#2 波紋
「あ、ちょっと待った宮ちゃん! こっちこっち」
早くも陽の光が淡くなりはじめた、午後三時。
本日の勤務を終え、更衣室代わりの物置から、ふわりと甘い焼きたてのパンの香りが馴染んだ店内へ出る。おつかれさまです、と
「お呼び立てして悪いわね。はい、よかったらこれ持って帰んなさい。余りで申し訳ないけど」
はきはきした言葉と同時に茶色の紙袋を差し出され、目を白黒させながら受け取る。ずしりと重い袋を開ければ、きつね色に輝くコロッケとソースが醸し出す、何とも食欲をそそるほくほくとした匂いが鼻先をくすぐった。
「あ、ありがとうございます。あの、嬉しい、です。……
「カジン? ……ああ、お家の人のこと! 一瞬何のことかと思っちゃったわ。へえ、コロッケ好きなの?」
きょとんと首を傾げていた晴江さんは、ややあってからぱっと破顔した。もちろんその間も、電卓の上で鮮やかに躍る指を休めることはない。同時にいろいろなことをこなせる彼女の器用さと、持ち前のからりとした明るさは、いつだってわたしの目に、まばゆいものとして映った。
「はい。一回作った時に、すごく喜んでくれて」
「けっこう手間なのに、よく家で作ったねえ。宮ちゃん、料理は好き?」
「……はい。好き、だと思います」
小声で答えると、目元をなごませた晴江さんは、慈しむような微笑を浮かべた。
「そりゃあ良かった。好きなことで大事な人が喜んでくれるっていうのはさ、いいもんだよね。――あら、ついつい引き留めちゃってごめんね。おつかれさま、今日もありがとう。助かったわ。また明日もよろしくね」
「はい。失礼します」
今度こそ会釈をして入り口に向かい、『向井製パン』と逆向きに書かれたガラスの扉を押し開く。高らかなベルの音と、晴江さんの「気をつけて」というぱりっとした声に見送られ、木枯らしが吹く街の中を、歩き出す。
――家人も、喜びます。
晴江さんにとっさに告げた言葉が、冷たい風鳴りとともに、耳の奥で蘇る。
あのとき、音色さんも、と喉元まで出かかって、それからはたと気が付いた。
――彼のことを、彼との間にあるものを、何と呼べばいい?
家族です、とはどうしても言えなかった。偽ることは、できなかった。だって、わたしたちは、家族じゃない。ただの、他人同士で。晩ご飯だけ一緒に食卓を囲む、単なるお隣さんで。
けれど、一緒に過ごす時間は、とてもあたたかくて。やさしくて。安らいでいて。
ただの知り合いだ、と言い切るには、あまりにもたくさんのものを、与えられていて。おそらくは互いに、相手の存在を大切に想っていて。
それらすべてを、ひとまとめにして表す言葉を、見つけることができなくて。
――音色さんにとって、わたしは、なに?
きっと、友人でもない。わたしたちの間にあるのは、確かな、強い絆ではなく、もっと曖昧な、掴みどころのないもので。
マフラーの隙間から零れ出る、白い吐息を眺めながらぼんやりと物思いに
「――あれ、
背後から耳に刺さった声に、時間が、止まる。――否、巻き戻る。
けっして振り向きたくなどないのに、反射的に身体が動き、背後に佇む声の主に向き直ってしまう。
「久し振り。元気そうじゃん」
並んだ細いシルエットは、二つ。
認識した瞬間、耳元で激しく脈打つ鼓動が、ひときわ大きく跳ねた。
キャメルとグレーの華やかなデザインのコートの裾から覗く、会社指定の黒スカート。細い肩に落ちる、栗色の巻き髪。鮮やかなオリーブグリーンとマスタードのマフラー。折れそうな高いヒールのパンプス。一目でブランド物だとわかる、ワインレッドとオレンジの小さなバッグは、おそらくお揃いで買ったのだろう。
モデルのようにそれらを着こなした二人は、さっと値踏みするようにこちらを
「
長いスカートの生地を、右手で、ぎゅっと握り締める。
ああ、どうしてわたしは、こういう時に、卑屈に笑ってしまうんだろう。
少しは、変われていると、思っていたのに。
「いきなり辞めるっていうからさ、心配してたんだよ?」「そうそう。みんな、どうしちゃったのかなーって。今はなにしてるの?」
惨めな獲物の様子に、
「その節は、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。……今は、別のところで働いています」
「え、どこで働いてるの? 教えてよ、遊びに行くからさ」「あたしたちと宮澤さんの仲じゃん」「ねー!」
きゃはは、と互いの肩を叩いて笑い合う二人の、黒いストッキングに包まれた脚が寒そうだな、と場違いな感想を抱きつつ、わたしは曖昧な笑みを貼り付けたまま固まっていた。
――嫌だな、答えたくない。
――決して仲が良かったわけじゃないわたしに、どうしてこの人たちは、話しかけてくるんだろう。
――本当はわたしがどうなろうと、興味なんてないはずなのに。
困惑と渦巻く感情の波でぐちゃぐちゃになった頭は空転するばかりで、的確な返しを導き出してくれない。黙り込んだわたしを見て、これは言えないような職場に違いない、と判断したらしい二人は、優越感に浸ったまなざしで、これ以上訊くのは可哀想だ、と言わんばかりに会話を締めくくりにかかった。
「ほら、やめなよ。困ってんじゃん」「えー、知りたい。てか、こんな早い時間に帰れる職場とか、マジで羨ましいんだけど」「そりゃ、色んな職場が世の中にはあるでしょ。言いたくないことを、無理に聞き出さそうとしないの」「なにようカナ、急にいい子ぶっちゃって」「サキと違って、あたしは元々いい子だから。ほら、そろそろ行くよ。徳田主任に怒られちゃう」「それならあたしだっていい子ですう。……あーあ、時間切れかあ。じゃあまたね、宮澤さん! しばらく振りだったけど、全然変わってないみたいでよかった!」
満面の笑みを浮かべた浪川さんが、去り際に何の気なしに放ったであろう言葉が、深く、胸に突き刺さって。
息も、できなかった。
「鏡花さん。もしかして今日、なにかあった?」
箸で綺麗に割ったコロッケの、最後の一口を飲み込んだ後。
ほうじ茶の注がれた湯呑を手に取りながら、音色さんは世間話の延長のようにそう尋ねてきた。
思わず箸を止めてその顔を見つめると、静かなまなざしが返ってくる。逃げるように視線を逸らすも、いつも通りの穏やかな声音で、音色さんは続けた。
「俺の思い過ごしだったらごめん。何か、いつもより元気がないような気がして」
大丈夫です、と答えようとしたのに、なぜか、言葉が出なかった。どうしてだろう、と戸惑って、ほどなく気付く。
――音色さんは、もう、察している。わたしが落ち込んでいることを悟って、心配してくれている。
それなのに、何でもありません、って誤魔化すのは、フェアじゃない。
「……ごめんなさい、ご心配をお掛けしてしまって。わたし、顔や態度に、出してしまっていたんですよね。ごめんなさい」
箸を置き、深々と頭を下げる。いつも通りに振る舞っていたつもりだったのに、隠し切ることができなかった己の
「いや、鏡花さんは、ほんとにいつも通りだったよ。いつも通りなんだけど、なんて言うかな……こう、底に沈めてるというか、押し殺してるというか。ほら、毎日顔合わせてるからさ。ああ、これは何かあったんだなって。――要するに、ただの勘です。というか、心配くらいさせてくださいよ」
せっかくこうして一緒にいるんだからさ、と呟かれて、不意に
「……ありがとう、ございます」
「鏡花さんが話したくないなら、別に話さなくてもいいよ」
驚くほど色素の濃い、夜の海を抱いたような深い色合いの瞳を、見つめる。
凪いだ、穏やかな瞳は、ただ静かに、わたしを映している。どちらでも構わない、というのは音色さんの本心なのだと、そのまなざしから伝わってきた。
――別に、言わなくても、いいんだ。
その事実に、ほっと、安堵する。不思議なことに、話さなくてもいいと思った途端に胸のつかえが少しだけ薄らいで、わたしは気付けば、今日の出来事をぽつぽつと語り出していた。
「……今日の帰りに、前の職場の、同僚の方と、鉢合わせしまして」
「うん」
「色々、話しかけられたんですけど。わたし、何も、言えなくて」
「うん」
「声を聞いただけで、昔の、自分に、逆戻り、しちゃって。……音色さんや晴江さんたちと、出逢って、いっぱい、助けてもらって。ちょっとは変われたのかな、って思ってたのに、全然、そんなこと、なくて。それがすごく、情けなくて、恥ずかしくて、哀しくて。しばらく振りだったけど、全然変わってないみたいでよかった、って言われちゃって。わたし、何も、言い返せなくて。その通りだな、って思ってしまった自分が、本当に……嫌、で」
いつの間にか俯いてしまっていた視界に、ぎゅっと握り締めたエプロンの皺が映る。音色さんの顔は、怖くて見ることができなかった。憐れみや呆れや失望が、その目に浮かんでいたら、きっと耐えられない。
ああ、言ってしまった、という後悔と羞恥が、早くも全身を灼いていた。自分の弱さをさらけ出すことが、これほど恐ろしくて恥ずかしいなんて、知らなかった。
「鏡花さん」
決して顔を上げるまい、と思っていた。
けれど、自分の名を呼ぶその声が、あまりにやさしくて。
「――よく、頑張ったね」
導かれるように、光を求めるように、目線を上げたその先。
恐れとともに見つめた音色さんの双眸には、憐れみも、呆れも、失望も、浮かんではいなかった。
その澄んだうつくしい瞳には、ただ、純粋な
ちがうよ、頑張ってなんかない、って反射的に叫ぼうとするわたしに、そんなことないよ、と静かに告げてくれているようで。
わたしの弱さごと包み込むようなそのまなざしに、張り詰めていたこころが、怯えが、ほろほろと溶かされてしまう。
「話してくれて、ありがとう。……鏡花さんは自分は変わってない、って言うけれど、俺は、そうは思わないよ。ここに来た頃のこと、覚えてる? 最初はさ、鏡花さんは、全然俺と話してくれなかったよね。聞いたことには答えてくれるけど、一本かっきり境界線を引いてるみたいな感じで。見知らぬ他人なんだから当たり前なんだけど、それ以上に、そもそも自分の思ってることを表に出したくないって雰囲気だった。でも今は、たまに笑った顔も見せてくれるようになったし、何よりこうやって、俺に自分の気持ちを打ち明けてもくれた。それってさ、すごい変化じゃない?」
「それ、は」
一体なぜ。どうしてわたしは、今まで誰にもさらけ出すことのできなかった弱さを、音色さんに打ち明けてしまったんだろう。
「鏡花さんは、ちゃんと前に進んでるよ。――――大丈夫」
どうして、あなたは。
いつだって、いちばん欲しい言葉をくれるんだろう。
どうしようもない心のわだかまりを、簡単にほどいてしまうんだろう。
「……音色、さん。音色さんは、どうして、そんなにわたしにやさしくしてくれるんですか」
――わたしにとって、音色さんは、なに?
形を変えた昼間の問いが、そのとき再び心に
普段はあまり表情を変えない音色さんが、その問い掛けに、少しだけ目を瞠った。珍しく、言葉を探しあぐねるように口を噤んだ音色さんの顔を、じっと見つめる。
わたしは、あなたのことを、何も知らない。
何が好きで、何が嫌いなのか。どうして、これほどうつくしい瞳をしているのか。どうやって、あの言葉選びの感性を得たのか。どんな友達がいるのか。一緒に食卓を囲む以外の時間は何をしているのか。赤の他人のわたしを、なぜ隣の部屋に住まわせてくれているのかも、何一つ知らない。
けれど、やさしいひとだということは、もう知っている。
――好きなことで大事な人が喜んでくれるっていうのはさ、いいもんだよね。
ふわ、と食べかけのコロッケの甘い香りが鼻先をくすぐって、不意に、晴江さんのやさしい声と表情が、脳裡に蘇った。同時に、ああそうか、と腑に落ちる。
音色さんは、わたしの。
「――――大事な、お隣さんだから」
大切な、ひとだ。
音色さんの、目元があかい。それが何よりも本心を物語っているような気がして、嬉しくてたまらなくて。
「ありがとう、ございます。――音色さんも、わたしの、大切なお隣さんですよ」
ようやく自然に浮かんだ笑みとともに告げれば、音色さんはそれはどうも、とそっぽを向いて呟いた。
音色さん、わたしを大事な隣人だと言ってくれて、ありがとうございます。
でもね、そう遠くない、いつか。
――きっとあなたも、わたしを嫌いになる。
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