#18 閃光


「ごめんね、宮澤さん。お待たせ、しました……」



 これからそちらに行く、と連絡をもらってから、およそ四十分後。力ない挨拶とともに玄関先に現れた岡崎さんの姿に、小さく息を呑んだ。


 揉みくちゃにされた、皺だらけのスーツ。土埃で、うっすらと白く汚れた革靴。胸の前で抱えたままの、黒い鞄。


 なにより、隠し切れない疲労と憔悴が、その目元に、顔の上に、色濃く滲んでいて。



「あの、この度は、ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございません。わたし、」


「宮澤さん、謝るのは僕たちの方だよ。本当に、ご迷惑をかけてしまって申し訳ない。……あれじゃろくろく、外にも出られないでしょう」



 どんな叱責も批判も、受け止めるつもりでいた。にもかかわらず、謝罪を途中で制した岡崎さんの目は、あろうことか、わたしを案じる光を帯びていた。



「いえ、わたしはもともと、あまり外出しませんし、それに人相も映ってはいなかったので。――でも、音色さんは、その、お顔が、世間に、」


「それでも、あんな風に書き立てられたら気分が悪いし、なにより怖いでしょう。……ごめんね、僕も、できる限り力になれるように頑張るから」


「……ありがとう、ござい、ます」



 記事の対応で、間違いなく、疲労困憊しているだろう。事務所にも、確実に何らかの不利益や損害が、発生しているはずだ。

 それでも、この人は、わたしの気持ちを案じて、力になりたいと言ってくれるのかと思って、声が震えた。



「――そう、顔出しの件は、こっちで何とかするから大丈夫。それよりも、今は吾妻くんの行方を突き止めなきゃ。……えーと、宮澤さんは、何も聞いてないんだよね?」


「……はい。お役に立てなくて、申し訳ないです」



 悄然とうつむくと、とんでもない、吾妻くんがこっちにいないことがすぐわかっただけでも助かったよ、と岡崎さんはにこりと微笑んだ。



「あ、そうそう。ひとつ宮澤さんに、力を借りたいことがあるんだ。……これ、解読できる?」



 そう言ってスーツの内ポケットから携帯電話を取り出した岡崎さんに、鈍く光る画面を差し出される。



『しばらく潜ります。探さないでください』



 メールの文面は、それだけだった。無言で視線を携帯電話から岡崎さんに戻すと、苦笑と溜息が降ってきた。



「ヒントが少なすぎるよね。どこ行くのかもいつ帰ってくるのかも書いてないし」

「……そう、ですね」



 想定よりも遥かに情報量が限られた文章を目の当たりにして、これは岡崎さんが嘆息するわけだ、と納得する。



「このメールは、いつ頃届いたんですか?」


「今日の未明くらいかな。僕が電話したのが昨日の夜で、そのとき大人しくしておいてね、って頼んだんだけどね……」


「あの、音色さん、昨日の夜に、訪ねて来られたんです。ということは、それからすぐに支度をされて、どこかに向かわれた、ということですかね……?」



 ふふふ、と遠い目をして何だか怖い笑みを浮かべていた岡崎さんが、わたしの推測を耳にして、ぱちりと瞬きをする。



「宮澤さんは、吾妻くんが面倒事から逃げ出した、とは考えてないんだね」


「音色さんは、こういうとき、逃げたりしないと思います。……何か、岡崎さんの言いつけを破ってでも、しなければならないことが、あるのではないかな、と」



 指摘されて初めて、ああ、自分は彼のことを信じているのだな、と気付く。そもそも、周りのことをよく見ている彼が、今この状況下で、無責任に出歩くとは到底思えなかった。


 ――何か、理由があるはずだ。


 まっすぐに見つめた岡崎さんの目が、ゆっくりと、細められる。



「……僕も、そう思うよ。吾妻くんは、逃げ出したりしない」



 それにしてもひどいよね、自分一人で背負い込んで、目的地も告げずにどこか行っちゃうんだから、と冗談めかして続けた岡崎さんの表情は、先程までよりも、心なしか、少しだけ明るくて。



「というわけで――家探し、しよっか。吾妻くんには悪いけど、緊急事態だからやむなしってことで」





 岡崎さんは、音色さんから届いたメールを読んだ時点で、これはもう自宅にはいないかもしれない、と直感していたらしい。一縷の望みを託して所在の確認を頼んだものの、やはり想像通りだった、と岡崎さんはスーツの肩を竦める。



「だから、何でもいいから、居場所を突き止める手掛かりが残ってないかなー、と思って、藁にもすがる思いで来てみたんだ。……まあ、そんなに都合よく見つかるかはわからないけど」



 二人してリビングのあちこちを物色しつつ、気を紛らわせるように言葉を交わす。沈黙が続くと、否応なく不安が募ってきてしまうのは、二人とも同じだった。



「岡崎さん、冷蔵庫の中身は、昨日の晩からほぼ変わってないです。多分、ペットボトルが一本減っているくらいかと。食べ物は減ってないです」


「朝食分が減ってないってことは、やっぱり夜のうちに出て行ったってことか……。食料は、現地調達する気なんだろうね」


「でも、お店で買い物や食事をされるのは、目立ちますよね?」


「いや、多分宅配で届けてもらうつもりなんじゃないかな。そうすればほぼ外に出なくて済むから。……そうか、少なくとも、宅配してもらえる場所にはいるんだろうな、きっと」


「それでも、範囲を絞り込むのは、なかなか難しそうですね……」



 うーん、と二人して手を止めて考え込んでいると、ふと、冷蔵庫からなくなっていたペットボトルのことが、頭を過ぎった。



「あの、岡崎さん。さっきのペットボトルみたいに、この家からなくなっているものを探したら、何か手掛かりにならないでしょうか?」


「――ああ、そうか。急いで出て行ったと思しき吾妻くんが、わざわざこの家から持ち出したものがわかれば、外出の目的が見えてくるかもしれないってことだね。なるほど、ナイスアイディアだよ宮澤さん!」



 何か他に、なくなってそうなもの思いつく? と問われて、しばし黙考する。


 ――長くなるかもしれない外出、で、持っていくとすれば。



「……やっぱり、着替え、とかですかね?」


「確かに。――そうだ、服見てみよっか。ごっそりなくなってるようなら、遠出してる可能性もあるし。よし、早速行ってみよう!」


「……ええと、勝手に、拝見しても、」


「僕が許可するよ。緊急事態だし」



 本当にいいのかな、と罪悪感を抱きつつ、勝手知ったる足取りで歩き出した岡崎さんの後を追う。



「あの、わたし、音色さんがどんな服を持っていらっしゃるのかは、よくわからない、のですが……」


「僕もそんなに自信があるわけじゃないけど、多分大丈夫だと思う。吾妻くんが籠ってるとき、たまに着替え持って行ったりしてたから」



 岡崎さんが無造作に廊下に面した扉を開き、広いウォークインクローゼットが視界に映る。ポールに吊るされているのは、立派なハンガーに掛けられた二十着前後の普段着と、クリーニング済みなのであろう、ビニールに覆われた洋服が数枚。部屋の面積に比して、かなり控えめな数だな、というのが率直な感想だった。


 その代わりのように、この部屋を埋め尽くしているとあるものに、つい目が引き寄せられる。



「うーん、相変わらず、クローゼットじゃなくて、保管庫にしてるなあ、ここ」



 苦笑した岡崎さんが、服のかかった一角以外を占領しているラックを視線で示し、苦笑する。


 生地の薄さも素材も丈もばらばらで、無造作に吊るされている洋服とは対照的に、きっちりと何らかの意図を持って並べられていることがすぐさま見て取れる、棚の中身は。


 ――大量の、CDだった。


 おそらく数百枚ではきかないであろうその圧倒的なコレクションの数に、思わずしげしげと見入ってしまった。



「ここにある分で全部じゃなくて、多分まだ吾妻くんの部屋にもあるんじゃないかな。掘り出し物のCDとか、目がないんだよね。――うーん、服は多分、着替えを一着持って行ってるか行ってないかくらいの気がする。……次、吾妻くんの部屋、行ってみようか」


「え、」



 わたしは、未だかつて一度も、音色さんの私室に足を踏み入れたことがない。お付き合い、という関係性が追加されて以降も、基本的に交流の場はリビングに限られていたし、音色さんの私室は、わたしにとって、何のお仕事をしているのか、という問いと同じく、足を踏み入れてはならない聖域だった。その暗黙の了解を、よりにもよって本人が不在の時に破ってよいものか、と自答しているうちに、部屋の前に辿り着いてしまった。



「吾妻くん、ごめん。入るよ」



 一言詫びてから、かちゃり、と開かれた扉の奥を、見てはいけない、とわかっているのに、目が、逸らせなかった。


 暗い室内に、ゆっくりと、照明が灯る。


 最初に視界に飛び込んできたのは、部屋の一番奥に置かれた、使い込まれた風合いの茶色い机と、不思議な形状の黒い椅子だった。大きな机の上には、デスクトップのパソコンと、その両脇に、ケーブルで繋がれた黒い箱のようなものが、四つ。パソコンの右手には、プリンターと、その上に置かれたコピー用紙が。左手には、用途がよくわからない機械のようなものがいくつか並べられて、整然と沈黙を保っている。


 存在感を放つ机から少し離れた右の壁際には、圧倒的な量の本が並べられた棚が。そして左の壁際には、これまたCDが所狭しとひしめくラックが置かれていた。


 まっすぐ机に近付いていく岡崎さんの後に続き、お邪魔します、と囁いて、室内におそるおそる足を踏み入れる。スーツの背中に、どうですか、何か参考になりそうなものはありますか、と声を掛けようとしたその時、ふと、机の上に置かれていたとあるものが、目に留まった。



「……ヘッドフォンと、器材がいくつかなくなってる? そうか、もしかしたら――――」



 それを認識した瞬間、呼吸が、時間が、止まる。

 すぐ近くで響いているはずの岡崎さんの声が、急速に、遠のいていく。


 ――どう、して。


 机の上に置かれた、古びた小さな箱を。箱の表面に書かれた滲んだ文字を、凝然と見つめる。


 ――どうして、これを、音色さんが、持ってるの?




 耳元で響く、雨の音。鼻先を掠める、濡れた、土のにおい。

 低く穏やかな、声。犬の、おまわりさん。

 一目散に駆け出していく、小さな、後ろ姿。

 並んだ、傘と傘。

 ぶっきらぼうに差し出された、ばんそうこう。




 閃光のように、懐かしい記憶が、心の中を、一瞬で駆け巡って。

 無意識に右手が動き、肌身離さず持ち歩いているお守りを、ポケットから取り出す。




 あの日、わたしにやさしくしてくれた、あのひとは。

 かつて、わたしを絶望から救ってくれたあの曲を、創ったのは。




「――――――――音色、さん、だったの……?」




 雨に濡れて、少しでこぼこになった箱の表面に、勢いのある筆跡で書かれた、その文字は。



 花に、落雷。



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