#15 秘密
「あ、音色さん。お帰りなさい」
扉を滑らせる音に顔を上げた鏡花さんが、食器にお菜を盛り付ける手を止めて、ぱっと表情を明るくする。ささやかで純粋な好意の発露に、つられて口元が綻ぶのを感じながら、帰りの挨拶を口にした。
「ただいま帰りました。――あれ、その服」
エプロン越しにもそれとわかる、淡い、春の花のような色彩に目を留めて尋ねると、鏡花さんは、照れたようにちらと視線を逸らしてから、耳の後ろに髪をかけた。
「……気付かれました? 実は昨日、買ってみたんです。もうすぐ春、ですし」
はにかむように伏せられた目と、ほのかに色づいた頬でそう呟かれたものだから、外に出るわけでもないのに、わざわざ下ろし立ての服を着てきてくれたのか、と悟り、健気さに胸がきゅっと締め付けられた。
「――可愛い。鏡花さんに、ものすごく似合ってる」
はずみで内心の本音がそのまま口から零れ出たことに、ややあってから気付き、じわじわと頬に熱が集まっていく。何というか、紛れもない本心ではあるのだけれど、自分が柄でもない台詞を口にしたことが、気恥ずかしくて仕方なかった。
「……ありがとう、ござい、ます」
一方の鏡花さんはといえば、白い肌を首まで赤く染めていた。その淡い色合いに、恥じらうような表情に、視線を吸い寄せられる。
――あの薄くてやわらかそうな肌に、花のような痕を咲かせたらどんなだろう。つい過ぎった不埒な考えを散らすように、髪をがしがしと掻き混ぜる。
「音色さん?」
きょとんと瞬く彼女に、何でもない、と曖昧な笑みとともに告げて、夕食の支度をともにするべく歩み寄った。
あれやこれやと他愛のない話に花を咲かせつつ食事を終え、ほうじ茶で片付け前に一服していると、湯呑を置いた鏡花さんに、あの、と声を掛けられた。
「音色さん。お話が、あります」
少しだけ緊張を孕んだまっすぐなまなざしを向けられて、無意識に背筋が伸びる。内心身構えたのが表情にも出ていたのか、鏡花さんは慌てて、大した話じゃないんです、と付け足してくれた。
「――わたし、通信講座で、管理栄養士の資格を取ろうと思います」
取ってみたい、ではなく、取る、と口にした彼女に、確かな変化の兆しを感じ取り、じわりと、まばゆいものが胸の中に広がっていく。
「そう、なんだ。……鏡花さんなら絶対向いてるし、こつこつ頑張れるから、すぐに取得できると思う」
「ありがとうございます。時間は、それなりにかかるとは思うんですけど……今のお仕事も、わたし、好きなので。お仕事も続けつつ、頑張りたいと思います」
今の仕事が好きだ、とはっきり告げた彼女に目を細めつつ、ん、待てよ? と思わず首を傾げる。
「え、でもさ、それって忙しくならない? 俺の晩ご飯作ってて大丈夫?」
「どちらにしても、ご飯は作るので。一人分も二人分もおんなじです!」
任せてください、と小さくガッツポーズを作って笑う彼女が、まぶしくて。
春の、透明な陽射しの中にいるようだ、と思う。
「ありがとう。でも、無理しないでね。忙しいときは俺が作ったりも……買ってきたりもできるから、いつでも言ってください」
「言い直しましたね」
「自分の実力を過信してないだけ。――微力ながら、応援してます」
「ありがとうございます。嬉しい、です」
新しい洋服に身を包み、彼女が前に進み始めたことを、素直に嬉しい、と思う。その気持ちに偽りはないし、心から応援したいと、願ってもいる。
それでも、そのまばゆさに、目を細めてしまうのは。
「それでですね、音色さん。……今後のこと、なんですが、」
――背後に長く伸びた自分の影に、気付かされてしまうから。
彼女に比べて、自分は。
未だに、秘密を、打ち明けられないまま。
「わたし、一旦実家に戻ろうかと、考えているんです。――あ、別に、またお姉ちゃんのふりをしようってわけじゃ、ないですよ? でも、もう少しお母さんの気持ちが落ち着くまでは、できるだけそばにいたいな、と思いまして」
後ろ暗い感情に呑まれかけていた思考が、鏡花さんの発言に、ぐらりと揺さぶられる。眩暈のように、視界が、揺らぐ。
――彼女が、いなくなる?
彼女がいない日常を想像しようとして、まったくその光景を思い描けない自分に気付く。けれど、彼女の邪魔にだけはなりたくなかったから、内心の動揺を覆い隠して、どうにか声を絞り出した。
「鏡花さんが、望むなら、もちろん賛成だけど……本当に、大丈夫?」
「はい」
短くもきっぱりとした響きに、ああ、これは紛れもなく彼女自身の意志なんだな、と安堵して。
「……え、晩ご飯は、お母さんと一緒に食べないの? わざわざこっちに来て作ってから帰るって大変でしょ。俺ならいいよ、何とかするから」
ややあってから先の宣言とガッツポーズを思い出し、それはさすがに、と遠慮がちに切り出すと、きょとんとした顔で、彼女は何度か目を瞬き。
「どちらにしても、お仕事でこちらに来ますから。――それに、わたしが、音色さんに、逢いたいんです」
さらりと口にされた言葉に、呼吸が、止まる。しかし緊張した面持ちで何事かを切り出そうとしている彼女は、こちらの表情には気付いていない様子で、意を決したように、ひとつ、息を吸い。
「あの、それで。……もし、わたしが。無事に、資格を取れたら。――今度は、」
続く言葉を、鳴り響く無機質な電子音が引き取った。息を詰めるような静寂の中に携帯の着信音が鳴り響き、はっとしたように目を瞬いた鏡花さんが、そろそろお暇しますね、と慌ただしく席を立つ。
「ごめん、続きはまた今度ね」
「はい。おやすみなさい、音色さん」
「おやすみ」
細い背中を見送って、未だに鳴り続ける携帯電話を掴み取る。いったい誰だよ、と恨みがましく液晶を見ると、表示されていたのはマネージャーの名前だった。
「もしもし」
『吾妻くん? 今、どこにいる? 家?』
挨拶もすっ飛ばし、彼が確認事項から入るときは、大概良くないことが発生したときだと経験則で知っていた。だから単刀直入に、こちらも短く問い返す。
「家だけど。……今度はなに」
束の間、言い淀む気配を感じた。刹那の沈黙の向こう、彼の背後で慌ただしく動き回る人々の、喧騒が響き。
「岡ちゃんがすぐ答えないってことは、よっぽどまずいことが起きたんでしょ。で、なに」
あえて軽い調子で促すと、重い、溜息が耳元に届いた。ああこれは本当に緊急事態らしい、と悟り、自然と指先に力が入る。
『……宮澤さんは? いま、そばにいる?』
「いや、鏡花さんなら、さっき帰ったけど」
不意に飛び出した彼女の名前に、眉根を寄せる。またしても彼女の身に何か異変が起こったのか、と息を詰めて澄ませた耳に、固い、声が告げたのは。
『吾妻くん、落ち着いて聞いてね。――きみの、正体が世間にばれた。明日の、週刊誌に記事が出る』
背後から、刺されたような衝撃だった。
――まだ。彼女にはまだ、何も、伝えられていないのに。
最悪の形で自分の正体が露見することに絶望を覚えつつ、今はそれどころではない、と声を振り絞り、問う。
「……まあ、いつかばれるだろうとは思ってたけど。――鏡花さんのことを尋ねてきたってことは、まだ何かあるんだろ」
痛いほどに、耳元で鼓動が騒ぐ。嫌な、予感がする。本能が、警鐘を鳴らしている。
小さく息を呑んだ彼が、歯切れの悪い声で、躊躇いがちに続けた内容は。
『……その、宮澤さんと、並んで映ってる写真も載るらしい。だから二人とも、しばらく、絶対に外に出ないで』
悪夢、そのものだった。
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