#1 日常


「ただいま帰りました……うわ、めっちゃいい匂いする」



 すう、と扉が滑るかすかな音に、鍋を掻き混ぜる手を休め、顔を上げる。

 リビングの入り口で足を止めた音色ねいろさんは、コートの三つ目のボタンに指をかけたまま、ほのかに口元を綻ばせていた。マフラーは着けないひとだからか、首周りにまだ、凛と澄んだ冬の気配が漂っているように思えてしまう。



「おかえりなさい、音色さん。今日も一日おつかれさまです」



 コンロの火を消し、背伸びして換気扇のスイッチを切る。途端に、鍋からふわりと立ち昇る、酸味とこくを帯びた香りがいっそう濃くなったような錯覚に襲われた。



「ちなみに晩ご飯はですね、」



 どの食器にしようかな、と吟味しつつ主菜を告げようとすると、ようやく濃紺のコートを脱ぎ終えた音色さんが、ひら、とこちらに片手をかざした。

 きりりとした眉根をちょっとだけ寄せた、真剣なまなざしで。



「あ、ちょっと待って。当てたい。この香りは……トマト?」


「正解です!」


「わかった。この前鏡花きょうかさんが作ってくれた、なんか野菜の洋風煮込みみたいなすごい美味しいやつ?」


「惜しいです。……ひょっとして、ラタトゥイユのことですか? 気に入ってくださったなら、また今度作りますね。今晩はロールキャベツです」


「なにそれ絶対美味いじゃん。超楽しみ」



 笑みを浮かべて答えを口にすると、音色さんは瞳をきらりと輝かせた。


 出逢ったばかりの頃は、さほど感情を表に出さない、寡黙な人なのかと思っていた。今も、冬の静謐せいひつさを身に纏っているようなひとだな、という印象は変わっていない。けれど接しているうちに、意外と茶目っ気のあるところや、表情よりもその瞳の方が雄弁であることが、少しずつわかってきた、ような気がする。もちろんそれは、思い込みに過ぎないかもしれないが。



「トマトソースにするか、ホワイトソースにするか結構悩んだんですけど……先週のラタトゥイユが好評だったので、トマト風味の方がお好きかと」


「うん、トマトって美味しいよね。というか、ロールキャベツってホワイトソースで煮込むこともあるんだ」



 持っていくよ、と告げる代わりに差し出された手に、炊き立てのご飯をよそった茶碗を渡す。自分の手にはいささか余る大きさの茶碗も、細くて長い指にすっぽりと包まれると、途端に小さく思えてしまうのだから不思議だ。



「わたしも初めて目にした時は驚きました。白い、と思って。ただ、いただいてみたらとても美味しかったので、またホワイトソースでも作ってみますね」


「楽しみにしております。……本当に、いつも作ってくれてありがとうね。鏡花さんも、今日も一日おつかれさま。そっちはどうだった?」



 食器の受け渡しを合間に挟みつつ、ぽつりぽつりと会話は続く。

 ねぎらいの言葉をかけてもらえるのは、素直に嬉しい。嬉しいのだが、なぜか妙な決まりの悪さのようなものが胸の奥でざわついて、いつもそれに戸惑ってしまう。


 ――ねえ、どうして。


 その問いの続きから目を逸らすように、今日の出来事を思い返す。



「そうでした。今日、素敵なことがあったんですよ。あ、何個にされます?」


「……とりあえず、二個でお願いします」


「かしこまりました。お代わりもちゃんとありますから」



 立ち昇る湯気の間からロールキャベツを掬い上げ、白い陶器の深皿に盛り付ける。仕上げに黒胡椒を一振りしてから、二人で連れ立って食卓へと向かった。


 それにしてもやっぱり背が高いなあ、と艶のある黒髪に覆われた後頭部を、ひそかに眺める。出逢ってからおよそ八か月を経てもなお、こうして並ぶたびに、頭の位置の違いに驚かされてしまう。



「今日もありがとう。――いただきます」

「いただきます」



 長い指を綺麗に合わせ、低く穏やかな声で告げてから、音色さんは真っ先にロールキャベツの盛られた器に手を伸ばした。ナイフとフォークをいそいそと動かして切り分けられた本日の主菜が、口元まで運ばれていく様子を、つい箸を止めて見つめてしまう。


 はたして好みに合う味付けだろうか、という不安もあるが、このひとは所作もうつくしい。それも相まってか、視線が無意識に引き寄せられてしまうのだ。



「……うま! なにこれ、めっちゃ美味しいんだけど。え、本当に俺が使ってたのと同じ調味料なんだよね? ちょっとびっくりした。作り手の技量次第でこんな風味が引き出せるんだ、すごいな」


「お褒めいただき恐縮です……」



 ゆっくりと一口目を飲み込んだ音色さんは、何度か瞬きをしてから、常よりもやや早口で、大袈裟な賛辞を贈ってくれた。その声色と感嘆したようなまなざしで、お世辞ではなく、心からそう言ってくれていることがわかって、何とも面映ゆかった。



「いやほんと、いつも思うけど、お店開けるんじゃない? 毎日通うよ俺なら」


「いえそんな、わたしはあくまで素人なので……でも、音色さんみたいに、美味しそうに食べていただけるのは、すごく、嬉しいです」


「逆に、こんなに美味いのに、美味しいって言わないやつなんているの?」



 訝しむような、心底不思議そうな声音で問われて、胸の奥が鈍く軋んだ。



「……褒めてくださったのは、音色さんが、初めてです」



 呟くように返答を絞り出すと、察しのいい音色さんは、それ以上踏み込むことなく、流れるように話題を切り替えてくれた。



「そっか。――ごめん鏡花さん、ロールキャベツに心奪われて話が途中になっちゃったけどさ、今日、何があったの?」


「え?」


「素敵なこと」


「ああ! ……それがですね、実はお昼過ぎに、お店のレシートの紙が切れてしまいまして」


「たまにあるよね、レシートの端が春めいてること。俺、あれ当たりみたいで結構好き」



 かすかに両の端を上げた唇が、何気なく紡いだ調べのうつくしさに、思わずしみじみと音色さんの顔を見つめてしまった。



「…………音色さんの、言葉の選び方、素敵ですね」


「なに、どうしたの藪から棒に」



 苦笑に似た表情が浮かび、少しだけぶっきらぼうな口調になるのは、不機嫌ゆえではなく、照れているからだと知っている。だから素直に、感じたことをそのまま伝えた。



「紙が切れる直前の、あの端の色付きを春めいている、って表現されるところが、とても素敵だと思いまして」



 音色さんは目を逸らして、呻くように呟いた。



「それは、どうも、ありがとうございます。……はい続き続き」


「当たりみたい、って言うところも、」


「違うそっちじゃない。俺のことはもういいから、鏡花さんの話の続きをお願いします!」



 大真面目に続けようとしたら必死に制止されてしまったので、やむなく話を戻した。



「わかりました。……ちょうど晴江はるえさんも買い出しに出られていて、お客様も待っていらっしゃるので、どうしようどうしよう、って焦っていたんですけど」


「え、替えがどこにあるとかも聞いてなかったんでしょ? ピンチじゃん」


「そうなんです、レジ周りを探しても見つからなくて。困っていたら、昭雄あきおさんがわざわざ手を止めて、厨房から出てきてくださったんです。それで、お客様に片手を上げて、すまんが、ちいと待ってな、っておっしゃってから、すぐに替えを見つけてくださって。どうやるんだったかな、って呟きながら、交換方法も教えてくださいました。お手を煩わせて申し訳ございません、って謝ったら、にぃっと笑って、気にすんな、って」


「うわ、めっちゃかっこいいじゃん……。昭雄さんって、あの渋い雰囲気の、晴江さんの旦那さんだよね? いかにも職人気質かたぎ、って感じの。そんな一面もあるんだ」



 首肯して、じんわりと胸があたたまるような笑みと言葉を、思い返す。



「はい。最初はてっきり厳しい方なのかと思っていたんですが、すごくやさしくしてくださって。……お客様にも、お待たせして申し訳ございません、ってお詫びしたんですけど、どなたも大丈夫だよ、って笑ってくださって。……本当に、ありがたいなあと思いました」


「そういう時にかけてもらった言葉とかやさしさって、忘れられないよね」


「はい。……本当に、そうですね」



 確かな実感のこもったその言葉を、噛み締めるように呟くと、不意にこちらに向けられていた音色さんのまなざしが、ふっとやわらいだ。



「鏡花さんもさ、そういうところ、素敵だと思うよ」


「……え?」


「他人からもらった厚意にちゃんと気付けて、それをありがたいと想えること」



 声が、とっさに出なかった。


 あまりにもまっすぐな言葉に、少しだけ細められた瞳に、胸の奥がさざめいて。

 間違ってばかりの感性を、肯定してくれたことが、嬉しくて。



「…………ありがとう、ございます」



 少しだけ震えてしまった声で、ようやくそれだけ告げると、音色さんは何も気付かなかったかのように、からりと朗らかな調子で両手を合わせた。



「あー、今日もご飯美味しかった。ごちそうさま。……じゃあ後片付けは食洗機に任せて、ゲームしよっか」



 音色さんは、やさしい。わたしは彼に、彼と過ごす時間に、救われている。


 ――だからこそ、怖い。


 背後にひたひたと迫って来る何かに気付かないふりをして、わたしは笑う。



「はい。……では音色さんは、ゲームの準備をお願いしますね」


「オッケー。昨日の続きからね。鏡花さん、どこまで進んだか覚えてる?」


「シャンデリアが落ちてきた後、からですか……?」


「それは一昨日じゃなかったっけ? あれはちょっとビビったよね。昨日は多分――……」



 食器が触れ合う音と、互いがそれぞれ手を動かす気配、それから他愛のない会話がひっそりと満ちてゆく、穏やかなひとときとともに。


 今日も、夜は更けていく。



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