#7 恋とはどんなものかしら


「……ちゃん? 大丈夫?」



 よく通るはずの晴江はるえさんの声が、遠い。店内に流れる音楽が、お客さんの行き交う足音とざわめきが、レジの横に置いた自分の腕が、遠い。


 頭が、痛い。――気持ち悪い。


 自覚した瞬間、堪えきれなくなって、その場にしゃがみ込んだ。



「宮ちゃん、少しだけ動ける? ここじゃ何だし、奥で休んでから帰んなさい。ね? ――昭雄あきおさん、ちょっと店番お願いします!」



 労わるように背中に手を添えてくれた晴江さんの囁きに小さく頷き、促されるままに、店の奥へと這いずるように進む。



「……ごめんなさい、ご迷惑、」


「大丈夫、大丈夫。こんな時にまで周りのことを考えなくていいのよ」



 通路から十歩も行かないうちに、勝手口と思しき場所に辿り着いた。あれ、奥って更衣室のことじゃなかったのかな、とぼんやり考えているうちに、無造作に扉を開け放った晴江さんに、流れるように室内に導かれる。そのまま居間の木の椅子に、両肩をぽんと押されて座ったと思ったら、背中にクッションが二つ滑り込んできた。



「支度してくるから、ちょっとだけ掛けて待っててちょうだいね」


「あの、支度、って、」



 ここで大丈夫です、と引き留める間もなく、晴江さんの姿は硝子戸の向こうに消えていた。ちらと視線を動かすと、十字模様の入った擦り硝子越しに、てきぱきと立ち回る人影が見える。


 申し訳ないな、と思いつつ、それ以上声を発するのは諦めて、大人しく目を閉じた。背に置いてくれたやわらかなクッションに体重を預け、呼吸を整えることに専念していると、ほどなく晴江さんに呼び掛けられた。



「宮ちゃん、お待たせ。もうちょっとでお店も終わるから、それまでこっちで休んでなさい。狭いとこで悪いけど」



 硝子戸の横から顔を覗かせた晴江さんに小さく手招きされ、おそるおそる近付いていく。ほどなくして視界に飛び込んできたのは、六畳ほどの和室と、その中央に敷かれている、布団だった。室内に踏み入れかけていた足先がぴたりと止まり、思わず喉から疑問が零れ落ちる。



「え、よろしいん、ですか……?」



 いち従業員に過ぎない自分が、私的な空間にここまで立ち入っていいのか。他人様の家の布団を使わせてもらってもいいのか。そもそも主の留守中に室内にいてもいいのか、と尻込みしていると、その気配を感じ取ったらしい晴江さんは、すべての躊躇いを吹き飛ばすように一笑した。



「いいのいいの。ほら、早く横になって!」


「すみません、ありがとう、ございます……」



 遠慮できるような体調でも状況でもなかったので、ありがたく厚意に甘えて、恐縮しながら布団の中にそろりと潜り込む。シーツと布団の、ひんやりした肌触りが、熱を帯びた身体に何とも心地よかった。



「大丈夫よ。起きたらきっと、良くなってるわ」



 布団を肩まで掛け直してくれた晴江さんは、ゆっくり休んでてね、と言い置いて、静かに和室から出て行った。


 目を閉じると、かすかに藺草いぐさの青いにおいがした。神経の昂りをすっと鎮めてくれるような、涼やかな、匂いだった。静寂と、少しひんやりとした空気が満ちた仄暗い室内は、どこか現実から切り離されているかのようで、なぜだかひどく落ち着いて。


 脈打つような頭の痛みが和らいでくる気配を覚えつつ、ぼうっと霞んでいく意識を、いつしか手放していた。





 * * *


 とん、とん、と包丁が、まな板の上で躍っている。やさしい出汁の香りと、時折聞こえる、水が流れる音。誰かが足音を潜めて、立ち回っている気配。


 胸の奥がかすかに軋むような懐かしさとともに、ゆっくりと瞼を持ち上げた。頭の芯が時折鈍く痛むような感覚は相変わらずだが、ひと眠りさせてもらったおかげで、吐き気はだいぶ和らいでいた。おかげさまで何とか帰れそうだ、と安堵しつつ、身体を起こして布団を畳もうとしていると、計ったかのように、硝子戸をそろりと開けた晴江さんと目が合った。



「あ、あの、ありがとうございま、」


「もう、布団なんかそのままでいいから! 起きててよかったわ。宮ちゃん、体調はどう? 何か食べられそう? ちょうどご飯ができたから、もし食べられそうなら食べて帰んなさい。もちろん、持ち帰りでもいいわよ」



 お粥は梅干しと卵、どっちが好き? と訊かれて、とっさに梅干しです、と答えると、あら気が合うわね、と晴江さんはからりと笑った。



「まだ顔色は悪いけど、さっきよりは少しよくなったかしらね。まあ、よかったら一口だけでも食べて行ってちょうだい」


「……ありがとう、ございます」



 起き抜けの頭でようやく一言だけ返して、颯爽と身を翻した晴江さんの背を、慌てて追いかけた。


 居間の机の上には、所狭しと食器が並べられていた。恐縮しつつ、示された席に着いて改めて食卓を見渡すと、ほう、と思わず溜息が零れた。


 可愛らしい茄子と富士山の箸置きに置かれた、桜色の塗り箸と木匙。

 なぜか茶色と白のお茶碗に分けられた、お粥。一口か二口分くらいの、控えめな量が盛り付けられた小鉢には、ほっくりと炊かれたかぼちゃや、つるんとした玉子豆腐や、たっぷりと出汁を含んだ切り干し大根や、細く短冊状に刻まれた山芋が。その隣に置かれた硝子の器の中では、すり下ろされたばかりであろう林檎が、黄金色に輝いていた。



「……いい、匂い」



 正直なところ、ほとんど鳴りを潜めていた食欲が、食卓からほわりと漂ってくる得も言われぬ香りに触発されて、急速に呼び覚まされてくるのを感じた。



「はい、梅干しね。種はこのお皿に入れて。残り物ばっかりだけど、食べられそうなものだけ食べてね」


「本当に、ありがとう、ございます……」



 蓋付きの丸い陶器と豆皿を食卓の上に並べるや否や、晴江さんはくるりとシンクに向き直り、スポンジと食器を手に取った。そのままてきぱきと後片付けを始めた晴江さんの背中を、しばし見つめる。


 ――誰かが、ご飯を作ってくれるのは、いつ振りだろう。

 ――とても、忙しいのに。こんなに、たくさん。


 それも、食べやすくて、消化のいいものばかり。元々作り置いていた、はずがないのに。


 ――それなのに、残り物だから気にしないでいいよ、って言ってくれて。

 ――見られていると落ち着けないだろうから、と背を向けてくれている。


 それらすべての、思い遣りが、心遣いが、ひどく沁み入って。少しだけ、泣いてしまいそうになった。


 だから、精一杯の感謝を込めて。



「――いただきます」



 晴江さんの背中に、そう告げた。



「どうぞ、召し上がれ」



 合わせていた両手を戻し、硝子の器を包み込むように持ち上げる。普段なら果物は最後に食べるけれど、せっかくすり下ろしてくれたのだから、林檎の色が変わってしまう前にいただいておきたかった。


 木の匙を手に取り、一口含むと、爽やかな甘酸っぱさが舌の上に広がった。乾いた喉を潤す甘露の味わいに、一口、また一口、と匙が進む。果実のしゃりしゃりとした食感とはまた違う、しっとりとしたやわらかな喉越しも相まって、何ともやさしい味わいを醸し出していた。



「美味、しい……」



 あっという間に空になった硝子の器を戻し、続けてお粥の椀に手を伸ばした。どうしてお茶碗が二つに分かれているんだろう、という小さな疑問は、鼻先をふわ、と掠めた香りで解けた。


 ――出汁の、香り、だ。


 昆布と椎茸の入り混じった、豊かな香りに包まれたやわらかい米を一口噛み締めると、思わず声が漏れた。



「……おいしい!」



 ――そうか、お粥は出汁で炊いてもいいんだ!


 お粥と言えば、白粥だとばかり思っていたけれど、これは美味しい。出汁の旨味がお米の風味と合わさって、すごく美味しい。革命的だ、今度作ってみよう、と感嘆しつつ、ひたすらに匙を口に運んだ。


 その調子で、次々とお皿に手を伸ばしていると、徐々に胃がずしりと重たくなってきた。すると洗い物をしていた晴江さんが、背中にも目がついているのではないか、と錯覚してしまうような頃合いで、声をかけてくれた。



「無理に全部食べようとしなくて大丈夫よ。お茶は急須にある分を飲んでね」


「ありがとうございます。あの、どのお菜も、すごく、美味しかったです! お出汁で炊くお粥、今度、家でも作ってみようと思います。……本当に、ありがとうございました。ごちそうさまでした」


「そう? お口に合ったならよかったわ。しばらく作るのもしんどいだろうし、少し持って帰る?」


「……いいん、ですか? すごく美味しかったので、少しだけ、分けていただければ、嬉しいです。とても、助かります」


「じゃあ後で包むわね。まあ、お茶でも飲んでゆっくりしてて」


「ありがとう、ございます……」



 恐縮しつつ、シンクに食べ終えた食器を運ぶと、そこに置いておいて、と視線で示される。代わりますよ、と申し出ると、病人が何言ってるの、休んでらっしゃい、と笑いながら一蹴されてしまった。


 目元に笑い皺がうっすらと刻まれた晴江さんの横顔を見ているうちに、なぜか、問うつもりの全くなかった問いが、ぽろりと口から零れ落ちていた。



「……晴江さん。昭雄さんと、どうしてお付き合いされよう、って思われたんですか」


「昭雄さんと? そうねえ、きっかけはお見合いかしら」



 しまった、唐突になんてこと訊いちゃったんだろう、と自分の口から飛び出した言葉に慌てふためいているうちに、あっさりと晴江さんは答えてくれた。



「そう、なんですね」


「もう少し詳しく知りたい? まあ、ひとまずどこかにお掛けなさいな宮ちゃん。話はそれからよ」



 笑みを含んだその声に促され、先程案内された席まで戻る。椅子を引いて腰かけた後、何度か口を開いては閉じ、やがて意を決しておずおずと声を掛けた。



「わたしだけ座らせてもらってすみません。……もしよろしければ、差し支えのない範囲で、お話、お伺いしたいです」


「要するに、昭雄さんとの馴れ初めを話せばいいのよね? あまり話慣れてないし、もう忘れちゃってることもあるでしょうから、ほどほどに聞き流してちょうだいね」



 そう、前置きをしてから。

 何かを思い出すように、ほんのひととき、顔を上げて。手はいつもの通り、きびきびと動かしながら。


 やわらかい声で、晴江さんは、昭雄さんとの馴れ初めを語ってくれた。





 そうね、私がお見合いで結婚した、って言うと、だいたい皆驚くのよ。だって晴江さん、あなたいくら周りからいい人だって勧められても、簡単に頷くような人じゃないでしょう、って。まったくその通りだったのよ、昭雄さんと出逢うまではね。


 私は昔からこの調子で、思ったことはきっぱり口に出すし、よく喋るし、まあなかなかのお転婆てんばだったからね。見合い話を親が持ってきても、相手が気に入らなければ、面と向かってはっきりとお断りしてたのよ。普通、そんなことしたら仲人さんの面目が丸つぶれになっちゃうから、本人に直接お断りするのはご法度はっとなんだけどね。でも、思惑があんまりにも見え透いていると、つい言っちゃうのよ。結婚っていう身分証が欲しいだけなら、何も相手が私じゃなくてもいいでしょう、って。それでそんなことばかりしてたものだから、いつの間にか、見合い話はとんと舞い込んで来なくなったわ。


 実のところ、私は色々なことを学ぶ時間が欲しかったし、六人いた兄弟の世話を焼くのも好きだったから、結婚しなくても別にいいや、と思っていたの。親が結婚を望んでいたのはわかってたんだけど、その期待に応えるつもりはなかった。長女としての役割は、喜んで果たそうと思ってたけどね。


 話が逸れちゃったけど、じゃあどうして、昭雄さんと結婚したのかって思ったでしょう? 私も、未だに自分でも不思議になることがあるわ。


 昭雄さんとの縁談を持ってきた時は、いつもと親の様子が違っててね。ちょっと遠慮がちに、断りたいなら断ってもいいぞ、って言われたのよ。そんなこと言われたら、かえってどんな御仁ごじんなのかしら、って気になるじゃない? だから私、好奇心につられて昭雄さんに会ってみることにしたのよ。


 会食の席で会った時、すぐに親が躊躇っていた理由がわかったわ。昭雄さん、ほんとうに、一言も喋らなかったのよ。今でもあんまり語りたがる人じゃないけど、あのときは輪をかけて何も話さなかったわね。それで、親同士が冷や汗を流しながら会話をしてるのに、私も混ざって。その向かいで、昭雄さんはむっつりした顔で、黙って食事を食べてるの。話しかけても頷くか首を横に振るかくらいで、見かねた向こうの親御さんが私の質問に答えてくれて。ああこの人も、きっとお見合いに乗り気じゃないのね、それにしても今何を考えてるのかしら、って気になって、じっと観察してたわ。不機嫌そうな顔なのに、魚の食べ方がすごく綺麗だったことが、今でも印象に残ってる。


 それでは後はお二人で、っていかにも心配そうに告げられた後、私と昭雄さんは、玉景園を散策したの。今はどうかわからないけど、昔はあの辺りは、会食後に訪れる定番の場所だったのよ。それで私、「私はお見合いの後、ここに来るの今日で五回目よ。あなたは?」って訊いてみたの。そうしたら昭雄さんは、一つ瞬きをした後、黙って指を四本立てたわ。「やった、私の勝ちね」って笑ったら、昭雄さん、目を丸くした後、ほんの少しだけ、口元をゆるめてね。「なんだ、あなた笑えるのね。笑った顔、すごく素敵じゃない」ってびっくりしたまま口走ったら、また仏頂面に戻って黙り込むの。だから私、ああこの人は、ひょっとしたら話すのが照れくさいだけなんじゃないかな、って思って、あとは一方的に話しかけたり、一人で喋ったりしていたわ。池の手前に咲くチューリップが好きなの、とか、ここの小路は木漏れ日が射して綺麗よね、とか、そんな他愛もないこと。家族が私のお喋りを聞き流すのもいつものことだし、別に返事があろうとなかろうと、構わなかった。昭雄さんは、ただ黙って、私の後ろについて歩いてきてくれていたわ。


 気付いたら、入り口まで戻って来ていてね。「そういえば、私、お相手を怒らせずにここを一周できたの初めてだわ。私ばっかり喋ってごめんなさいね、うるさかったでしょう」って言ったら、昭雄さんは黙って首を振ったわ。そこで初めて、私の目をじっと見て、「今日はありがとう」って、言ってくれたの。まさか話しかけてくれるなんて思ってもみなかったから、もう本当にびっくりしてね。多分私が、ものすごく驚いた顔してたからでしょうけど――昭雄さんが、私を見て、今度こそ、ほんとうに、笑ったの。そのとき初めて、このひとは、やさしい目をしてるんだな、って気付いたわ。


 結局その日はそれでお別れして、それでもうおしまい、と思っていたら、しばらく経ってから、親が心底不思議そうな表情でやってきてね。この前お前がお会いした向井むかいさんが、どうしてももう一度お前に会いたい、って言ってるらしいけどどうする、って訊かれたの。それはもう仰天したけど、気付いたら、会います、って答えてたわ。


 それで今度は最初から二人きりで会うことになったんだけど、昭雄さん、なかなか来なくてね。当時は携帯電話なんてなかったから、ちょっとだけ心配しながら待ってたの。そうしていたら、息せき切って昭雄さんがやって来て、「遅れて申し訳ありません」って平謝りするのよ。で、なぜか顔と手には小さい傷がついてるし、服の裾には松葉がくっついてるから気になって、何があったのか訊いたのよ。そうしたら、しばらく黙り込んだ後、「猫を、捕まえていて」としか言わないわけ。そんなの、余計気になるじゃない? 問い詰めたら、どうも猫が松に登って下りられなくなったのを、小さい子が下から心配そうに見ていたから、つい捕まえに行ってしまったんですって。そんなの、最初から言ってくれればいいじゃない? でも、人助けをしていて遅れました、なんて言わないのよあのひとは。無理矢理にでも聞き出さない限り、遅れて申し訳ありません、しか言わないの。


 とりあえず、傷の手当てをしましょう、って引っ張っていこうとしたら、「待ってください」って言われてね。「もう今日は充分待ったわよ」って笑いながら振り返ったら、目の前に、チューリップの花束を差し出されていたの。


 あんまり突然だったから、どうして、って訊いたのよ。そうしたら、昭雄さんはね、顔を真っ赤にして、こう言ったの。



「――あなたが、好きだと、言っていたから」



 もう、何も、言えなかったわ。このひとは、本当に、私が何の気なしに口にしたことも、ちゃんと聞いていてくれて、覚えていてくれたんだって、まずそのことに驚いて。それに当時はまだ、チューリップはどこの花屋さんでも手軽に買えるような花じゃなかったの。だからきっと、このひとはあちこちお店を回って、この花束を見つけてくれたんだ、って胸がいっぱいになって。がらでもないのに、いったいどんな顔で花屋さんに行ったのかしら、って考えると、くすぐったいような気持ちになって。我ながら単純だと思うけど、初めて花束をもらって、ときめいちゃったんでしょうね、きっと。私も花束を贈ってもらえるような性格の娘じゃなかったから、余計にね。しかも相手は、あの仏頂面の昭雄さん。それが、自分でも意外なくらい、嬉しくてね。珍しく、喉に何かが詰まったみたいに言葉が出てこなくて、しばらくしてから、ようやく声を絞り出したのを覚えてるわ。



「――ありがとう、昭雄さん」



 それが、きっかけと言えばきっかけなんだろうけど、きっとそれまで、見えない積み重ねが心の中にあったんでしょうね。あくまで花束は、気付くきっかけだったってだけで。





「それから昭雄さんは、毎年私の誕生日に、欠かさずチューリップの花束を、贈ってくれているってわけ。――こんな話が、宮ちゃんのお役に立つかはわからないけど」



 水の流れる音が止まってから、ようやく我に返った。シンクの下からタッパーを取り出し始めた晴江さんの、まっすぐ伸びた背中に、深々と頭を下げる。



「……大切な、お二人の想い出を。話してくださって、ありがとうございます」


「どういたしまして。――誰かに、告白でもされたの?」



 さりげなく核心に切り込まれて、身体が固まる。振り返ることなく、小鍋からタッパーにお菜を取り分けている晴江さんの、常と変わらぬ飄々ひょうひょうとした態度に、じわじわと緊張がほどけてゆく。


 ――晴江さん、なら。


 あまり重く受け止め過ぎず、さらりと聞いてくれそうな、気がした。



「わたし、好き、っていう気持ちが、よくわからなくて。お料理が好き、とか、晴江さんが好き、っていう〝好き〟と、恋愛って、何が違うんでしょう……」


「あら嬉しい、私も宮ちゃんのこと好きよ。――うーん、改めて考えると難しいわね。今ぱっと思いつく限りだと、自分にとって、好ましい、とか、得意だ、っていう意味の『好き』は、自分一人で完結できるような気がするわ。恋や愛になってくると、自分一人では、完結できなくなってくるから」


「……恋や愛は、一人で、完結できない、んですか?」


「私はそうだった、ってだけ。恋はともかく、愛は、二人で互いに支え合って、こつこつ作り上げていくものだと思うわ。――もちろん、恋や愛のかたちは人それぞれだから、宮ちゃんには宮ちゃんだけの気持ちが、心のどこかにあるはずよ。頑張ってね」


「ありがとう、ございます。……がんばり、ます」


「まあ、あんまり悩むようなら、思い切って、宮ちゃんに、好き、って言ってくれたそのひとに、訊いてみたらいいんじゃない? 〝好き〟っていうのは、どんな気持ちなのか」


 きっと教えてくれるわよ、といたずら気な表情で振り返った晴江さんの手には、いつの間にかタッパーが詰まった紙袋が握られていた。



「はいどうぞ。――宮ちゃん、頭で考えるのも大事だけど、自分の気持ちも大切にね。そばにいたいな、とか、この人いいな、と思ったら、それだけで頷いたって、いいんだから」



 励ますようにぽんと肩に置かれた手が、向けられたまなざしが、あたたかくて。手渡された紙袋をぎゅっと抱き締めて、ありがとうございます、と呟いた。





 * * *


 帰宅してすぐに、音色さんに、『体調が少し優れないので、今日は晩ご飯はお休みさせてください。ごめんなさい』とメッセージを送った。するとほどなくして、『了解です。薬とか食べ物とか、何かご入用な品はありますか?』と返信が届いた。『大丈夫です。ありがとうございます』と急いで指を滑らせると、『用があったらいつでも呼んで。お大事に』とすぐさま返ってきた。


 ひとつ息を吐き、ふらふらとソファーに向かう。

 晴江さんの家で休ませてもらったものの、歩いて帰って来たので、少しだけ疲れを感じていた。


 ちょっとだけ休もう、と横になって目を閉じた瞬間、意識が吸い込まれるような眠気に襲われた。




 すぐ近くで、聞き覚えのある音が、鳴っている。……何かが、震えている。


 重い頭を持ち上げるのが億劫おっくうで、緩慢な動作で手だけ動かして、音と振動の源を探し当てる。掴み取って音を止めようとしたところで、音色さんからメッセージが届いていることに気付いた。慌てて身を起こし、文面にさっと目を走らせる。



『鏡花さんの部屋の前に、差し入れを置いてます。もし良かったらどうぞ。鍵の番号は0316です』



 コートを羽織る時間も惜しんで、玄関の扉を開けた。反射的に音色さんの姿を探して、廊下の奥、左隣の部屋の扉を見つめる。


 ――もう、帰っちゃったんだ。


 直接お礼が言いたかったのにな、と思いつつ、扉を開けてすぐ目に付く場所に置いてあった籠を手に取る。想像に反して、ずしりと重い中身を訝しみつつ、部屋の中に引き返した。


 さっそく籠を机の上に置き、四桁のダイヤル式の鍵の数字を合わせているうちに、あれ、これって、ひょっとしてわたしの誕生日なんじゃないかな、という益体やくたいもない考えが頭を過ぎる。まさかね、と自分の思考回路が恥ずかしくなってかぶりを振ると、その拍子にずきりと頭が痛んだ。呻きつつ最後の数字を合わせると、するりと鍵が外れた。


 すぐさま籠の蓋を開いて、目を、瞠る。


 ――卵と梅と塩味の、レトルトのお粥。お揚げとねぎと出汁入りのパックうどん。スポーツドリンクと、お茶のペットボトルが二本ずつ。ゼリー飲料が三種類と、果物入りのゼリーが二つ。



「……こんなに、たくさん」



 きっと、一生懸命考えて選んでくれたのだ、とわかって、胸がきゅっと苦しくなるような嬉しさが、じわじわと込み上げてくる。

 すぐにお礼を伝えたくて、『差し入れ、ありがとうございました。すごく嬉しいです。お代は今度改めてお支払いしますね』と、メッセージを送った。


 大量に詰められた保冷剤と割り箸を取り出し、うどんとフルーツゼリーを冷蔵庫に収めようとしていると、机の上で着信を知らせるメロディが響いた。


 電話だ、と慌てて引き返し、もしもし、と通話に出る。『体調どう? 今大丈夫だった?』と、耳をやわらかく包むような、穏やかな声が聞こえてきて、知らず笑みが浮かんだ。



「大丈夫です。おかげさまで、元気が出ました」


『そう? あんまり無理しないでね。具合が悪い時は、あったかくしてしっかり食べて寝るのが一番だから』


「……晴江さんも、同じことをおっしゃってました」


『そりゃあみんな、鏡花さんが心配なんだよ。……あれ、今日そういえば仕事行ったんでしょ? 大丈夫だった?』


「それが、途中で気分が悪くなってしまいまして。……奥で、休ませていただいた上に、ご馳走していただきました」


『え、そうだったの!? 次から言ってよ、迎えに行くから。でも、休ませてもらえてよかったね』


「ありがとうございます。……本当に、面目ないです」


『いや、それを言うなら俺の方です。……寝不足になったのって、俺が、色々言ったからでしょう。悩ませてしまって、負担をかけてしまってごめんなさい』


「違います、そんな、負担だなんてこと、」


『それだけ真剣に考えて、向き合ってくれてるのは嬉しいけど。……本当に身勝手なこと言ってごめん。ただ、鏡花さんが悩んでいるのなら、もしその原因が俺なら、話を聞きたいし、一緒に解決方法を探りたいな、とは思ってる』


「……音色、さん。あの、一つだけ、伺ってもよろしいですか」


『何なりと』


「――好き、って、どういう気持ち、なんですか」


『俺が、鏡花さんのことをどんな風に想ってるか、を話したらいい?』



 ものすごく直球な返しに、急に気恥ずかしさが押し寄せて来て、やっぱりいいです、と口走りかけたそのとき、『――逢いたい』と言われて、息が止まった。



『ふとした瞬間に、いま鏡花さんは、なにしてるかな、って考える。面白い発見をしたときとか、ちょっと嬉しいことがあったときなんかは、一番に伝えたくなる。声が聴きたいな、顔が見たいな、って思ったら、逢いたくてたまらなくなる。逢えないとさみしくて、でも逢えたら逢えたで落ち着かないし、恥ずかしいし、そわそわするし、自分が自分じゃなくなってくみたいで怖い。でも、そばにいられたら、心地よくて、落ち着いて、嬉しい。――矛盾してるみたいだけど、ほんとはまだ色々あるけど、今言葉にできる範囲だとそんな感じかな。……続きは、ちょっとまた、考えとく』



 ――どうしよう、と思った。


 音色さんが不在の期間に発見をしたあのとき、早く音色さんに伝えたいな、といちばんに顔が浮かんだこと。


 本当は、逢いたくて。さみしくて。でもお仕事なのだから、そんなこと考えちゃだめだ、って自分に言い聞かせたこと。


 ぱっと閃くように思い出してしまったそれらの感情を後押しするかのように、二人で過ごした、かけがえのない、穏やかな時間が、次々に頭を過ぎっていく。



 あなたのそばにいると、落ち着いて。

 誰の隣にいるときよりも、深く、息ができて。


 それなのに、今は。


 あなたを目の前にすると、いてもたってもいられなくて。

 あなたのことを考えただけで、胸が苦しくなって。

 自分が、自分でいられなくなってしまいそうで。

 怖いのに、それでも、逢いたい。


 ――ああ、おんなじだ。音色さんと。



「音色さん。……わたし、少しだけ、わかったかもしれません。わたしも、同じように、想ったこと、あります」



 そう告げると、電話越しに、かすかに息を呑む気配が伝わってきた。口を開きかけて咄嗟に噤んだような、どこか躊躇うような間を経て、吐息のように、そうなんだ、と音色さんは呟いた。



「わたし、音色さんのこと、好き、なんだと思います。でも、それが、どんな〝好き〟なのかがよくわからなくて、お返事ができませんでした。今、音色さんのお気持ちを聞かせていただいて、わたしも、すごく身に覚えがあるなあ、って思いました。音色さんといると、落ち着くんですけど、何だか顔が見られないですし、恥ずかしくて逃げ出したくなりますし、自分が自分じゃなくなっていくみたいで怖いです。でも、それでも、そばにいられたら、嬉しいな、って思います。わたしも、そういう風に、音色さんのことを、想っています」



 それきり、長い、静寂が満ちた。


 けれどそれは、焦って言葉で埋めるような必要性の全くない、濃密な静けさで。無言で見つめ合っているような、潮が満ちてゆくような、満ち足りた時間だった。



『――逢いに行っても、いい? 今、すごく、鏡花さんの顔が見たい』



 少しだけ掠れた、いつもよりも低い声に、どきりと鼓動が跳ねるのを感じながら、頷いてしまいそうになるのをどうにか堪えた。



「だめです。万が一風邪だったら、音色さんに移したくないので」


『移ってもいいから見たい。だめ?』


「だめです。……わたしだって、本当は逢いたいんですよ」



 心を鬼にしてばっさりと切り捨てると、その言い方はずるいなあ、とくぐもった笑い声が耳朶じだをくすぐった。とくとくと高鳴る胸を押さえて、音色さんの声の方がよっぽどずるいでしょう、と心の中だけで呟く。



『実は今、鏡花さんの部屋の前にいるんだけど、大人しく今日は退散するよ。じゃあ続きはまた、体調が良くなってからね』



 次の瞬間、足が、弾かれたように反射的に動いていた。頭の痛みすら忘れて部屋から飛び出し、廊下に出て、左側の扉を見つめると。


 ちょうど部屋の扉を開けたところだったらしい音色さんは、振り返ると目を丸くして、それから。



 ――嬉しそうに、わらった。



 ……ああ、ほんとうに、このひとは、ずるい。


 はにかむような笑みを浮かべた音色さんの声が、耳元で、響く。



『これくらい距離があるならいい?』


「……は、い」


『じゃあ、さっきの続き。――俺は、鏡花さんのことが、好きです。俺と、付き合ってもらえませんか』




「――――――――はい」




 頷くと、突然通話が切れる音が聞こえた。

 直後に身体を引き寄せられて、ぼふ、と顔が白いものに埋まる。雪のような、すうっとした音色さんの匂いに包まれて、抱き締められているのだ、とようやく認識した。背中に回された腕に、ぎゅっと少し痛いくらいに力を込められて、その強さが音色さんの想いの丈を物語っているようで、胸がきゅうっと苦しくなる。


 それでも、離してほしい、とは全く思えなくて、広い肩にすっぽりと包み込まれたまま、唯一自由が利く指先だけをぱたぱたと所在なく動かしていると。


 突然腕の力をゆるめられ、至近距離で、夜の海の瞳と、目が合った。

 その目が、やさしく、細められて。薄い唇が、ほころんで。



「――ありがとう」



 今まで見たことがないような表情で、深い響きでそう告げられたものだから。



 ――魂を抜き取られてしまったかのように、見惚れてしまった。


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