第16話 王子の天使

 ハヤテはそっとノートをコールに手渡した。途端にコールの目が光る。彼はじっとノートを見つめ、書かれた文字を指でとんとんと叩いた。

「ハヤテ様、ここのフレーズですが……」

「はい……」

「この、会いに行こうあなたのところへ、ではあなた、と書かれていますが、次のところでは、君、という言葉が混じっています。あなたか、君か、そこは統一なさった方が良いのでは無いかと思います」

「あ……そうですね。次は気を付けます。すみません」

「期待していますよ」

 笑顔でそう言ったコールに、ミュラがふんと鼻を鳴らす。

「良くもまぁ偉そうに、ハヤテの作品を見ているな」

「ミュラ様、わたくしはこう見えて数多くの文学作品を読み漁っております。ですので、この役目には適任かと」

「私だって、日々、書類に目を通している」

「読むのと目を通すのは、また違うと思いますがね」

「ま、まぁ、落ち着きましょう! ミュラさんは筆を動かさないと、絵の具が乾いちゃいますよ?」

 ハヤテの言葉を聞いて、ミュラは視線をキャンバスに戻した。ハヤテは小さく息を吐く。そして、ぐるりと室内を見渡した。

 ミュラのアトリエに入ったのは、今日が初めてだ。そこら中から油絵の具のにおいがして、なんだか落ち着かない。ミュラは絵の具がこびりついたエプロンをして、黙々と筆をキャンバスに走らせている。

「ではハヤテ様、次の作品を楽しみにしております」

「はい。またお願いします」

 ハヤテはアトリエから出て行くコールの背中を見送った。扉が閉まるのと同時に、ミュラが不満そうにくちびるを尖らせる。

「ハヤテ、コールに頼まなくても……私だって、ハヤテが作った歌詞の感想を言いたいのに」

 ミュラの提案を受け、ハヤテは空いた時間に作詞をするようになった。初めは思いついた単語をノートに書き散らして景色をイメージする。そこで浮かんだ映像を、頭を捻りながら文章に変換している。

 浮かんでくるのは……ミュラへの気持ちばかりだ。ああしたい、こうされたい、といった妄想の塊をミュラに見せるのは気が引けた。なので、コールに頼んで下書き状態のノートの添削を頼んだのだ。

「……だって、まだ未完成ですし……歌詞のモデルになった本人に見せるのは、恥ずかしすぎるし……」

「そうか? 私は早くこの絵を完成させてハヤテに見せたいが」

 今、ハヤテは絵のモデルになっている。室内の隅に置かれた黒いソファーに、かれこれ三時間ほどあまり動かないように気を付けながら座っている。

 アトリエに入りたい、ミュラの作品が見たい、と願い出たのはハヤテだった。前からアトリエのことも、ミュラが描く絵のことも気になっていたので、思い切って言ってみたのだ。ミュラは少し悩んだ様子を見せたが「ハヤテの願いなら」と承諾してくれた。

「ハヤテ、少しだけ右を向いて」

「はい」

 ミュラは「アトリエに入るなら、ハヤテの絵を描きたい。モデルになってほしい」と言った。それにハヤテは頷き、今の状況になっている。モデルというのは意外と体力を使う。ただ座っているだけなのに、腰が少し痛くなってきた。ハヤテは小さく腰をさする。

「……これは、最高傑作かもしれない」

 筆を握る手を動かしながらミュラは呟く。ミュラは、キャンバスに下書きをすることなく、いきなり絵の具を筆につけて描き出した。その大胆な描き方を見た時、ハヤテはとても驚いた。絵を描くという行為は、もっと繊細な作業だというイメージがあったからだ。

 キャンバスからは、何故かどすどすと時折音がしている。どんな筆使いをしたらそんな音が出るのだろうか。ハヤテは気になったが、口に出して訊くのは止めておいた。

「ハヤテ、音楽が欲しい」

「音楽ですか? ラジオを持ってきましょうか?」

「いや……ハヤテの歌が聴きたい。昨日の夜に、一緒に歌ったやつが良い」

「……では」

 ハヤテはすっと息を吸う。

「俯いていたあの日……」

 夜はいつも、ふたりで歌う時間を作っている。それはソファーだったり、ベッドだったり……リラックス出来る場所でふたりは歌う。

「気がつけば隣にはあなたが居て……」

 ミュラは毎日のように、ハヤテに愛を伝えてくれる。手を繋いでキスをして、たまに長文の手紙を渡すこともある。ハヤテは手紙のすべてを、青いクッキーの空き缶に入れて大切に保存している。もうすぐ、次の缶が必要になりそうだ。

「また恋をしようよ……」

「出来た! 完成だ!」

「っ!」

 急にミュラが叫んだので、ハヤテはソファーの上で跳ねた。ミュラは広げた新聞紙ほどの大きさのキャンバスを裏から持って、自信に満ちた表情で言う。

「これが、私の、ハヤテへの愛だ!」

「こ、これは……」

 そこには、白い翼が生えた人間らしきものが描かれていた。赤い四角形の上にそれは立っていて、上から黄色い光のようなものを浴びている。そこら中に花のようなピンク色の物体が浮いていて、背景は深海のような濃い青色で埋められている。

「これが、僕……」

 ハヤテは言葉に困った。モデルの自分は座っていたのに、どうして絵の中のそれは立っているのだろう。背景も不思議だ。部屋の壁は淡いクリーム色で、天井にはスポットライトもない。いったい、ミュラの目には、現実の世界がどう見えているのだろうかと、心配になった。

「宇宙……」

 カフェでの会話を思い出す。確かに、カオスだ。ハヤテはそっとキャンバスに手を伸ばす。すかさずミュラが「駄目だ」と言った。

「まだ乾いていないから、ハヤテの手が汚れてしまう」

「す、すみません」

「完全に乾いたら触ってほしい。絵の具をたくさん使っているから、ぼこぼこした手触りが面白いぞ」

 そう言って笑うミュラの手は絵の具でどろどろだ。エプロンからはみ出た白いシャツまで絵の具に染まっていて、これは後からコールに叱られるに違いないとハヤテは思った。

「どうだろう……自信作なのだが……」

「えっと、これは僕ですよね?」

「もちろん。何故?」

「あ……僕は座っていたのに、この人は立っているから……」

「ああ、そうか。ハヤテは鋭いところを見ているな。さすがだ」

 ミュラの瞳はきらきらと輝いている。

「これは、実在のハヤテを見ている時に、じわじわと湧き上がってきたイメージを元にした姿なのだ……!」

「イメージ……この白い翼もそうですか?」

「そうだ! ハヤテは天使そのものだからな。背中にちゃんと生えている」

「この、花……は?」

「中庭で花々を愛でているハヤテを描いた」

「この黄色い……」

「天使には太陽の光がとても似合う。これは私の心に天使のハヤテが現れ、暗闇に光を与えてくれたというイメージで、描いた!」

「そ、それは壮大な世界ですね……」

「この描き方を、私は密かに、ミュラ技法と呼んでいる」

 ハヤテはキャンバスをじっと見たまま、小さく呟く。

「どこに飾ろうかな……」

「え?」

 ハヤテの言葉に、ミュラは目を丸くする。

「貰ってくれるのか?」

「え? 貰えないんですか?」

 ミュラは恋人には絵を贈っていたと言っていた。だから、てっきり自分もプレゼントされるものだと思っていた。ハヤテは頬を掻く。

「すみません、僕、勝手に貰えるものだと勘違いをして……」

「ああ、違う! もちろん、ハヤテに贈りたい! ただ……」

 ミュラはキャンバスをイーゼルに置き直して言った。

「私はいつも絵を贈った後に、いつもフラれているから……ハヤテにもフラれるのではないかと……怖くて……」

 その言葉を聞いて、ハヤテは手を伸ばして背伸びをして、ミュラの頭を撫でた。

「僕は、ミュラさんの愛ならなんだってほしいです」

「ハヤテ……ありがとう。弱虫ですまない」

「僕だって、弱虫です。まだ……時々、悩んでしまいますから」

 ハヤテは少し俯く。そんなハヤテの首筋にミュラは頭をくっつけた。

「跡取りのことか?」

「……はい。どうやっても、僕には無理だから……」

 ミュラは、ハヤテを安心させるような柔らかい声で言う。

「大丈夫だ。王族は私たちだけではない。私がちゃんと国を任せられる人間を探し出すから、心配しなくても良い」

「……はい」

「ハヤテは心を曇らさずに、私のことをずっと愛していてほしい」

「……はい」

「素敵な家族になろう。ずっと、一緒だ」

「嬉しいです、ありがとうございます」

 そう言ったハヤテに顔を近づけて、ミュラは目を閉じる。

「今日はハヤテからしてほしい」

「……ふふ」

 ハヤテはミュラの頬に手を添えて、自分からそっとくちづけた。愛している。ずっと同じ気持ちで生きていきたい。この人となら、きっと大丈夫だと信じられる。ハヤテはその思いをキスに込めた。

 くちびるを離して見つめ合う。ミュラは青い瞳にハヤテを閉じ込めて言った。

「ハヤテはキスが上手くなったな」

「ミュラさんが教えてくれたんですよ?」

「なんだか、いけないことをしたみたいだ」

 ミュラは低い声で、ハヤテの耳元で囁く。

「もっと、いけないことを教えたいな」

「……そろそろ、良いかな。郷に入っては郷に従えって言うし……」

「えっ?」

「あ! そろそろお昼ですね。今日は何を食べようかな」

「ハヤテ! 今、良いって……」

「ミュラさん、早く着替えて食堂に行きましょうよ! そのままだったらコールさんに叱られますよ?」

「ハヤテ、今夜……」

「ほら、行きましょう?」

「ああ、逞しくなったな、ハヤテ……」

 ふたりはアトリエを後にした。室内に残されたキャンバスは、柔らかな日差しを浴びて輝く。ミュラの愛がこもったそれは、どこまでも鮮やかな色彩を放っていた。

 

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