#4 決意
無機質なメロディが携帯電話から流れ出し、ああようやく朝になった、と重い
結局昨晩は、上手く寝付けなかった。
重力を一枚余分に
寝不足だからかな、と温めたミネストローネを一口だけ飲んでから、ちら、と暗い携帯電話の液晶を眺める。
――晩ご飯、どうするのかな。
今日もまた、あの子と一緒に食べるのかもしれない、と頭を掠めた想像が、途端に真実味を帯びた光景に変わって、もやりとしたものが胸の中に立ち込める。
嫌な想像を振り払うように、きゅっと灰色のスカートを握り、無理矢理椅子から立ち上がる。緩慢な動作でコートとマフラーを身につけていると、不意にリン、とドアベルが鳴り、肩が跳ねた。
リン、リン、リン。
続けざまに響く呼び出し音に、否が応にも不安が募ってくる。少なくとも、ドアベルを乱暴に連打しているのは、絶対に音色さんではない。彼はこんな鳴らし方はしないし、訪う前には携帯電話に連絡をくれるはずだ。
だとすれば一体誰なのだろう、とおそるおそる玄関のドアに近付き、覗き穴からそろりと訪問者の姿を窺えば。
――力強い輝きを放つ、はしばみ色の瞳と、目が合った。
向こうからは見えるはずがないのに、そう確信して、息が止まる。コン、と扉をノックされ、震えそうな右手でどうにかドアノブを引いた。
「ハイ、彼女。ごきげんよう、昨日は驚かせちゃってごめんね?」
「……おはよう、ございます」
冬の朝の、透明な陽射しを背負って立つ彼女の姿を見て、ああやっぱり綺麗なひとだな、と思った。ひらりと手を振るさまひとつ取っても、華がある。
「おはよー。こんな朝っぱらから訪ねてきた相手に、礼儀正しいねえ。そういうところも、音くん的にはポイント高いのかもね」
ひとまず挨拶だけ返すと、彼女は大きな瞳で、しげしげとこちらを見つめてきた。値踏みするような視線ではなく、純粋に小さな子どもが、初めて目にする生き物を観察しているかのようなまなざしだった。
「え、と……」
何と返していいのかわからず、かといって何のご用ですか、とも尋ねられずに言葉を濁していると、彼女は不意に片眉を上げた。
「あ、ひょっとして、俺がいびりに来たとでも思ってる? 安心してよ、そんなことしないから。音くんに昨日、怒られちゃったし」
「え、」
――音色さんが、怒った?
衝撃的な言葉に、俯きかけていた顔を上げる。この八か月の間、わたしは音色さんが語気を荒らげる姿すら見たことがなかった。よほど腹に据えかねることでもあったのだろうか、もしや喧嘩でもしてしまったのだろうか、と気を揉みながら、どうにか一言だけ絞り出す。
「あの、……無事、仲直り、できましたか」
長い睫に縁取られた瞳が、丸く見開かれる。束の間黙り込んでいた彼女は、ひとつ瞬きをしてから、にやりと口の端を上げた。
「――それ、皮肉で言ってる? それとも、割って入る余地があるか探ろうとしてる?」
「ち、違います! そういう風に聞こえてしまったならごめんなさい。ひょっとしたら誤解をされているかもしれませんが、わたしは本当にただの隣人ですので、どうかご心配なさらないでください。あの、すぐにこの部屋も出て行きますので。お二人の間に割って入ろう、なんて滅相もないです! ご不快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません。……ただ、とてもお二人の仲がよろしそうだったので、心配で。昨日、ほんの少しお見掛けしただけですが、音色さんも、あなたのことを大切に想っていらっしゃると思ったので。あんまり、すれ違ってほしくないな、って」
大慌てで弁解しようとしていると、いつしか真顔になっていた彼女は、ふっと口元を綻ばせた。
それは、今まで彼女が浮かべていた、鮮やかなまばゆい表情ではなく。
「大丈夫だよ、もう仲直りしたから。――音くん、きみのことが本当に大切なんだね。怖がらせるようなことするな、って言われちゃった」
はっとするほどやわらかい、まなざしと笑みだった。
とん、とブーツの踵を鳴らし、一歩近付いてきた彼女が、とっておきの内緒話を打ち明けるように、耳打ちする。
「安心してよ、俺はただの友達だから。なにかあの
これ俺の連絡先ね、とQRコード付きの名刺を差し出され、頂戴いたします、と深々と頭を下げると、なんでそんな律儀なの、面白っ、と吹き出された。
大きく口を開けて笑う顔も、やっぱり美人だなあ、と思いつつ、もらった名刺に視線を落とす。
『ichigo』とだけ流麗な書体で記された名刺は、いたってシンプルで、その潔さが、彼女にとてもよく似合っていた。
「……ありがとう、ございます」
音色さんの、ともだち。
初めて目の当たりにしたその存在に、新鮮な驚きと感嘆の念を抱きつつ、わたしはひそかにとある決意を固めていた。
* * *
お店の制服たる黒シャツとエプロンに着替えてレジの横に立つと、目が合った途端に
「宮ちゃん、体調悪いんじゃないの? 目の下に
「いえ、大丈夫です。……実はちょっとだけ寝不足で。ご心配をお掛けして申し訳ありません」
「そう? もし具合が悪くなったら、いつでも言ってね。途中で帰っても大丈夫だから」
「恐れ入ります。ごめんなさい、ご迷惑をお掛けしないように気をつけますね」
なんだか最近、顔に感情や体調が出てしまっているみたいで恥ずかしいなあ、と思いつつ会釈していた頭を上げると、珍しく晴江さんは、少しだけ困ったような微笑を浮かべていた。
ちいさな、子どもに言い含める時のような。どうすれば伝わるだろうか、と迷っているかのような、やさしいまなざしで。
「――ねえ、宮ちゃん。そういうときは、『ありがとう』で、いいのよ」
あ、そうだったのか、と。
そういう考え方があったのか、と、素直に感嘆した。
心配をかけてしまってごめんなさい、ではなく。
「……心配、してくださって、ありがとうございます。晴江さん」
そのふたつは、似ているけれど。受ける印象は、含んだ意味は、全く違う。
また、新しい扉がひとつ開いたな、と感謝のまなざしを向けると、晴江さんは、からりとした表情で、ぽん、と肩を叩いてくれた。
「何か、悩み事があるんだったら、いつでも聞くからね。……じゃあ、今日もよろしく」
「はい。……ありがとう、ございます」
今はまだ、上手く言葉にできないけれど。
いつかこの偉大な人生の先輩にも、話を聞いてもらいたいな、と、すっと背筋の伸びた晴江さんの横顔を、じっと見つめた。
* * *
料理を作るのは、好きだ。手を動かしているうちに、いつの間にか悩み事や考え事から、遠ざかっていけるから。
目の前の作業だけに集中できるというのは、なかなか心地よいものである、と山芋を擦りおろしながらふと思う。くつくつと温まった鍋から、昆布の
山芋を擦り終えてから手を洗い、そろそろ豆腐を入れる頃合いかな、と透明になった大根に菜箸を刺す。煮えた大根が充分にとろけていることを確かめた後、四つ切にした豆腐をそっと沈め、隣に置いたフライパンにごま油を引いて火を点ける。
手早く山芋に出汁と卵を加えて掻き混ぜ、鍋肌が温まったタイミングで一気に流し入れた。じゅうっ、と弾けた香ばしい音を閉じ込めるように、蓋をする。あとは、焼き上がりを待つだけだ。
そろそろかな、と時計をちらりと眺めたタイミングで、携帯電話が震えた。
手に取ると、通知がひとつ。メッセージの送り主は、想像していたとおり、音色さんその人だった。
『あと五分くらいで帰ります』
ちょうどぴったり完成しそうだ、と思わず笑みを浮かべていると、珍しいことに、もう一度携帯電話が震えた。
『昨日はごめんね』
どこか躊躇うような、その文面に、心がさざめく。
ああ、気にかけてくれていたんだな、と嬉しくなってしまう自分に、ほんの少し戸惑って。
晴江さんが体調を
――だけど、甘えてちゃ、だめだ。
携帯電話をそっと置き、静かに決意を固めつつ、晩ご飯の仕上げを進める。
あと五分で、音色さんが帰ってくると思うと、今までになく緊張した。ふう、と一つ息を吐き、つとめて冷静に、告げるべき言葉を頭の中で繰り返しながら手を動かしていると、ほどなく玄関の扉が開く音が聞こえた。
「ただいま帰りました。……って何事!?」
リビングの扉を開けた瞬間、音色さんは目を
床の上に正座したわたしの顔をまじまじと見つめてから、周囲にさっと視線を巡らせ、食卓の上で目を留める。一人分しか並べられていない食器に気付いてか、驚愕に見開かれていた瞳がゆっくりと細められ、真剣なひかりを帯びてゆく。
おもむろにしゃがみ込んだ音色さんは、わたしと視線を合わせて、どうしたの、と穏やかな声で問うた。
「お話が、あります」
「……はい」
小さく頷いた音色さんの目を、まっすぐに見つめて。わたしはひとつ、息を吸い。
昨日からずっと考え続けていた、言葉を告げた。
「わたし、ここから、出て行こうと思っています。……今まで、本当に、ありがとうございました」
深々と、正座したまま額と手を床につける。顔を上げると、音色さんは全く表情を変えずに、淡々と口を開いた。
「鏡花さんが、それを望むなら、俺は引き留められないけど。……もし差し支えなければ、理由を訊いてもいい?」
昨日までそんな
「昨日、いちごさんをお見掛けして、思ったんです。わたし、自分のことで頭がいっぱいでしたけど、わたしが音色さんのそばにいることで、誰かが嫌な思いをされるかもしれないって。わたしは単なるお隣さんに過ぎないつもりでも、周りからはそうは思われなくて、音色さんが大切なひとから誤解されてしまうかもしれないって、ようやく気付いたんです。今更遅すぎるかもしれませんけど、これ以上、ご迷惑をお掛けしたくないと、思いました」
それが理由です、と告げると、音色さんは無表情のまま、即座に切り返してきた。
「――色々、言いたいことはあるけど。鏡花さんは、本当はどうしたいの」
一番、訊かれたくなかった核心を
夜の、海のまなざし。
わたしの心の奥底までも映し出すようなその双眸が、深く沈めていたはずの感情を、浅ましい本音を、じわじわと浮かび上がらせてしまう。
せめぎ合い、どうにかその視線の引力から逃れようと、苦し紛れに口を開く。
「わたしは、音色さんに、ご迷惑を、かけたくないんです」
「それは、どうして?」
息が、詰まる。
「そんなの、」
どうかもうこれ以上、訊かないで。わたしの心に、気付かないで。
「そんなの、決まってるじゃないですか」
「言ってくれなきゃわかんない。教えてよ」
ずるいひとだ、と思った。音色さんのことを、そんな風に思ったのは初めてのことだった。
本当は、わかっているくせに。わかっているくせに、やさしいこのひとは、わたしにあえて、言葉にするよう求めているのだ。
自分の本心から、目を逸らすなと。
その瞳が、訴えている。
「……そんなの、」
言ってはいけない。口にすれば、このやさしいひとは自分が迷惑を
きゅっと、言葉が零れ落ちないように、唇を噛む。そんなわたしを見て、音色さんが困ったような微笑を浮かべる。その表情に、あ、と昼間の出来事が、頭を過ぎった。
もしかして、わたし。
また、同じことを、している?
申し訳ないっていう、他人への罪悪感と自己否定でいっぱいで。自分がいないほうが相手のためだって、自分の本心なんかいらないんだって、無意識に思ってばかりいて。
向けられた厚意を受け取れるだけの自信すらなくて、どうすればいいかもわからなくて、謝ってばかりいた。
心配をかけるような振る舞いをしてしまって、ごめんなさい。
わたしなんかを気に留めさせてしまって、ごめんなさい。
そうやって、差し伸べられた手の中に秘められた相手のやさしさや想いを、自分には受け取る資格なんかないって、全部なかったことにして。
そんな、わたしが。
誰かに、何かを、望むことなんて。
「――――大丈夫だよ」
ぽん、と頭のてっぺんに、大きな手が置かれる。長い指が、あたたかなてのひらが、慈しむように、髪の上を滑ってゆく。何度も、何度も。
「言って?」
その、淡く甘い、けれどどこか、祈るような。どこまでもやさしい声と、まなざしに。
守るように頭を撫でる手のぬくもりに、また、溶かされてしまう。
「音色さんが、…………大切だから。わたしよりずっと大切だから、迷惑を、かけたくないんです」
声が、震える。とんとん、となだめるように音色さんの指が、頭の上でちいさく跳ねた。
「迷惑じゃないよ。迷惑だなんて、一回も思ったことない。……俺が迷惑じゃないなら、鏡花さんは、どうしたい?」
もしも、
だけど、どうしても、口にすることはできなくて。
代わりにそっと、音色さんの、上着の裾をつまんだ。その精一杯の意志表示に応えるように、音色さんの左手が、わたしの指先に重ねられる。
「ひとつだけ、言っておきたいんだけど。……俺に、恋人はいません。だから、鏡花さんが気を遣って出て行こうとしなくても大丈夫です。というか外野に何を思われようと、正直どうでもいい」
きゅ、と握られた指先の熱さに、鼓動が跳ねる。頬がじわりと赤くなるのを自覚しつつ、口を開いた。
「でも、……
未だに、音色さんの職業は謎に包まれたままだけれど。それでも、お付きの人、が存在する時点で、何となく
そして常に人目に
「ああ。――俺、幸いなことに世間様に顔は割れてないから、その辺りは心配しなくても大丈夫だよ。岡ちゃんは、むしろ鏡花さんが来てくれて喜んでると思う。俺、お世辞にも健康的とは言いがたい生活をしてたからさ。いきなりぶっ倒れる心配がなくなって、むしろほっとしてるんじゃないかな。……それより、俺と
「はい。――あ、いちごさんからは、お友達だって伺いました」
それまでいったいどんな生活を送っていたんだろう、と気を取られていたので、音色さんの雰囲気が変わったことに、一瞬遅れて気が付いた。
「……いつ、あいつに聞いたの?」
「えっと……今朝、訪ねて来られた時に」
「今朝」
音色さんの声が、低い。にこやかな笑顔に、どうしてか、無言の圧力のようなものを感じた。
「あの、音色さん? わたし何か、」
「あいつに、何か変なこと吹き込まれなかった?」
「いえ、特には。――あ、怖がらせるようなことをするな、っていちごさんに言ってくださったことは、伺いました。気にかけてくださって、ありがとうございます。……音色さん?」
突然俯いてしまった音色さんが、口の中で何事かを呟いたような気がしたが、あいにく聞き取ることはできなかった。
ほどなく顔を上げた音色さんは、すっかりいつも通りの穏やかな表情で、ん、と手を差し出してくれた。おずおずと伸ばした指をゆっくりと引かれ、一緒に立ち上がる。手を握られたまま、深い色の双眸にじっと見つめられて、心臓がどくん、と脈打った。
――ゆびさきが、熱い。
瞬きも忘れて無言で見つめ合っていると、不意に、ぐう、と間の抜けた音が響いた。くす、と笑った音色さんがぱっと手を離し、お腹空いたね、と呟く。
恥ずかしさで真っ赤に染まった顔を両手で覆い隠し、温め直しますね、と力ない声で囁けば。
「うん。――一緒に、食べよう」
俺もお腹空いた、とこどものような屈託のない笑みを浮かべて。
音色さんは、まるで当たり前のように、わたしの分の食器を棚から取り出してくれた。
それが、どんなに嬉しかったか。
――きっと、あなたは知らない。
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