第12話 心のふれあい

 ハヤテはミュラの寝室に居た。

 今、何時だろうと思い時計を探して、ああこの部屋にはそれが無いのだと思い出して苦笑した。自室を出たのは午後十時過ぎだ。待っている時間というのはとても長く感じられて、ハヤテはそわそわと落ち着かない心でミュラのベッドの足元の方に座っている。

 今夜は少し肌寒い。一度、部屋に戻って何か羽織ろう。そう思い立ち上がったのと同時に、寝室の扉がきい、と開いた。

「……ハヤテ?」

 ミュラはハヤテの姿を見て目を丸くする。そんなミュラに、ハヤテは笑顔を見せた。

「こんばんは、ミュラさん。お仕事お疲れ様です」

「ああ……ハヤテもお疲れ様。いつからここに?」

「えっと、ちょっと前です」

「ほう……」

 ミュラはハヤテに近寄る。そして、手を伸ばしてそっとハヤテの頬に触れた。

「こんなに冷えて……今日は遅くなるから先に休むようにと、扉に手紙を挟んでおいただろう?」

「えへへ……」

 夕方、ハヤテがコールに頼まれた分の仕事を終えて自室に戻ると、一枚の便箋が扉に挟まっていた。そこには「残業するから今日は先に休むように。良い夢を。ミュラ」と整った文字が綴られていた。ハヤテは一度は自分のベッドに入ったが、どうにもミュラのことが気になって、いつものようにミュラの寝室に足を運んだのだった。

 ハヤテは伝わる温度が心地良くて目を細める。

「ミュラさんは、あったかいですね」

「風呂上がりだからな」

 そう言ってミュラはベッドに腰掛けた。そして、自分の隣を指差す。

「ここに座って」

「……はい」

 ハヤテはミュラの左側に座った。最近は肩がぶつかる距離で座って歌うのが当たり前になっている。途中でミュラはベッドに入るが、最初の一曲の時は必ずふたりはこうしてベッドに並んで座っている。

「どんなのを歌いましょう? 昼間みたいなのか……最初から子守唄にしましょうか?」

「いや、歌の前にまず……」

 ミュラはそっとハヤテを抱き寄せる。いつもと違う展開に、ハヤテの心臓が跳ねた。

「冷えたハヤテを温めないとな」

「ミュラさん……!」

「身体が冷えていると、声も出にくいだろう?」

「それは、そうですけど……」

「ふふ」

 ハヤテは食堂でのコールとの会話を思い出す。ミュラは誰にでもべたべたするようなことはしないらしい。そういえば、街でミュラ本人も自分は軽い奴ではないと言っていた。

 ——間違いなく、ほの字です……!

「っ!」

「ハヤテ、どうした?」

「あ、いえ……大丈夫です」

 コールの言葉が鮮明に頭の中で響いた。本当にミュラは自分に惚れているのだろうか。自分と同じように胸を躍らせたり、悩んだりしてくれているのだろうか。

 ハヤテはちらりとミュラを見る。ミュラもハヤテを見つめていた。視線が絡み合う。ハヤテは恥ずかしくなって、すっと目を逸らした。その様子を見て、ミュラはくすくすと笑う。

「今日のハヤテは一段と可愛らしいな」

 違う。

「さすが、私の天使だ」

 違う。

「ずっと独り占めしていたい」

 違う……今、言ってほしいのは甘い言葉ではなく、決定的な愛の告白だ。好きなら好きとはっきりと言ってほしい……いや、自分から先に言ってしまえば良いのだろうか。ハヤテはその光景をイメージする。まずはミュラを呼び出して……どこに呼び出せば良いのだろう? 屋上? 体育館の裏? 夜景の綺麗なレストラン? 今まで告白などしたことが無いハヤテの頭の中はぐるぐると混乱を極めていた。

「ああ、そうだ。ハヤテ」

「は、はいっ!?」

 名前を呼ばれてハヤテは我に返った。裏返った声で返事をしたハヤテのことを、ミュラは不思議そうな顔をして見つめている。

「どうした? ぼんやりしているな? 眠いか?」

「いえ、平気です……どうぞ、お言葉を」

「あ、ああ……言い忘れていたのだが、トニーが持っていたリンゴの調査が完了した」

「調査……ああ、魔術の気配があったって、おっしゃっていましたよね」

「そうだ。回収したリンゴは全部で二十五個だった。その中にひとつだけ……ハヤテが投げたリンゴに、何重にも強い魔術が仕掛けられていた」

「それは、危害を加えるような魔術だったのですか?」

「ああ、食べた相手に健康被害……眠れなくなる症状をもたらす魔術だと判明した」

「……薬草の次は、魔術でミュラさんを攻撃をしようとしたんですね」

 ハヤテの言葉に、ミュラは深く息を吐く。

「奴はどうしても私を陥れたかったらしい。この国の新聞記事を入手してその記事を読み、私の睡眠障害の程度を分析したそうだ。記事には私は軽くふらついたと書かれていて、それはそれは憤慨したと。ふらついた程度では気が済まない、倒れるくらいの術をかけてやろうと思い立ち、あのカフェで機会を虎視眈々と狙っていたらしい。魔術で老婆の姿に化けて、な」

「どうして、ミュラさんが街のカフェに顔を出していると分かったのでしょうか?」

「……恐ろしい話だが、奴は私の髪を一本、以前の公務で会った際に入手していた。それを軸にして私の魔力の気配をたどり、私が城から出て頻繁に訪れている場所を割り出したと自供している」

「そんなの、ストーカーじゃないですか!」

 ハヤテは身震いした。そんなことをしてまでミュラを狙うなんて、とてもおぞましいことだ。

「トニー王子は、ちゃんと裁かれるんですよね? 王子だから罪が軽くなるなんてことは無いですよね? ミュラさんを傷付けたことは重罪です!」

「ハヤテは優しいな」

 ミュラは微笑む。

「……我々は、今回の件を利用して隣国との関係を良いように進めようとしている」

「関係……」

「父の代の前から、隣国とは折り合いが悪い状況が続いている。ならば付き合いを止めてしまえば良い話なのだが、お互いに貿易や資源の面から完全に国交を断絶するわけにはいかなかった」

「……」

「向こうは顔が広く、他国への影響力が強い。それを良いことに、対等な関係を保つというこちらとの条約を無視して、ずっと横柄な態度を取り続けていた。それが……今なら変えられる」

「……トニー王子を無罪放免にして、その代わりに、こちらが優位に立つ条件を飲ませるってことですか?」

「簡単に言えば、そうだ。向こうの国王は息子が不祥事を起こしたことで随分とダメージを受けている。揺さぶるには絶好のチャンスだ。だから……」

「でもっ!」

 ハヤテは声を荒げる。

「そんなの……そんなの、ミュラさんのことを良いように利用しているだけじゃないですか!」

「ハヤテ、違う」

「違わないです! あの王子はミュラさんを苦しめているのに、何の裁きも受けないなんて間違っている!」

「ハヤテ、落ち着いて」

「なんで……国のことは解決するかもしれないけど、ミュラさんが受けた傷は癒えるわけじゃないのに……それなのに……」

「ハヤテ……泣かないでくれ……」

 ミュラは指先でハヤテの目元に触れた。いつの間にか泣いていたらしい。涙を止めようと、ハヤテはぎゅっと目を閉じた。

「ハヤテ、この取り引きを提案したのは私自身なんだ」

「……え?」

「最初、父たちはトニーをこちらの国の法で裁こうとしていた。父だって、自分の息子に危害が及ぼうとしていたのだから大変に立腹していた。だが……私は、これは好機だと思った。あの王子を使えば、きっと向こうはこちらの提案を受け入れるしかない、と。今まで動かなかった流れを、今なら動かせるに違いないと確信した」

「……ミュラさん自身を犠牲にして?」

「犠牲になんかしていない」

 ミュラの言葉を聞いて、ハヤテはそっと目を開いた。ミュラの青い瞳が、じっとハヤテを見つめている。その目は、今まで見たことがないほどに真っ直ぐだった。

「考えてみてくれ。いずれは私もトニーも王位を継ぐ。その時に、一番痛い思いをするのは奴だ。今、取り引きを結んでおけば、それは大きな貸しになる。少なくとも、奴が生きている間はこの国に、私に、大きな顔は出来ないだろう。いや、絶対にさせない。私が必ず抑えつけ続けてやる」

「ミュラさん……」

 ハヤテは俯く。ミュラは冷静にこの国の未来のことまで見据えていたのだ。それなのに自分は……勝手に勘違いをして、勝手に怒って、挙げ句の果てには泣いてしまった。まだこの国のことをしっかりと理解してもいないのに、自分の考えをぶつけてしまった。馬鹿だと思う。こんな自分はミュラの傍にいるのには相応しく無い。ハヤテは悔しさで溢れそうになる涙を抑えようと、ぎゅっとくちびるを噛んだ。

「ハヤテ、顔を上げてくれ」

「っ……ごめんなさい。僕は、何も知らないくせに、偉そうに意見してしまって……本当にごめんなさい……」

「ハヤテは謝るようなことはしていない。私のことを心配してくれたのだろう? 嬉しいよ、ありがとう」

「お礼なんて、僕は……ごめんなさい……」

「ハヤテ、良い子だから、顔を見せてくれ」

 ハヤテはゆっくりと顔を上げる。ミュラの顔を見た途端、堪えていた涙がまた流れ出した。

「こんな私のために、泣いてくれてありがとう」

 ミュラはハヤテを腕の中に閉じ込める。そのぬくもりがどうしようもなく優しく伝わって、ハヤテは声を上げて泣いた。ミュラはハヤテを黙って受け止める。広い室内に、ふたり分の早い鼓動が響き続けた。

 

「……ん」

 ハヤテはそっと目を開ける。どうやらベッドで寝ているらしい。いつ自室に戻ったのだろう? 戻る? ああ、そうだ。自分は寝室に向かったのだ。誰の寝室だ? そうだ、その人は……。

「目が覚めたか?」

「……っ!?」

「おはよう、ハヤテ」

 至近距離からミュラに話しかけられて、ハヤテの心臓が跳ねた。そして、思い出す。ミュラに迷惑をかけてしまったのだ。ハヤテは起きあがろうとした。だが、何故か同じく隣で寝転んでいるミュラに手を掴まれて阻止される。

「おはようと言ったが、まだ朝ではない」

「っ、ミュラさん! 僕、えっと、なんで一緒のベッドで寝ているんですか!? 記憶が無くて……」

 ハヤテの言葉に、ミュラはふふ、と笑う。

「ハヤテは泣き疲れて眠ってしまったのだ。私ひとりの力ではハヤテを隣の部屋に運べない。だから、一緒に寝ることにした」

「えっ、でも、前に僕のことを軽々と運んで……」

「覚えていないな」

 そう言いながら、ミュラはハヤテの目元に指で触れる。

「目が腫れている。綺麗な肌が台無しだ」

「あ……ごめんなさい。僕……」

「もうごめんなさいは無しだ。それに、私も悪いのだ。ハヤテに事前に相談するべきだった」

「ミュラさんは悪くないです! そういう大切な話は、部外者には話しては駄目だって分かってます!」

「こら、部外者じゃないだろう?」

 つん、とミュラはハヤテの頬を指でつついた。

「ハヤテは部外者なんかじゃない。私の大切な人だ」

「っ……」

 大切。それはどういう大切ですか、とハヤテは胸の中で問う。口に出してしまえば早く答えが出ることなのに、言葉は喉の奥でつっかえてしまって形にならない。もどかしい思いを抱えながら、ハヤテはミュラの胸に顔をくっつけた。その背中をミュラが撫でる。

「まだ、泣きたい?」

「……いえ、平気です」

「今日は甘えてくれるのだな。いつもハヤテは一歩後ろに下がっているから……嬉しいな。何か、話そうか?」

「……はい」

 ハヤテは顔を上げる。同時に、ミュラの大きな手のひらが頭の上に乗った。

「思えば、私たちは互いのことをあまり知らないな」

 ハヤテは頷く。言われてみればそうだ。雑談はするが、お互いの細かいことはあまり話していない。

「よし。まずは、好きな食べ物からだ」

 ミュラが微笑みながら言う。

「こう見えて、私は酒が好きだ」

「えっ、そうなのですか? あんまりイメージじゃ無いな……」

「何を飲んでいそうなイメージ?」

「うーん……紅茶とか、コーヒーとか」

「確かにそれも飲むが、一番は酒だな。ただ、健康のことを考えて、週に二回だけとしている」

「ちゃんと考えているんですね。僕が好きな飲み物は……」

「当てようか? オレンジジュースだな?」

「えっ? どうして?」

「時々、ハヤテからはオレンジジュースの香りがする。昼食の後の時間に会った時などにな」

「恥ずかしいな……僕も、糖分の取りすぎは身体に悪いので、一日にコップ一杯と決めています」

「偉いな。今度、蛇口をひねればオレンジジュースが出てくるタンクを用意しよう」

「そんなのがあったら、誘惑に負けてしまいますよ」

「……」

「……」

 目を合わせて、くすくすと笑い合う。楽しい。ハヤテは肩を震わせながら思う。こんなに楽しい夜は初めてだった。

「駄目だ、好きな飲み物の話になってしまった」

「だって、ミュラさんが最初にお酒だって言うから」

「そうだ、原因は私だ」

 ミュラは枕に顔を埋めて、ばたばたと悶えている。ミュラのこんな姿をハヤテは初めて見た。

「次は……趣味について語ろう。ハヤテの趣味は……歌うことか?」

「そうですね……あ、最近は食堂でのご飯が楽しみです。どれも美味しそうで……全部のメニューを制覇したいんです」

「とても可愛らしい趣味だな。では、私の趣味は……」

「じゃあ、次は僕が当てますね。ミュラさんの趣味は、絵を描くことです」

「残念、不正解だ」

「えっ?」

 首を傾げるハヤテに、ミュラはどこか得意げに言う。

「絵を描くことは仕事の一環だから、趣味ではない。私の趣味は、鍛錬だ」

「鍛錬? ああ、そういえば、コールさんがそんなことを言っていた気が……」

「本当にあいつはおしゃべりだ。私の口から初めて言いたかったのに」

 むくれるミュラに、ハヤテは苦笑しながら訊いた。

「どんな鍛錬をなさっているんですか?」

「主に腹筋だな。体幹も鍛えている。乗馬はそのトレーニングに持ってこいだ」

「そういえば、僕を乗せて下さいましたね。あの時のミュラさん、王子様みたいでした」

「……みたいじゃなくて、王子だ」

「あ……」

「……」

「……」

 ふたりは同時に吹き出す。

 笑いすぎて腹が痛い。ハヤテは、人生で初めて爆笑というものを経験した。

「で、では次は……真面目に恋の話をしよう。最近流行りの恋バナというやつだ」

 笑いすぎて涙目になりながらミュラが言う。途端に、ハヤテに緊張が走った。この流れで告白の雰囲気に持っていくことが出来たら、と思うと心臓がどくどくと鳴った。

 ミュラはハヤテに視線を送りながら口を開く。

「ハヤテは歳上と歳下、どっちが好みだ?」

「歳ですか? 歳は……気にしないなぁ」

「性別は?」

「うーん……気にしません」

「タイプを一言で表すと?」

「好きになった人がタイプです。それで良いって、ミュラさん前におっしゃっていましたよね?」

「……ハヤテ」

 ミュラは何の前触れもなく、ハヤテの脇腹をくすぐり出した。突然の事態に、ハヤテは驚き、くすぐったさで身をよじる。

「ミュラさん! 待って! 何ですか急にこんな……!」

「私は無垢なハヤテも好きだが、今はそういう気分じゃない。明確な答えが欲しいのだ」

「ちょ、やぁ……!」

 ハヤテは逃げようと身を起こす。だが、簡単にミュラに捕まってしまった。ミュラのくすぐりは止まらない。脇腹だけでなく、範囲が足の裏までに広がってきた。

「ハヤテ、順番に訊こう。年齢は上か下か、どちらが良い?」

「え? あっ……! 待って、そんなとこ触ったら駄目……!」

「ほら、答えないと終わらないぞ?」

「あ、ん……っ! 上! 今は上が好きですっ……!」

「では性別は?」

「やっ……今、今は男の人で……はぁん……っ」

「芸術家ってどう思う?」

「へ? あっ! そこ……駄目……!」

「ハヤテ? どう思う?」

「す、好きっ! あ、はぁ……好きで、すっ……!」

「……ふむ」

 ハヤテの言葉を聞いて、ミュラはぱっとハヤテを解放した。すかさず、ハヤテはミュラから距離を取る。

「け、ケダモノっ!」

 傍にあった枕をミュラに投げつけたハヤテだが、それは簡単にミュラにキャッチされてしまった。

「ハヤテは球技が得意か? ものを投げるのが上手い」

「っ……知らない! ミュラさんなんか、もう知らない!」

 ベッドから降りようとするハヤテを、ミュラは背後から抱きしめた。

「ハヤテ、怒らないでくれ……私は明確な答えが欲しかっただけだのだ」

「……」

「ハヤテが答えてくれたおかげで、自信がついた。ありがとう」

「……自信?」

 ハヤテは振り返ってミュラを見る。目に飛び込んで来たミュラの表情は明るい。人のことをさんざんくすぐって、いったい何の自信がついたというのだろう。ハヤテにはさっぱり分からなかった。

「さて、そろそろ眠ろう」

「わ!」

 ハヤテの身体は、簡単にベッドに押し倒されてしまう。また何かされるのでは、とハヤテは身構えたが、ミュラは何もして来ない。乱れた掛け布団を引っ張って正し、自分も横になっただけだった。

「ハヤテ」

「……はい」

「子守唄を歌ってほしい」

「えっ?」

 このタイミングで歌を求められるとは思っていなかった。ハヤテは驚きながらも「分かりました」と頷く。ミュラは嬉しそうに笑った。

「今、ものすごくリラックスしているから、きっと朝までぐっすりだ」

「……だと良いのですが」

 すっと息を吸って、ハヤテは歌う体勢に入る。すると、ミュラがハヤテの右手を握ってきた。ハヤテはミュラの顔を見る。ミュラはもう目を閉じていて、本当に眠るつもりのようだ。

「あ、電気……」

「つけたままで良い」

「でも……」

「ハヤテ、歌って」

 ミュラは静かにそう言う。ハヤテはもう一度息を吸って、少し小さめの声で歌い始めた。

「眠れ……眠れ……、小さな命よ……お日様を浴びて眠れ、花のような心で……」

 すう、とミュラの呼吸が一定のリズムになる。ハヤテは小さく「眠れ、眠れ……」と繰り返した。次第に、ハヤテの手を握っていた力が弱まる。これは……。

「眠れ、眠れ……王子様、眠れ……」

「……」

「眠れ……眠った……?」

 そっとハヤテはミュラの顔を覗き込む。ミュラは薄くくちびるを開けて、穏やかな呼吸を繰り返している。本当に眠ったようだ。

「どのくらい続けて眠れるかな……」

 どきどきしながらハヤテはミュラの寝顔を見つめる。どれだけハヤテが視線を送っても、ミュラは起きる気配を見せなかった。

「……良い夢を、ミュラさん」

 小さくそう呟いて、ハヤテは静かに身体をベッドに沈めた。まだゆるく繋いだままの手にそっと布団をかける。すると、ミュラの口から言葉が発せられた。

「ハヤテ……」

「……寝言?」

「ハヤテ……ずっと傍に……」

「……はい」

 小さくそう頷いて、ハヤテは少しだけミュラとの距離を詰めた。肩と肩がぶつかりそうな距離。不思議と緊張はせず、ハヤテの心は穏やかだった。

 時計の秒針の音が聞こえない部屋に、柔らかい寝息が規則正しく音を立てる。ハヤテは外が明るくなるまで、その音を静かに感じていた。

 

 翌日、ハヤテは寝坊した。昼前まで眠っていたところを、コールによって起こされたのだ。ハヤテは深々と頭を下げる。

「気が緩んでいました! すみません!」

「いえいえ。さて、もうすぐお昼ですから、朝食兼昼食を食べに参りましょう」

 どこかご機嫌なコールと共に、ハヤテは食堂に向かった。今日は何を食べようと考える。いつも朝食ではパンを食べているので、ピザトーストにしようと思った。

 昨日と同じ席が空いていたのでそこに座ると、ウェイターがすぐに注文を取りに来た。

「ご注文をどうぞ」

「ピザトーストで。ドリンクは……ホットのレモンティーを」

「わたくしは、焼き魚定食。赤飯でお願いします」

 ウェイターが去った後で、ハヤテはコールに問う。

「赤飯って、何かおめでたいことがあったのですか?」

 ハヤテの問いかけに、コールは笑顔で答えた。

「もちろん! なんとミュラ様が朝まで目を覚ますことなく、眠れたのです!」

「あ、あの後、ミュラさんはずっと寝ていたんですね。僕、途中で寝てしまって……起きたらミュラさんはもう居なくて……心配していたんです。良かった……ちゃんと眠れたんだ……」

「何もかも、ハヤテ様のおかげです! 心から感謝いたします! お身体の方は、大丈夫ですか?」

「身体?」

 喉のことを心配されているのだろうか。ハヤテは頷く。

「平気ですよ。腫れてもいないし、問題ありません」

「は、腫れる!?」

 コールの顔がみるみる赤く染まっていく。

「ミュラ様ったら、いったいどんな……」

「コールさん?」

「ハヤテ様、ああ見えてミュラ様は激しいのがお好きなのかも知れませんが、こういうことは最初が肝心。嫌なら嫌とお伝え下さいね?」

「え? 嫌って別に……好きですよ?」

 歌うことは。そういう前に、コールは赤い顔を両手で隠して、足をばたばたさせて叫び出した。

「激しく熱く燃え上がる! ハヤテ様は意外と大胆!」

「ま、待って下さい! いったいなんの話ですか?」

「そんな……わたくしの口からそんな……」

 コールは周りをきょろきょろと見回してから、ハヤテにだけ聞こえるような大きさの声で言った。

「昨夜の情事のことですよ……」

 情事。最近覚えたばかりの言葉だ。ハヤテはコールよりも顔を赤くして叫ぶ。

「そんなことは、していません!」

「ええっ!? でも……」

「でもじゃないです! なんで、そんな話になっているんですか!?」

「これにも目撃情報があるのですよ?」

「も、目撃って……」

 コールはごほんと咳払いをしてから口を開く。

「目撃というのは違いますね。声を、聞いた者が居るのです」

「こ、声?」

「ええ、警護の者が確かに聞こえたと……ミュラ様の寝室から漏れる、甘い喘ぎ声が」

 喘ぎ声……それは……!

「違います! あれはミュラさんにくすぐられて、それで、変な声が出て……!」

「くすぐる!? ミュラ様はどんな趣味をしていらっしゃるのか……」

「私がどうかしたのか?」

「えっ?」

「み、ミュラさん!?」

 突然のミュラの登場に食堂がざわつく。それに構うことなく、ミュラはハヤテの隣に腰掛けた。

「お、王子様……ご注文は、その……」

 びくびくとした様子で、ウェイターが駆け付けた。ミュラは「そうだな……」と呟く。

「オレンジジュースをいただこう」

「か、かしこまりました……」

 早足でウェイターは去っていく。その背中が厨房に消えるのを目で追ってから、ミュラはハヤテとコールに向き直った。

「ハヤテ、昨夜はありがとう。本当に久しぶりにゆっくりと寝られた。おかげで身体が軽い」

「それは良かったです。僕の方こそ、ありがとうございます……」

「ふふ」

「……えへへ」

 和やかな空気を出すふたりに、コールが遠慮がちに言う。

「あのう、わたくしはお邪魔でしょうか?」

「ああ、邪魔だ。席を変えろ」

「ミュラさん! そんな言い方したら駄目です! みんなで食べましょう?」

「ハヤテがそう言うなら仕方がない」

 注文した料理が運ばれてきたので、各々はそれを食べ始める。ミュラは眉をひそめてコールに訊いた。

「赤飯を食べるような良いことがあったのか?」

「え、いや、これはですね……ミュラ様がぐっすり眠れたお祝いです!」

「大袈裟だな……ハヤテはトースト一枚だけか? 足りるのか?」

「大丈夫ですよ。足ります」

「ハヤテは細いから心配だ。昨日、触ってみて改めてそう思った」

「さ、触るって……」

「ベッドの上で触っただろう? 腰も足も何もかもが細い」

「ミュラさん! 言い方!」

 慌てるハヤテを見て、ミュラはふっ、と笑った。そして、シャツのポケットから白い封筒を取り出してハヤテに手渡す。受け取ったハヤテは首を傾げた。

「手紙、ですか?」

「ああ、そうだ。本当は花を添えようと思ったが、時間が無くて出来なかった。次からはちゃんと用意しよう」

「は、はぁ……?」

 何が書かれているのだろう。疑問に思いながら、ハヤテは封を切ろうとした。だが、ミュラに制止される。

「目の前で読まれるのは照れくさい。私が居ない時に読んでくれ」

「え?」

 どういう意味ですか、とハヤテが聞く前に、背後から「王子様」と声がした。声の方を見ると、そこにはスーツ姿の警護の人間が三人立っていた。その三人、すべてがハヤテの顔を見るなり分かりやすく頬を染める。どうやら「目撃情報」の元はこの人たちらしい。気まずさを覚えたハヤテは三人から視線を逸らした。

「王子様、医師が健康状態を確認したいと申しております」

 ミュラは顔をしかめる。

「問題無いと伝えておけ」

「ですが……」

「見たら分かるだろう。私は元気だ」

「王子様……」

 困り顔の警護の男性を見て、ハヤテは助け舟を出した。

「ミュラさん、一応、診てもらった方が良いです」

「ハヤテまで、そんなことを言う……」

「みんな、ミュラさんのことが心配なんですよ……僕も心配です」

 ハヤテの言葉に、ミュラは小さく息を吐いた。

「……分かった。行ってくる」

 そう言って、ミュラは一気にオレンジジュースを飲み干した。

「ではハヤテ、また」

「はい」

 ハヤテの頭を撫でてから、ミュラは立ち上がり、警備の者たちと共に食堂から出て行った。全員を見送ってから、コールがぼそりと呟く。

「本当に何も無かったんですか?」

「変なことはしていません!」

「急に距離感が縮まっているじゃないですか?」

「……内緒です」

 そう言いながら、ハヤテは封筒から便箋を取り出した。もしかしたら……ラブレターかもしれない。そう考えるとハヤテの心は踊る。どきどきしながら畳まれた便箋を開くと、コールもそれを覗き込む。そこには美しい筆跡で「ハヤテへ。今夜も歌ってほしい。ミュラ」と綴られていた。

「……直接、おっしゃれば済む話では?」

「……ええ」

 どうして手紙という形にしたのだろう。ハヤテはそう思いながらも、その手紙をそっと胸に抱いた。大切な宝物として、ずっとしまっておこうと思う。手紙からミュラのぬくもりが伝わるような気がして、ハヤテの心はあたたかくなった。

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