#8 知りたい
お付き合い、という未知の領域に足を踏み入れて、何かが変わったか、と言われると、特段劇的な変化が訪れたわけではなかった。
音色さんと、一緒に晩ご飯を食べて。片付けの後は話をしたり、ゲームやトランプをして遊んだり、時々映画を観たりと、これまでと変わらない、穏やかな時間を過ごしている。
ただ、少しだけ。
変化の
「――そうだ、この前から聞こうと思ってたんだけど、鏡花さん、何か好きな食べ物とかある?」
「好きな食べ物ですか? ……ええと、わたし、好き嫌いはあまりなくて。わりと何でも美味しくいただけるかと、思います」
「何でも美味しく食べられるって最高じゃん。えーと、じゃあ、これが食卓に並んでたら、やった! 嬉しい! ってテンションが上がるようなメニューとか、ない?」
「…………ほうれん草の
「え、白和えってどんな料理? 何と和えるの?」
「お豆腐で和えます。練り
「本当? ありがとう、楽しみにしてる。……ちなみに、白和えって、俺でも作り方習ったら何とかできそう?」
「大丈夫、だと、思います、けど……」
「いや、いつも作ってもらってばっかりだからさ。俺も何かひとつくらいは、鏡花さんの好きなもの、作れるようになりたいなって」
何か言葉を紡ごうと、開きかけた唇を、閉じる。
あれ以来、音色さんは、想いを表に出すことを、言葉や態度で示すことを、躊躇わなくなった。
だけど、わたしはまだ、慣れなくて。こうやって、まっすぐな好意を向けられると、どうしたらいいのか、わからなくなってしまう。
嬉しい、もあるけれど、それよりも、困惑や戸惑いの方が、勝ってしまって。
――どうしよう。何を、返したら、いいんだろう。
「ありがとう、ございます……」
「いーえ。こちらこそ、いつもありがとうね。……この前、差し入れを買いに行った時も、思ったんだよね。ああ俺、鏡花さんがこういう時何を食べたいのか、とか、何が好きなのか、とか、全然わからないんだな、って。それが結構、悔しくてさ。あ、ちなみに具合が悪いときは、何食べたい?」
音色さんは、時折こうして、わたし自身のことについても、尋ねてくれるようになった。何気ない、他愛のない問いを投げ掛けられて初めて、今までわたしたちは、互いの境界を踏み越えるような話題を、周到に避けて通っていたのだな、と気付いた。
それでいいと、それがいいと、思っていた。余分な情報なんかなくたって、満ち足りていた。互いに踏み込まない関係性が、心地よかった。
――だから、本当は、怖い。
自分の、決して触れられたくない部分に、いつか触れられてしまうのではないかと。
問い掛けに間違った答えを返して、嫌われてしまうのではないか、と。
そして自分も、彼の聖域に、知らぬ間に禁を破って、足を踏み入れてしまうのではないか、と。
「調子がよくない時、ですか? お粥、とか……林檎のすりおろしとか、ゼリー飲料とか、うどん、ですかね。だから、この前の音色さんの差し入れ、すごく助かりました。嬉しかった、です。……音色さんは、何が食べたくなりますか?」
「なら良かった。……俺? 俺も鏡花さんとほぼ同じかな。やっぱり消化が良くて、やわらかめで、やさしい味付けのものが、何か、沁みるんだよね無性に。この前鏡花さんが作ってくれたお粥と、オムレツみたいなやつ、めっちゃ美味しかった」
「本当ですか? ちょっと病み上がりには重いかな、と思っていたんですけど、お口に合ったならよかったです……」
「いやほんと美味しかったです。おかげさまで元気になりました、ありがとうございます」
「いえいえ、そんな……岡崎さんの看病のおかげですよ」
「そういやあの時、久々にお説教されたなー。結局途中で寝てたんだけど。――そうだ、岡ちゃんで思い出した。もうちょっとだけ黙っててもいい? 俺たちのこと」
「はい、大丈夫です。……音色さんが、お伝えされたい時、で」
否やのあるはずもなく頷くと、ありがとう、と音色さんはわずかに口元に笑みを浮かべて呟いた。その表情に、まなざしに、どことなく翳りを感じてしまって、思わず疑問が口を突いて出る。
「あの、今更、なんですけど。……音色さん、お付き合い、とか、大丈夫でしたか? ご迷惑、が、」
不意に頬に伸ばされた手に、言葉が、途切れる。右のまなじりの下を、慈しむようにゆっくりと、音色さんの親指が、なぞっていく。
頬に触れるか触れないかで、添えられた長い指先。少し細められた、夜の海の瞳。笑みを刻んでいる、はずの、口元。
表情は微笑んでいるはずなのに、見つめていると、なぜか、どうしようもないほど、胸が苦しくなって。
「……ごめん、なさい」
「ううん。ありがとね、心配してくれて。でも、大丈夫だから。――俺はさっき好きな食べ物教えてもらったから、今度は鏡花さんのクエスチョンタイムね」
伸ばしていた手を戻し、何でもござれ、とおどけた口調でさらりと空気を一変させた音色さんに、ああやっぱりこのひとには敵わないな、と思いつつ、懸命に頭の中の引き出しを片っ端から開けていく。
音色さんに、訊いてみたいこと。
知りたい、こと。
――どうして、あなたは。
真っ先に浮かんだひとつを、その問いの続きを、掻き消すように。口から転がり出てきたのは、ずっと脳の片隅にあった、疑問だった。
「あの、お付き合い、って。……今までと、何が、違うんでしょう?」
「そっか。……確かに、そうだよね。これまでもご飯食べたり、話したり、ゲームしたりして一緒に時間を過ごしてたし、いったい何が変わるのか、って話、で合ってる?」
「はい。……何か、わたしも、行動を改めたり、意識を変えたりした方が、いいんでしょうか?」
どうしてこのひとは、いつも、わたしの拙い質問の意図を的確に汲み取ってくれるんだろう、と不思議と感嘆の念を抱いていると、しばしの間視線を宙に向けて何事か思案していたらしい音色さんが、夜の海の瞳をこちらに向けた。
「鏡花さんは、そのままでいいよ。無理に俺に合わせようとしなくても、大丈夫。――というか、鏡花さんは、俺にこうしてほしい、とか、これがしたい、とかある?」
「音色さんに、ですか。………………特に、これといっては」
「今の所はない感じ? 何だろ、例えば……一緒に出掛けたい、とか」
「すみません、元々家で静かに過ごす方が、好きなので……。あの、わたし、一緒にいられたら、それだけで、充分、です。作ったご飯を一緒に食べてもらったり、美味しいって喜んでもらったり、お話したり、遊んだりできるだけで、すごく、嬉しいです。……音色さんは、何か、ありますか?」
「あるよ」
わずかに低くなる、声。磁力を帯びる、深い、くろの、瞳。
――ああ、まただ。この、二人の間にある、空気の密度が、急に濃くなる感じ。
時間が、止まっているみたいに。
目が、離せなくなる。息が、できなくなる。
「近付きたい。――もっと、知りたい」
再び伸びてきた音色さんの指先が、宝物を扱うような仕草で、そっとひとすじ、わたしの髪を
――髪の毛に、触覚、なんて、ないはずなのに。
とくり、と跳ねた心臓を射抜く、夜の海の双眸から。言葉を紡ごうとする、薄い唇から、目が、逸らせない。
「そばにいたい。触れたい。――ごめん、最後の一つは自重します。鏡花さんを怖がらせたくないし、嫌われたくないので。……あー、その、早速矛盾するみたいなこと訊くけど、手を繋ぐ、のも、だめ?」
「だめ、じゃ、ないです……」
長い指先から、はらりと、髪が流れ落ちていく。名残惜しげに、ゆっくりと、肩先に戻ってくる。
その感触をひどく鮮明に感じながら、
「ありがとう。――それ以上は、都度許可を取ります。あー、でも、嫌だ、ってなかなか言いづらいか。……だったら、いいよ、って思ってくれた時は、何か反応して。服掴む、でも指先を握る、でも頷く、でもいいから。反応が返ってこなければ、それ以上何もしません。約束します」
「は、い……」
少しだけ緊張した表情で差し出された小指に、ややあってから、あ、指切りか、と思い至る。おずおずと、どこかぎこちない動きで小指を近付けていくと、細く長い指に、きゅっと掴まえられた。
絡んだ指先が解けていくのを見つめながら、それ以上って何だろう、とぼんやり考えていると、不意に先日抱き締められたことやら、酩酊事件のあれこれが脳裡に蘇った。
え、もしかして、とようやく思い至って、じわじわと、頬に、熱が、集まっていく。
「鏡花さん? ……顔、赤いけど大丈夫?」
「だいじょうぶ、です」
全くもって大丈夫ではなかったけれど、反射的にこくこくと頷いていた。赤べこのようなわたしの様子をどこか心配気に眺めつつ、音色さんが、口を開く。
「じゃあ俺から、今日最後の質問。……鏡花さん、年末ってどうする予定?」
「年末、ですか? お店は二十九日から三日までお休みなので、大掃除をしたり、年越し
どうにか意識を切り替えて、年末の予定を思い返すことに集中する。そうだ、洗剤や鏡餅や、お雑煮の材料の買い出しに行かなくちゃ、と段取りを考え始めたその時、思ってもみなかった言葉が耳に飛び込んできた。
「俺は、年末は実家に顔出そうかと思ってるんだけど。――よかったら、鏡花さんも、遊びに来る?」
「え、」
立てかけていた計画が、思考とともに綺麗さっぱり吹き飛ぶような衝撃の台詞に、え、え? としどろもどろに呟くことしかできないわたしを。
にやりと笑みを浮かべた音色さんは、それはそれは楽しそうに、見つめていた。
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