#6 青天の霹靂

 

 聞き慣れた旋律が、どこか遠くで流れている。


 奇妙に冴えた思考で、どこに置いたんだったかな、と昨晩の記憶をなぞろうとしたものだからいけなかった。ぶわり、と連鎖的にいろいろな感触やら熱やらを思い出してしまい、たまらずキッチンの床にうずくまる。


 かぶりを振って脳から昨日のあれこれを追い出そうと試みつつ、音が鳴っている方向を特定することに意識を集中させる。おそらく発生源は、リビングの中ではない。となると寝室かな、と足を向けると、はたして充電ケーブルに繋がれた携帯電話が、出勤一時間前を知らせるアラームを響かせていた。


 習慣の力ってすごいなあ、と小さな感嘆を覚えつつ、アラームを止める。そのままリビングに引き返し、あらかた整えていた身支度を終えた後、携帯電話に向き直った。

 入力と全消去を何度か繰り返し、おそらくまだお隣に滞在中であろう岡崎さんにメッセージを送った。



『昨晩はありがとうございました。もし音色さんが何か食べられそうなら、こちらの部屋の冷蔵庫に、おかゆとおかずがありますのでご自由に召し上がってください。岡崎さんも、もしよろしければサンドイッチをどうぞ』



 よし、と一仕事を終えたつもりで携帯電話を鞄にしまおうとしていると、手の中でピロン、と通知音が鳴った。見れば相手は岡崎さんで、『こちらこそありがとうございます。吾妻あがつまがご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。もし差し支えなければ、これから少しだけ伺ってもよろしいでしょうか?』と、丁寧な文章で綴られていた。



『はい、大丈夫です』



 端的に返し、急いで冷蔵庫へと向かう。せっかくこちらに来てもらえるのならば、一緒に食事を持って帰ってもらった方がいいだろう、と慌ただしく紙袋に器を詰め込んでいると、リン、とドアベルが鳴った。


 ぱたぱたと玄関に向かい、扉を開ける。外に立っていた岡崎さんに、「お待たせしました、おはようございます。昨日はありがとうございました」と告げて、身振りで室内に入るよう促すも、彼は首を振って辞退の意を示した。



「宮澤さん、昨日は夜遅くまでごめんね。吾妻くんがご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ない。あいつが起きたら、僕からもきつくおきゅうを据えておきます」



 深々とスーツ姿の岡崎さんに頭を下げられてしまい、慌てて「そんなことないです! あの、頭、上げてください!」と懸命に訴える。



「その、音色さん、他の方をかばって、飲み過ぎてしまったんだって伺いました。だから、あんまり怒らないであげてください。……岡崎さんも、昨日、ほとんど眠られてない、ですよね? 付き添ってくださって、ありがとうございます。わたしが夜中にご連絡をしてしまったばかりに、ごめんなさい」



 岡崎さんに頭を下げると、今度は岡崎さんが「いやいやいや!」と狼狽ろうばいした声を上げた。



「宮澤さんが謝ることなんてひとつもないから! むしろ連絡もらえて助かったから! 本当に感謝しかないです、ありがとうございました!」



 なぜか互いに深々と一礼を交わした後、「よろしければお召し上がりください」と紙袋を渡すと、「何から何までありがとうございます」と岡崎さんは恐縮した様子で受け取ってくれた。



「僕の分まで用意してくれてありがとう。何か買いに行こうと思ってたから助かったよ。……宮澤さん、昨日あれからちゃんと寝た? お粥って普段から作り置きするような食べ物じゃないでしょう。もしかしてあの後作ってくれたの?」



 痛いところを突かれてしまったなあ、と思いつつ、当たり障りのない返答を捻り出そうと試みた。



「……その、あまり、眠くならなくて。だったらついでに、と思ったんです。あの、音色さんの、体調はいかがですか?」


「え、その感じだとこれから仕事に行くんだよね? 宮澤さんこそ大丈夫? なんか本当に、申し訳ないなあ……。吾妻くんは、多分大丈夫だよ。疲れてたところに大量にお酒入れちゃったからまずかったんだと思うけど、今はすやすや寝てる。起きたらけろっとしてそうだけど、まあ何かあったら病院に連れて行くから安心して。……まったくあの子は心配かけるだけかけておいて、こんなに気にしてもらえるんだから、本当に果報者だよ」



 完全におどけた口調で最後の台詞を付け足し、仕事前にごめんね、と身を翻した岡崎さんは、思い出したようにこちらを振り返り。



「……ところで、昨日、何かあった?」



 と、案じるように問うてきた。不意打ちの抽象的な質問に数秒間考え込み、岡崎さんの言わんとすることに思い至った瞬間、意識の外に追いやっていた「何か」が一気に押し寄せてきた。


 昨夜の記憶に思考が吞まれかけたそのとき、折好く出勤十分前を告げるアラームが鳴り響き、意識を引き戻すことにどうにか成功する。



「――――何も、ないですよ」



 ではわたしはそろそろ仕事に行きますね、と告げると、あ、うん、と何度も頷いた後、岡崎さんは今度こそ踵を返した。いち、にい、さん、と三秒数えてから、ゆっくりと扉を閉めて。


 深々と、息を吐いた。





 結局一睡もできなかったけれど、目も頭も妙に冴えたままだったので、その日の仕事はどうにか終えることができた。とはいえ晴江さんに「宮ちゃん、大丈夫?」と途中で三回ほど声を掛けられたので、おそらく大丈夫ではなかったのだと思う。現に今日は勤務中に何をしていたんだっけ、と記憶を辿ろうとしても、何一つ思い出せなかった。まったく面目ない、申し訳ない限りである、と猛省しているうちに、気付けば自室まで帰り着いていた。


 玄関の扉を閉めた瞬間に、目を背けていた現実が、一挙に押し寄せてきた。


 ――今日の、晩ご飯は、どうしよう?


 考えないようにしてきた状況がいよいよ差し迫ってきて、頭を抱える。わけもなくリビングの中をうろうろしながら、音色さんと顔を合わせないで済む理由をあれこれ考えた。


 体調が悪いので、少しの間お休みさせてください。――だめだ、自分のせいで体調が悪くなったんじゃないかって思わせちゃう。


 急な仕事が入ったので、しばらく帰りが遅くなります。――大事なお仕事のことで、嘘を吐きたくない。


 友達と晩ご飯を食べてきます。――そもそも友達なんて一人もいない。



「どうしよう……何も、思いつかないや」



 我ながら悲しくなるくらい、逃げ出す言い訳を思いつかなかった。――いや、思いつかない、んじゃなくて。


 そもそも、一方的に顔を合わせづらいというだけの理由で、体調を崩している音色さんを放っておく、なんてことが、わたしにできるの?


 具合の悪い音色さんよりも優先できるような何かを、見つけられない、のではないかと思い至ったそのとき、鞄の中で携帯電話が震えた。

 おそるおそる見つめた液晶に表示された名前は、音色さん、その人で。



『昨日はご迷惑をお掛けしてごめんなさい。借りていたコートを返したいので、また都合のいい時に伺ってもいいですか?』



 どうしよう、ともう何度目になるかわからない呟きが、無意識に零れた。





 * * *


 大丈夫、用件を済ませたらすぐに帰ればいい、と自分に懸命に言い聞かせて、隣の部屋のドアベルを押した。ほどなく開錠の音とともに重い扉が開き、黒のスウェットに身を包んだ音色さんが姿を現した。同時に、どくり、と鼓動が跳ねる。



「おはようございます。……ってもう夜か。昨日は本当にごめんなさい。大変ご迷惑をお掛けしました」



 いつもより少しだけ嗄れた、声。――昨日も、聞いた覚えのある、声だ、と考えて、かあっと頬に血が昇る。病み上がりの音色さんがせっかく話してくれているというのに、内容はほとんど頭に入ってこなかった。


 ややあってから深々と頭を下げられていることに気付き、いえそんな、とか、頭を上げてください、というようなことをか細い声でどうにか告げた。



「コートとご飯も、ありがとう。お粥も卵のお菜も美味しかった。あ、岡ちゃんの分まで作ってくれてありがとう。すごい喜んでたよ」



 食べられるようになったんですね、よかったです、と返そうとしていたはずなのに、音色さんが顔を上げた瞬間に、言葉も思考もどこかに吹き飛んでしまった。



 眠っていたせいか、珍しく寝癖がついている、さらさらの黒髪。

 いつもより少しだけとろんとした、白い瞼。長い睫に覆われた、夜の海の瞳。

 左目の脇の、星が三つ落ちてきたような、小さなほくろ。

 凛とした、意志の強い眉。くっきりと通った鼻筋。



 毎日会っていたはずなのに、音色さんの顔を、今この瞬間、はじめてほんとうに見た、ような気がして。



「昨日、俺のせいで寝るの遅くなっちゃったのに、さらに睡眠時間削らせちゃってごめんね。本当にありがとう」



 広い肩と、長い首。喋るのに合わせてわずかに上下する、尖った喉仏。

 ゆっくりと動く、薄い、唇。



「……あのさ、実は俺、帰ってきた後の記憶がほとんどないんだけど、何か、」



 ――あの感触を、熱さを、自分は知っている。


 零れた吐息の温度も。細くて長い指の、大きな掌の、力強さも。



「――あのっ! ……わたし、明日、早いので、もう帰りますね。ありがとうございました」



 移り香、というのは単に衣服に匂いが移ることを指すのではなく、自分の呼吸にまでも相手の存在が刻まれることなのだ、と思い知った瞬間が蘇り、いてもたってもいられなくなった。音色さんの腕からコートをひったくるようにして掴み取り、背を向けて一目散に駆け出す。後ろから何か声をかけられた気がしたが、振り向かずに自室に滑り込んだ。



「……どうしよう」



 今までどうやって音色さんに接していたのか、全く思い出せなかった。かといって、このまま理由も告げずに一方的に避け続けるような態度を取っていれば、少なからず彼を傷つけてしまう気がした。


 無論、理由を告げられるはずもない。それならば全てなかったことにしよう、と決意したそばから、昨夜の記憶が忍び寄ってきて邪魔をする。


 忘れたいと思えば思うほど、願えば願うほど、かえって焼き付いてしまう。


 いったいどうすればいいんだろう、とリビングのソファの上で蹲ったまま、祈るようにぎゅっと目を瞑った。




 * * *


『忙しいところごめんなさい。もしよかったら、今日、少しだけ時間をもらうことはできますか?』



 翌日の仕事終わり、家に帰り着く時間を見計らっていたのかと思うようなタイミングで音色さんからメッセージが届き、しばらく固まってしまった。


 そうだよね、昨日のわたしの態度はどう考えてもおかしかったよね、という諦念と納得が七割と、今回ばかりは放っておいてほしいな、という願望が二割。


 そして残りの一割で、ああ、一日中悩ませないように、出勤前は控えてこの時間にしてくれたんだな、と音色さんの気遣いに思いを馳せてしまったものだから、『はい』と、わたしは返信してしまったのだった。


 ほどなく音色さんから『ありがとう。いつ頃が都合がいいですか?』と返ってきたので、観念とともに、『今から伺ってもいいですか』と送った。



 その五分後、こんばんは、お邪魔します、と小声で呟きながら、音色さんの部屋の玄関を開けた。



「……音色さん? あの、いったいどうされたんですか?」



 ぱちぱちと瞬きを繰り返して眼前の光景を一旦疑うも、やはり幻ではなかった。――音色さんは、いつかのわたしのように、玄関先で正座をしていた。



「足が、痺れちゃいますよ。ひとまず、リビングに行きませんか?」



 慌ててしゃがみ込もうとすると、「鏡花さんはそのままで」と制されてしまった。とはいえ、一人だけ立ったままというのもどうにも落ち着かない。



「えーと……音色さんの体調も心配ですし、あたたかいところに行きませんか? それに、このままだと、ご用件も聞きづらいですし」


「――――嫌じゃ、ないの?」



 問われて、え、と真顔の音色さんの目を見つめた。その瞳は怖いくらい真剣で、どこか、わたしを案じるような色を帯びていた。



「俺の部屋の中に入るの、嫌じゃない?」



 ようやく音色さんの真意を理解して、目を瞠った。


 ――ああ、だから。このひとは、玄関先で、こんな。



「……一昨日、俺が何か言うかするかしたんでしょう。居心地の悪い思いをさせてしまって、本当にごめん。――俺、明日にでもここを出て行くから、安心して」


「え、」



 ――音色さんが、いなくなる?


 その言葉の意味が脳に達した瞬間、すべてが遠のいていくような感覚に襲われた。



「隣は今まで通り使ってくれたら大丈夫だから、心配しないで。……俺がいない間も、部屋の掃除とかしてくれてたんだよね、ありがとう。それも、ずっとお礼言いたくて」



 三週間、ずっと顔を合わせていなかった。だけどそれは一時的なもので、仕事が終わり次第帰ってきてくれると、何の疑いもなく信じていた。


 けれど、今彼が告げた言葉は違う。


 ――音色さんは、わたしの前に、二度と現れない、と言っているのだ。



「……かないで」



 そんなの。

 そんなの、絶対に。



「え?」



 絶対に、耐えられない。



「――行かないで! 違うんです、悪いのは、わたしなんです! 音色さんは全然悪くなんかないんです、だって、いちごさんをかばって、飲みすぎちゃったんでしょう。悪いのは音色さんにお酒を飲ませた人たちです、音色さんはひとつも悪くなんてない! それに、勝手に水を飲ませたのもわたしですし、勝手に意識してしまってるのもわたしが悪いんです! ただの自業自得なんです! だから、出て行くなんて言わないでください!」



 お願いです、と振り絞るようにして告げると、目を見開いていた音色さんが、ややあってから、ぱちぱちと面食らったように瞬きをした。



「俺、てっきり、夢だとばかり思ってたんだけど。――――もしかして、鏡花さん、あのとき口移しで水飲ませてくれたりした?」



 自分のしでかしたことをはっきりと言葉で突き付けられて、かあっと、全身の血液が逆巻くような羞恥に襲われる。両手で顔を覆って、消え入りそうな声で、ごめんなさい、と囁くと、返ってきたのは長い沈黙だった。


 あまりに無言の時間が続くので、目まで覆っていた指をずらし、ちら、とほんの少しだけ視線を上げると。


 ――音色さんは、顔を真っ赤にして、口元を左手の甲で押さえていた。


 初めて目にした表情に、羞恥も忘れてまじまじと見入っていると、視線に気付いた音色さんが珍しくも目を泳がせた。



「……あー、今ちょっと、あんま見ないでくれると嬉しいです。いや、俺にそんなこと言える権利ないんだけど。というか本当にごめんなさい。普通に最低だな俺。いくら夢だと思ってたとはいえ、あんな、うわ、マジで消えたい……しかも吐いた後でしょ、最悪じゃん……」



 やっぱ出て行くわ、と呟かれ、再びぶんぶんとかぶりを振る。どうにか引き留めなくては、という一念で、必死に言葉を絞り出した。



「……あの、人命救助のため、ですから! ほら、人工呼吸と一緒です! 単に水を飲んでもらっただけですから、それ以上の意味は何も、」


「――あるよ、意味」



 続けようとしていた言葉が、音色さんの静かな声に、真剣なまなざしに、遮られる。強い引力を帯びたその瞳に、意識も言葉も、瞬くうちに絡め取られてしまう。



「俺にとってはある。……鏡花さんは?」



 息が、止まる。揺れる夜の海の双眸から、目が、離せない。



「それって、どういう、」


「俺以外にも、同じことができる? あんまり想像したくないけど、そうだな、例えば岡ちゃんが今、酔い潰れて帰ってきたとしたら、同じように口移しで水を飲ませることができる?」



 音色さんと目を合わせたまま、懸命に想像してみた。岡崎さんが、もしも一昨日の音色さんのように、酩酊めいていしていたなら。



「……音色さんを、呼ぶと思います」


「俺がいなかったら?」


「救急車を呼ぶか、ストローを買いに行くか、タクシーで病院に向かうか……正直、その状況にならないとわからないです。わたしも一昨日は動転していたので、どうして自分があんなことをしたのか、正直なところ、わかりません。――でも、きっと、岡崎さんに口移しで水を飲んでもらおうとは、考えないんじゃないかと、思います」



 そう口にしてから、あれ、どうしてだろう、と意識の片隅に、泡のような疑問が浮かんだ。

 人命救助のため、だけなら、それ以上の意味なんて何もないなら、どうして音色さんに対して、こんなにも恥ずかしいような、いたたまれないような気持ちになってしまうのか。

 同じことをもしも岡崎さんにするなら、とほんの少し想像しただけで、嫌だな、と反射的に思ってしまったのは、なぜなのか。



「それは、どうして?」


「――――わからない、です」



 一生懸命考えても、どうしてもわからなかった。素直にそう告げると、じっとわたしを映していた音色さんの瞳が、ゆっくりと一つ、瞬いた。



「そっか。俺ばっかりあれこれ訊いてごめんね。――あのさ、さっき、俺にとっては意味がある、って言ったけど、どういうことかわかった?」


「わからない、です……」


「本当に、都合のいい夢を見てるんじゃないかと思った。言い訳にもならないけど、だからあんなにがっついちゃったわけで。他の誰が相手でも、あんな真似は絶対にしない。……ああもう回りくどいな俺」



 乱暴にわしわしと頭を掻き混ぜて、意を決した表情で、音色さんは。




「――鏡花さん。あなたが好きです。俺と、付き合ってください」




 驚くべき言葉を、口にしたのだった。


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