一人かくれんぼの夜

鏡りへい

鬼は誰?

 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。


 真っ暗な押し入れの中で包丁を握りしめたマオは、全身をきゅっと縮こめたまま、胸の内でひたすらに詫びを繰り返していた。


 ――ほんの出来心だったんです。クラスの子が楽しそうに一人かくれんぼの話をしているのを見て、自分でもやってみたくなったんです。本当は別に不思議な体験をしたかったわけじゃありません。仲の良い子同士で盛り上がっているあの子たちが羨ましくて、話に入りたかっただけなんです。ひょっとしたらみんなに注目されるかもとも思いました。浮ついた考えでごめんなさい。反省してます。だからどうか、何もしないで出て行ってください。お願いします。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――。


 お母さんが夜勤で不在の金曜日、中学一年のマオは眠い目を擦って午前三時になるのを待ち、一人かくれんぼを始めた。やり方と終わらせ方は事前に調べて暗記し、準備も完全に整えたつもりだった。


 ぬいぐるみを風呂場に残し、家中の明かりを消して、テレビだけを点けっぱなしにした居間の隣の寝室の押し入れに一旦隠れる。そして目を閉じて一〇秒数えたら、包丁を持って再び風呂場に行く……はずが、あろうことか、目を閉じた瞬間に眠りに落ちてしまったのだ。


 はっと気づき、念のためにと手元に用意していたスマホで時刻を確認する。三時二四分。それほど時間は経っていない。このまま続けても問題ないはず……と思った次の瞬間、するはずのない物音が耳に届いた。


 ……カチャッ……。


 テレビの音声とは異質な、聞き馴染みのある高い音。それは風呂場の折り戸を開いたときに浴室のタイル壁に反響する音に似ていた。

 マオは一気に頭から冷水を被ったような気分になった。


 ――うそうそうそうそ、そんなはずない。


 咄嗟に両耳を手で押さえる。激しく心臓がどくどく言う音しか聞こえなくなった。


 ――違うよね、テレビだよね? たまたまそう聞こえたんだよね? それか、家が軋んだだけだよね? この家ボロいもん。よくあることだよね?


 自分を納得させる言葉が頭の中を駆け巡る。それを否定するかのように、誰もいないはずの廊下から微かに物音が続いた。


 ト……ト……ト……。


 断続的な音は、風呂場から続く板張りの廊下を居間に向かって歩いてきている足音のように感じられた。


 ――ひょっとしてお母さん? 帰ってきた?


 なけなしの希望に縋りつく。本心ではそんなはずはないとわかっているのに。


 お母さんならこんな歩き方はしない。もっと堂々と、リズミカルにバタバタ言わせて歩く。仮に体調が悪くて仕事を切り上げて帰ってきたのだとしたら、もっと重い足音になるはず。


 この音は……足音を立てないように慎重にそろそろと歩けば、こんな音になるだろうか。でもお母さんがそんなことをするはずがない。

 もしくは極めて体重の軽い何かが歩いている感じだ。例えば、ぬいぐるみのような。


 マオは真っ暗な廊下を二本足で歩くぬいぐるみの姿を想像して鳥肌を立てた。


 ――逃げる? 今なら間に合う?


 家の間取りを思い浮かべる。マオが隠れている寝室には、外に出られる窓がある。押し入れから窓まではほんの数メートルだ。相手がまだ居間に入ってきていないのなら、見つからずに逃げ出せるかもしれない。


 そうは思っても実行はできなかった。恐怖に絡め取られて足も腰も動かない。マオはただ音が移動する先に神経を集中する他なかった。


 足音が変わった。板張りを歩く音から畳を擦るサッ、サッという音になった。居間に入ったのだ。


 ――近づいてきてる!


 マオは身体を縮めて座り込んだまま、包丁を両手でぎゅっと握りしめた。手順通りなら、一〇秒数えた後にこの包丁を風呂場に持って行って、ぬいぐるみを刺すはずだったのだが――。


 ――……あれ?


 何度も読んで暗記したはずの手順を思い返す。そして自分の間違いに気がついた。

 一旦風呂場から離れたとき、するのはテレビ以外の電気を消すことだけで、押し入れに入る必要はなかったのだ。なのに押し入れに座って目を閉じたものだから、つい眠りに落ちてしまった……。


 ――間違ったんだ。


 不意に泣きたくなった。失敗した。こういう『儀式』は、やり方を間違えると命取りになる。そんなこと、今までに読んだ本で知っていたのに。

 だから何度も読んで、終わらせ方もちゃんと覚えて、正確にやろうとしていたのに。結局間違えた。

 だから……怒らせてしまったんだ。


 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。


 激しい後悔に襲われている少女の耳に、居間から一つの呟きが聞こえた。


「いない……」


 恐怖が心臓を震わせた。溜息のようなその声は、聞き慣れたお母さんのものでは決してなかった。高めの掠れた声で、男性なのか女性なのか、若いのか年寄りなのかも判別がつかない。


 声の主は誰もいない真っ暗な部屋でテレビだけが点いているのを不思議に思ったのだろうか。続けてもう一度、掠れ声を発した。


「誰かいませんか……」


 ――いません!


 胸中で叫び返す。もちろん声に出して答えることはできない。そんなことをすれば自分の居場所がわかってしまう。

 さらに続いた音にマオは顔色をなくした。


 ガタン……。


 居間に備えつけられた物入れの扉を開ける音に間違いなかった。中に収められた掃除用具や日用品を触るガサゴソ音もする。


 ――探してる……?


 気配はまず居間を一回り捜索すると、やがてマオがいる寝室にも入ってきた。

 入り口の脇にある、古い洋箪笥の観音開きの扉がキィと開く。お母さんのロングコートもかけられる高さで、マオが最初に隠れようかと思った場所だ。

 そうしなくて良かった……と安堵したのも束の間、さらに気配が移動した。


 ズッ……!


 勢いをつけて敷居を滑ってきた押し入れの戸が、マオの肩を掠めた。マオがいるのと反対側の戸が開いたのだ。


 ――ッ!


 咄嗟に口を片手で覆い、悲鳴を飲み込む。

 そこにいるものが一体どんな姿なのか、知りたくもない。目を瞑って顔を伏せ、じっと息を殺して時が過ぎるのを待つ。


 ――どうか気づかれませんように。


 心臓の音が破裂しそうなほどうるさい。


 長く感じられた時間も実際には数秒だろう。戸が再び閉められ、気配はあっさり押し入れから離れた。


 スッ、スッ、スッ……。


 畳を擦る音が居間のほうに戻っていく。


 強張らせていた身体から力が抜ける。ほっとした。いつの間にか涙が溢れていた。それを指でそっと拭う。

 次の瞬間、


「ヒック」


 マオの喉から小さなしゃっくりが飛び出した。


 ――やば。


 緊張で呼吸を止めるのと同時に、足音も止まった。数秒の間を置いて、


「――いる?」


 声が問いかけた後、今度はマオがいるほうの戸に向かって近づいてきた。


 ――やだやだやだやだやだ、どうしようどうしようどうしようどうしよう。


 マオはもう、口元を押さえることも泣き声を堪えることもできなかった。何も考えられない。ただ無意識のうちに、手に持っていたもので身を守る構えを取った。


 ガタ、と音がして戸が動き、わずかにできた隙間から点けっぱなしのテレビの明かりが差し込んだ。それからゆっくり、スーッと音を立てて視界が開けていく。


 マオは覚悟を決め、涙が滲む目で正面を睨んだ。


 ――――


 週が明けた月曜日は、クラスの空気がいつもと違った。マオが登校するとみんなが待ち構えていたように寄ってきて、口々に「すごいね」「大変だったね」と褒めたり労ったりしてくれた。マオは照れたり苦笑したりしつつ、束の間のヒーロー気分を味わった。


 あの晩、押し入れを開けたのは強盗だった。母と娘二人きりで暮らしていると知った悪党が、鍵のかかっていない風呂場の窓から深夜に侵入したのだ。


 覚悟を決めたマオは、戸が開いた瞬間に、握っていた包丁を全力で突き出した。


 マオにとって予想外だったのは、相手が生きた人間だったこと。それ以上に強盗は、予想を遥かに超える反撃に驚き、慌てふためいた。

 刃物は強盗の太腿をわずかに切りつけただけだった。それでも強盗は大声を上げ、さらに体中を暗がりのあちこちにぶつけながら、ほうほうの体で屋外に転がり出た。

 そこをちょうど新聞配達の人に目撃され、通報されて御用となった。


 警察やお母さんに事情を聞かれたマオは嘘の言い訳をした。金曜なので遅くまでテレビを観ていたら寝入ってしまい、目が覚めたのは風呂場から物音が聞こえた瞬間だった。強い恐怖に襲われ、咄嗟に包丁を手に取り押し入れに隠れた――と。


 数日が経ち、やっと周辺も気持ちも落ち着いた頃にマオはふと思った。


 ――そういえばあのとき用意したぬいぐるみ……あれきり見ないけど、どこ行っちゃったんだろう?

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