大変かもだけど頑張ってね。何かできることがあったら、いつでも連絡ちょーだい』



 またね、と明るい声の余韻が消えた後、ずっと身体を沈めていたソファーから、ゆっくりと立ち上がる。


 ――音色さんと、話がしたい、と思った。


 幸いなことに、合鍵を返せ、とはまだ言われていなかったな、と思いつつ、念のためポケットに鍵を入れ、部屋を出ようとドアに手をかけた、その時。


 再び、携帯電話が鳴り響いた。表示されていた岡崎さんことマネージャーさんの名前を見て、慌てて通話に出る。



「もしもし、宮澤です。あの、この度は大変ご迷惑を――」


『宮澤さん、ごめん、吾妻くんってそっちにいる?』


「……え?」



 深々と下げていた頭を戻し、焦りの滲んだ口調で告げられた内容を咀嚼してから、戸惑いつつ返答する。



「ええと、お隣、では、ないでしょうか」


『ごめん、本当に申し訳ないんだけど、ちょっと覗いてみてもらえないかな』



 躊躇したのは、一瞬だった。力強く頷き、今度こそ玄関扉を開けて、隣の部屋へと駆け出した。


 一応ドアベルを押し、応答を三秒ほど待ってから、合鍵で玄関の扉を開ける。刹那、音色さんが酩酊して帰ってきたあの夜の光景が、頭を過ぎった。


 靴の置かれていない、玄関口。照明の落ちた廊下。

 物言わぬ、各部屋に続く扉。

 人気のない、真っ暗なリビング。


 誰も座っていないソファーの前で立ち止まり、不穏な予感が足元から這い上がってくる気配を感じつつ、岡崎さんに報告する。



「あの、音色さん、こちらには、いらっしゃらないかと」



 重く、深い、溜息が画面越しに耳元に届き、次いで、そっか、だよね、ありがとう、と沈んだ呟きが床に落ちる。



「――音色さんに、なにか、あったんですか?」



 あまりにその声が暗かったのでつい尋ねると、しばしの沈黙を経てから、それがね、と他聞を憚るような囁きが返ってきた。


 その極限まで抑えた口調に、ひたひたと込み上げる不安に、胸が、ざわめく。


 予感が、現実へと。

 変貌を遂げてゆく、音が、聞こえる。



『――吾妻くん、メールを一本入れたきり、行方をくらましちゃったんだ。今から僕もそっちに行くから、申し訳ないんだけど、少しだけ待っててもらってもいい?』



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