#3 襲来



 嵐は、突然訪れる。

 たとえばそれは、人のかたちをとって。



「――ねえ、誰? この女」



 細い眉を顰め、長い睫に縁取られた大きなはしばみ色の瞳に、好奇と敵愾心てきがいしんを灯して。つややかに輝く、左右の耳の上で束ねた長い稲穂色の髪を、指輪のまった人差し指に絡めて。



「あなた、おとくんの何なの?」



 音色さんの腕をぎゅっと握ったその女性は、冷ややかな声音でわたしに問うた。


 想定外の事態に、喉と瞼が凍りつく。ぴりりとした緊張感が走る中、一触即発の空気を察したらしい音色さんが、交差する視線と視線の間に言葉を滑り込ませた。



「……お隣さん。いいから行くぞ」



 ぐい、と女性の肩を引き寄せ、広い廊下を音色さんは足早に進んでいく。その腕に、細い腕を絡めた彼女は。


 部屋の扉が閉ざされる直前に、確かにこちらを振り返って、笑った。





『今日は出前を頼むので、晩ご飯は大丈夫です。直前にごめん』



 部屋に戻るや否や、机の上に放置していた携帯電話が小さく鳴った。ぼんやりと表示されたメッセージを眺めながら、綺麗な人だったな、と思い返す。


 零れ落ちそうなほど大きな、輝く瞳。癖一つない、さらさらとなびくツインテールの鮮やかな色彩。華奢な手足と、人形のように整った花のかんばせ。左右で袖の長さが違うショートコートと、自分に自信がなければ絶対に着ることができない丈の、ふわりと広がったスカートが、とてもよく似合っていた。


 十二月の寒さも跳ね返すような、鮮烈で、華麗な女の子、だった。


 硬い音を立てて扉が閉ざされる直前に、振り返った彼女の、あの勝ち誇ったような笑みと嘲るようなまなざしが、くっきりと焼き付いている。


 だけど。それよりも、胸から離れてくれないのは。


 打ち解けた者同士だけが醸し出せる、親密な空気を漂わせた、二人の姿。

 彼女とわたしが鉢合わせしたときに一瞬だけ垣間見せた、音色さんの焦ったような顔つき。

 聞いたことのない、ぞんざいな声と口調。

 彼女の肩を引き寄せ、部屋へと促した、大きな手。

 けっしてこちらを振り返らずに、足早に遠ざかっていく背中。


 それらすべてが、壊れてしまった映写機みたいに、繰り返し繰り返し、蘇って。コマ送りで反芻はんすうしては、何か隠された意味があるのではないか、見落としていることがあるのではないかと、必死に探して。



『……お隣さん。いいから行くぞ』



 お守りのように胸をあたためていた大切な言葉が、あの時、全く違う響きを帯びていたような気がして、どうしようもないほど心をざわつかせる。


 ――大事なお隣さんだって言ってもらえて、あんなに嬉しかったのに。


 どうして、胸が痛い、なんて思ってしまうんだろう。





「うっわー見たあの顔? 完っ璧に固まってたよね最高」


「……一体何のつもりだ、一護いちご



 玄関の扉を閉めた瞬間、身体を折ってけらけらと笑い始めた友人に、苛立ちを隠さず問い詰める。すると立腹していることがようやく伝わったのか、ひとまず真顔に戻った一護は、器用に片眉だけを上げて呟いた。



「へえ、名前で呼ぶくらい怒らせちゃった? そんなにあの子が大事なんだ?」


「一護」


「ごめんごめんって。それにしても、あの音くんがねえ。いったい何者なの、あの子? どう見ても一般人だよね」


「今すぐ帰るか?」



 答えるつもりはない、と暗に告げると、肩を竦めて芝居がかった仕草で両手を上げた一護は、長いブーツを綺麗に揃えて、お邪魔しまーす、とするりと部屋に上がり込んだ。


 溜息を吐きながら後を追うと、勝手知ったる一護は、リビングのソファーに早速ごろりと寝そべっていた。



「おい、仕事はどうした」


「まずはきゅうけーい。あ、アールグレイでお願い。ミルクたっぷりで」


「お前、いつも思うけどくつろぎ過ぎだろ」



 相変わらずの傍若無人ぶりに思わず苦笑しつつ、客人の要望に応えるべく台所へと向かう。久々に電気ケトルを掴みかけたところで、不意に思い立ってシンクの下から小鍋を取り出した。


 ――電気ケトルも便利ですけど、鍋でお湯を沸かしても、美味しいんですよ。


 彼女の、ささやくような澄んだ声が、ふと脳裡に蘇ったから。



「珍しいじゃん。なんでわざわざ鍋? ――はっはーん!」



 目敏めざとく声をかけてきた一護が、何かを察したようににやついているのを完全に無視して、コンロに火を点ける。シンクの縁に腰掛けるようにしてもたれると、背が高いやつはいいねー、と口笛を吹かれた。これはこれで面倒なこともあるんだやかましい、と思いつつ、ちらと一護を見やる。



「……何で、あんな喧嘩吹っ掛けるような真似をした」


「面白そうだったから」


「帰れ」


「ごめん冗談だってば! ……ああいう、おどおどびくびくした子を見てたら、腹立つんだよね。どうせ皆死んじゃうのに、なに勿体ない事してんのって感じ」



 それにね、とくるくる髪を指に巻き付けながら、一護は続ける。



「あの人嫌いの音くんが、隣に女の子を住まわせるなんて、驚天動地の出来事じゃん。隣の部屋ってずっと……ほら誰だっけ、あの微妙にダサいファッションのマネージャーさんが、たまに泊まり込むくらいでさ。え、ちなみに、マネージャーさんはあの子のこと知ってるの?」


「人を仙人みたいに言うな。あと、おかちゃんのセンスについてはそれ以上突っ込まないでやってくれ。――もちろん、知ってるよ。ただ、聞き出そうとしても無駄だからな」



 小さな泡が底から浮かび始めた鍋を眺めつつ釘を刺すと、ちぇー、と残念そうな声が返ってきた。まったく油断も隙もない奴である。



「そうそう、思い出した岡崎おかざきさんだ。――でさ、話戻すけど、音くんがわざわざ隣に住まわせるくらいなんだから、これはロマンスの予感かと思ってさ。二人の関係性を確かめたいと思ったわけですよ俺は」


「――そんなことのために、怖がらせたのか?」



 自分でも、思っていたより低い声が出た。一護がにやにや笑いを引っ込め、わずかに目を瞠る。


 沈黙が落ちた部屋に、沸騰した湯が踊る音だけが響いていた。張り詰めた静寂を断ち切るように一つ息を吐き、湯気を上げる鍋に視線を移す。



「……ごめん」



 ばつが悪そうな、叱られた子どものような、芯から反省している時の声だった。無言で紅茶の缶を出し、ティーバッグをマグカップの中に放り込む。


 ――一護のような見た目も中身も押し出しが強い人種は、一番苦手だったろうに。


 先日の落ち込んだ彼女の様子と元同僚の心無い言葉を思い出し、つい眉を顰める。すると一護は自分への苛立ちかと勘違いしたのか、起き上がって深々と頭を下げてきた。



「ごめんなさい。もう二度としません」


「……俺に謝っても仕方ないだろ」



 ソファに歩み寄り、ん、と湯気を立てるマグカップを差し出すと、一護は殊勝な顔でありがと、と呟いた。



「……あっつ! 音くん、これミルク全然入ってないじゃん! 思いっきり舌火傷したんですけど!」



 そして一口中身をすするや否や、悲鳴を上げた。



「天罰……間違えた、自業自得だろ」


「人災だよ! 絶対わざとでしょ!」


「悪い、本気で入れ忘れてた。さあ仕事するぞ仕事」



 軽くいなして冷蔵庫に向かい、猫舌の友人のために牛乳を取り出す。パック片手にソファまで戻ると、すでに一護はマグカップを机の上に置いていた。


 先までのふざけた態度とは一線を画す、真剣な眼につられるように、自分の中で、ゆっくりと意識が切り替わっていく。



「とりあえず、これ。手直しした方がいいところがあれば言って」



 差し出されたUSBを受け取り、あらかじめ別室から持ってきていた機器に挿し込んでから、愛用のヘッドホンを掴んだ。


 耳当ての位置を、調節する。再生ボタンを押す。――目を、閉じる。


 静かに広がる旋律に、感覚が研ぎ澄まされてゆく。曲全体の流れを確かめるように一度聴き、次いで一護がアレンジした部分を噛み締めるように、音の粒ひとつひとつを精査する。


 なぜか、昔からこういうときに思い浮かぶのは水のイメージだ。流れが滞っている場所はないか。水底に散りばめた欠片は、それぞれに響き合っているか。最後に、小さな波紋がひとつ残るような余韻はあるかと、耳を澄ませる。


 目を開けて、じっと息を潜めるようにしてこちらを窺っていた一護に、ひとつ頷いた。



「――大筋は、いいと思う。一つだけ気になるのは、サビ前のストリングスの入り。あともう少しだけ、溜めた方がいい気がする。ギターの歪みは最高」


「あー、やっぱそうか。そこ結構迷ったんだよね。了解。他は?」


「そうだな、他は――……」



 それから細々したやり取りを経て、話がひと段落した頃合いで顔を上げると、時計の針はとうに頂点を回っていた。ぐう、と一護の腹の虫が鳴き、そう言えば出前を取るのを忘れていたな、と笑い合う。



「腹減ったな。何食いたい?」


「ピザ。照り焼きチキンとマルゲリータね」


「毎回恒例だな。わかった」



 一護が訪れた時にはお馴染みになっているピザ屋に配達を頼み、電話を切ると、友人は再びソファにごろりと横たわっていた。



「ねえ音くん、今日泊まってもいい? もう電車ないし」


「別に構わないけど。……俺に同意を求めるなんて珍しいな」



 俺のこといったいなんだと思ってるの、と若干憤慨した様子で呟いた後、一護はやや躊躇い気味に口を開いた。



「その、さ。……音くんは俺の格好に慣れてるけど、あの子は俺が男だって知らないわけでしょ。で、俺ってはたから見たら、超絶美少女じゃん? ――誤解、されてないかな、って」


「は?」



 ――俺と、お前が。何を誤解されるって?



「だーかーら! あの子に、俺と音くんが付き合ってるって勘違いされるんじゃないかって言ってるの。俺も結構、鎌かけるためにそれっぽい言動しちゃったし」



 盛大な溜息とともに、頭を抱える。あのなあ、と地を這うような低い声が出た。



「お前が男だろうと女だろうと、俺たちが恋人同士に見えるわけがないだろ。少なくとも俺は、好きな相手にあんなぞんざいな態度は取らん」


「うっわ音くんひどっ! 俺のこと無下むげに扱ってたんだ、サイテー! 俺はこんなに音くんに尽くしてるのに!」


「どの口が抜かすのやら。――まあ、気心の知れた友人で、いい仕事仲間だとは思ってるけど」



 飛んでくるクッションを受け止めつつそう返すと、うぐ、と一護は悔しそうに唇を噛んだ。



「そういうとこだよ音くん! この人たらし! そうやってあの子もたぶらかしたんでしょ!」


「人聞きの悪いことを言うな。……誑かしてなんかないし、俺に誑かされるようなひとじゃない」


 思わず顔を顰めて訂正すると、けろりとした顔で、一護はとんでもないことを宣ってきた。



「えー、でも正直、脈あると思うけどな。だって俺を見た時、めっちゃショック受けた顔してたもん。どうせ音くんのことだから何もアクション起こしてないんだろうけど、もう少し押してみた、ら、……痛い痛い痛いってば!」



 決して自分の表情を見られないように、鮮やかな金色の頭に、渾身のアイアンクローをめる。



 鏡花さん、ごめん。

 きみが一護の存在に動揺していたと聞いて、ほんの一瞬でも嬉しいなんて思ってしまって、本当にごめん。



 ――頬が、身勝手な熱に染まっているのを、自覚していたから。



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