#16 慟哭


 部屋に戻ってお風呂の準備をしていると、不意に、携帯電話の着信音が響いた。画面に表示された名前は音色さんのもので、この時間帯に珍しいな、と思いつつ通話に出る。



「もしもし、宮澤です」


『……鏡花さん? 今、大丈夫?』


「は、い……」



 もしかしてさっき、話が途中になってしまったのを気にかけてくれたのかな、と少しだけ浮き立っていた気持ちが、抑えたようなその声音で、にわかに緊張感を孕んだものになる。



『夜分に申し訳ないんだけど、今からそっちに行ってもいい?』


「……大丈夫、です」



 お風呂に入る前でよかった、と胸を撫で下ろしてからほどなく、リン、とドアベルが鳴った。はい、と答えて玄関の扉を開け、招き入れた音色さんにソファーに座るよう促すと、ここでいい、と短く告げられる。

 実家のアパートよりも遥かに広い玄関先に、戸惑いつつ立ち尽くしていると、話があるんだ、と切り出された。



「……はい」



 その決意を秘めたまなざしに、知らず背筋が伸びる。

 少し力の入った両肩が、いつもよりもどこか固い表情が、これから彼が口にする言葉が、とても大事なものである、と物語っていたから。



「……俺の、仕事、の話なんだけど、」



 心臓が、どくん、と脈打つ。

 それは、今まで。わたしたちが、ずっと、お互いに避けて通っていた話題だったから。


 彼が話したいと思ってくれるまで、いつまででも待つつもりだった。覚悟も、していたつもりだった。それでも、いざ実際にその瞬間が訪れると、否が応にも胸が騒いだ。



「今までずっと、話せなくてごめん。薄々、気付いてたかもしれないけど、」



 ――私はね、心に一つ、秘密がある。


 どこか痛みをこらえるような音色さんの表情に、なぜか、大好きな小説の一節が、ふと頭を過ぎった。



「――俺は、音楽を、創ってる。〝oto〟って名義で」



 まるで懺悔のようにちいさな声で紡がれた言葉を、受け止めて。しばしの間、咀嚼して。わたしの返答を待ち受けている様子の音色さんに、率直な想いを、そのまま伝えた。



「そう、だったんですね。話してくださって、ありがとうございます。……わたし、てっきり、音色さんはピアニストさんか、作家さんなのかと思ってました」



 あまり音楽に詳しくないわたしでも、その名前は、知っている。


 インターネットを中心に曲を発表している、かみさまに愛された、音楽家。

 人を惹き付けてやまないその声と、奏でられる魔法のような旋律が彼のすべてで、それ以外は一切が謎に包まれている、孤高の存在。


 表舞台には決して姿を現さないそのひとが、目の前に立つ彼なのだと知って、ようやく今までのあれこれに合点がいった。



「……驚かないの?」


「ええと、多少は驚きましたけど、音色さんは、音色さんなので……。どちらかというと、納得、の方が大きいです。だから、あんまり気軽に外出できなかったんだな、とか」



 あの言葉選びも、時間にあまり拘束されていないように見える生活も、時折連絡が途絶える理由も、見えない一本の糸で繋がっていたのだ、としみじみ頷いていると、音色さんがちいさく唇を動かした。



「……ごめんなさい、いま、聞き取れなくて」


「何でもないよ。――それでさ、本題なんだけど」



 てっきりもう大事な話は終わったものかと思って気を抜いていたから、身構えるのが、一瞬遅れてしまった。その、ほんのわずかな隙を、突くように。




「俺と、別れてくれない?」




 ちょっとそこのピーラーを取ってほしい、と告げるかのような軽さで放たれたその言葉が、しんと静まり返った玄関先に、波紋のごとく広がっていく。



「……理由を。伺っても、いいですか」



 真っ白になった頭から、ようやくそれだけ絞り出すと、はあ、と重い溜息が返ってくる。髪を乱暴な手つきでぐしゃりと掻き混ぜた音色さんは、面倒臭いな、という苛立ちがはっきりと滲んだ声と表情で、その答えを口にした。



「きみと二人で歩いているところを、写真に撮られた。それで、その写真が、明日発売の雑誌に載る。――それってさ、俺にとって、すごい困ることなわけ。事務所にも、相当迷惑がかかる」



 思いもかけない言葉に、全身が凍り付く。それが音色さんにとって、どれほど致命的な事態なのかは、ろくに回らない頭でも十分に理解することができた。


 ――わたしの、せい、で。


 全身が、小さく震え出す。声が、出ない。謝らなくては、何か言わなくては、とわかっているのに、喉が、唇が、全く動かなかった。


 凍てる冬の海のまなざしが、醒めた声が、わたしから、体温を奪い去っていく。



「ちょうど良かったじゃん。他に帰る場所も、やさしくしてくれる人もできたんだから、俺はもう用済みでしょ。――いい加減、解放してくれないかな。俺は、ただ、音楽に、集中したいんだよ。こんなことに、いちいち煩わされたくない」



 氷の礫のような言葉が、他ならぬ彼の唇から放たれているという事実が、何よりも鋭く、胸に、突き刺さって。



「そもそもきみは、別に俺のこと、好きでも何でもないんでしょう。本当に、俺に、『付き合って』くれてただけ。……きみはさ、俺に、何も望まないよね。ただ、好意を寄せられてるから、懸命に、返さなくちゃ、って思ってるだけで。――そういうのにも、もう、疲れたんだ」



 その唇は、もう、わたしの名前を、紡がない。



「だから、さよなら」



 温度のない宣告を残し、音色さんが、踵を返す。迷いのない足取りで、その瞳が、ゆびさきが、背中が、遠ざかっていく。


 ぱたん、と音を立てて玄関の扉が閉まった後も、わたしはその場に立ち尽くしていた。





 * * *


 万が一にも彼女に見られていてはいけないから、駆け出したい気持ちを堪え、ことさらにゆっくりと通路を歩く。確かに足は前に出しているはずなのに、意識と心は、すべて背後の部屋に置き去りにされたままだった。


 あの扉の向こうで、彼女は今、絶対に、ひとりで泣いている。


 抱きしめたい。そばにいたい。寄り添いたい。

 でも、できない。


 振り返りたい衝動を懸命に抑え込み、ようやく自室に辿り着いた瞬間、壁を力任せに殴りつけた。そうでもしないと、目から、喉から、何かが零れ落ちてしまいそうだった。


 ――泣くな。俺に、泣く資格なんてない。


 彼女の、血の気の引いた真っ白な顔と、見開かれたまま凍り付いた瞳が、胸に灼きついて離れなかった。



「……ごめん」



 いっそ嫌われたいと、嫌われてしまえと願ったのは他でもない自分だったのに、湧き上がってくるのは後悔と罪悪感ばかりだった。


 彼女が、二度と自分の顔など見たくもないと、思ってくれたらいい。

 怒って、嫌って、蔑んで、自ら去って行ってくれたらいい。

 そうすれば、無様に追い縋らなくて済むから。あの笑顔を向けられたら、離れがたくなってしまうから。手を、離せなくなってしまうから。



「……ごめ、ん」



 あんな顔を、あんな目を、させたくなかった。

 ずっと、笑っていてほしかった。

 それなのに、笑顔にしたいと願っていたはずのこの手で、彼女を深く、傷つけた。



「ごめん……っ」



 耐えがたいその痛みに、心が引き裂かれる。できることなら、今すぐ彼女の下に駆け寄って、傷つけてしまったことを謝りたかった。


 もう一度、彼女の笑顔が見たかった。その名前を、呼びたかった。話の続きを、聞きたかった。


 けれど、もう、それは叶わないから。

 自分には、もう、彼女の名前を呼ぶ資格など、ないから。

 自分が自分である限り、きっとまた、こうやって、彼女を傷つけてしまうから。


 それくらいなら、たとえどれほど苦しかろうと、離れる方がましだった。ようやく前に進み出した彼女の妨げになるくらいなら、自分の心くらい、いくらでも殺してやろうと思った。


 ああ、ひょっとしたら、きみも、お姉さんになろうと決めた時、こんな気持ちだったのかもしれないな、と考えて、自嘲が漏れる。


 ――嘘を吐け。俺があんなに、きれいな生き物であるものか。

 ――わかっているくせに。彼女を本当に傷つけるのは、あんな記事や、世間の好奇の目なんかじゃないって。


 胸の中で、未だに誰にも明かしたことのない、どす黒い真実が、どろりと蠢く。



 ――お前に、人が、愛せるものか。



 その証左のように、音が、鳴る。言葉が、溢れ出す。旋律の欠片が、頭の中を過ぎっていく。

 自分は、それに、けして抗えないのだと、思い知る。


 絶望とともに、意識が、研ぎ澄まされていく。周囲の光景も、彼女の声も、次第に遠ざかって、輪郭を失っていく。深い、海の底にも似た静寂の中に、すべてが沈んで、凪いでいく。



 束の間の瞑目を経て、一歩を踏み出したそのとき、もう、迷いはなかった。


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