第10話 変わり者たち

 ふたりは五分ほど歩き、青い建物の前で立ち止まった。ハヤテはその建物を見上げる。そこは二階建ての造りになっていて、見た目は青い色鉛筆のようだ。ドアの横には小さな植木鉢がひとつ置いてあって、そこからは黄色いチューリップのような花が植えられていた。

「入らないのですか?」

 ドアの前で立ったままのミュラにハヤテは訊ねる。ミュラは深呼吸をひとつして、ハヤテの方を見た。

「心の準備は良いか?」

「準備って……大丈夫です」

「……分かった」

 そう言って、ミュラはドアを三回ノックした。ハヤテは首を傾げる。

「カフェなんですよね? ノックしないと駄目なんですか?」

「言っただろう? ここの店主は変わり者だから……勝手に入ると怒るんだ。私も初めて入った時、ノックをしなかったから礼儀知らずめ、と怒られた」

「へ、へぇ……」

 しばらく待っていると、どかどかと大きな足音がドアに向かって近付いて来た。ハヤテは身構える。店主とは、いったいどのような人なのだろう。

 きい、とドアが中から開いた。

「ようこそ、今夜の晩御飯ちゃん」

「ひえっ!」

 ハヤテは思わずミュラにしがみついた。何故なら、ドアを開けた人物が鋭い包丁を手にしていたからだ。身につけているエプロンは赤黒く染まり、顔にも鮮血のようなものがべったりとついている。まるで殺人鬼のような風貌の男性は、ミュラの顔を見て目を丸くした。

「ミューロじゃないか! 何してんだよ、こんなところで!」

「……相変わらずのようだな、ベニ……」

 ベニと呼ばれた男性は、ミュラの顔を覗き込んで、目元を指差す。

「顔色悪いぞ? こっちは心配してたんだからな!」

「心配? 何故?」

「だってお前、体調が悪いって……」

 ミュラは怪訝そうな顔でベニに言った。

「そんなこと、言ったか?」

「え? ああ、言ってたぞ! 前に会った時に!」

「覚えていないな」

「お前は酔ってたから覚えてないんだよ!」

「ここで酒は飲んでいないが」

「なら、コーヒーで酔ったんだな!」

 ベニは包丁を軽く振りながらハヤテの方を見る。その目は少し垂れていて、瞳は淡い緑色だった。

「そっちの子は誰だ? どこかで攫って来たのか?」

「攫ってなどいない……彼はハヤテ。私のもとに舞い降りた天使だ」

「ほう、天使ね……確かに美しいな」

 ふたりの視線を受けてハヤテは縮こまる。様子から見て、ミュラとベニは親しいようだ。彼も、芸術家なのだろうか。ハヤテはぺこりと頭を下げる。

「初めまして、ハヤテと言います……天使ではないです」

「おう、俺はベニ! よろしくな」

 まぁ入れよ、とベニに促され、ハヤテとミュラは店内に入った。ベニは二階にまで届きそうなくらいの大声で叫ぶ。

「ミューロと、その連れの天使ちゃんご来店でーす!」

 店内がざわつく。それほど広くはない店内は十名ほどの客で賑わっていた。カウンターの奥には白髪で黒いエプロンをした年配の男性がフライパンを握っていて、おそらくこの人が店主なのだろうとハヤテは思った。ミュラが言うような、変わり者には見えない。

「ミューロ、久しぶりだね」

「ああ、久しぶりだな」

 空いていたカウンター席にハヤテとミュラは座った。フライパンを握りながら、店主が笑顔を見せる。

「そちらの方は初めましてだね。私はこの店のマスター、ゾフです。よろしく」

「ハヤテと言います。初めまして、よろしくお願いします」

 ゾフが手を差し出してきたので、ハヤテはそれを握ろうとした。だが、それはミュラの手によって阻止されてしまう。

「ハヤテに触れるのは許さない」

 ミュラはハヤテの肩を抱き寄せ、まるで威嚇をするような表情でゾフを睨む。ゾフは、口元を緩めながら言った。

「おやおや……そう警戒しなくても、すぐには脱がしたりしないよ」

「……脱がす?」

 不思議そうにハヤテはゾフを見つめる。ゾフはフライパンから手を離し、そんなハヤテをうっとりするような目で見つめた。

「ああ、その表情、たまらない!」

「うわ!」

 いきなりカウンターに突っ伏したゾフを見て、ハヤテは身体を後ろにのけ反らせた。ゾフは早口で捲し立てる。

「君のような無垢な人を見ているとね! 私は喜びに震えるのだよ! その服の下まですべてを見て、味わいたい! 本当に食べるのではなく目で味わうのさ、分かるかい? ああ、最高に君は私の作品に向いている! この後、私のスタジオに来てくれないだろうか? ファインダー越しに見る君の肌はどんな味がするのだろうね? ああ、想像しただけで涎が……」

「それ以上ハヤテに馬鹿なことを言うようなら、貴様のスタジオを破壊してやる」

 ミュラが冷たく言い放つ。ハヤテは少し引き気味に、口を開いた。

「ゾフさんは、写真を撮る人なんですか?」

「そうなのだよ! 裸体専門のね! 興味があるなら名刺代わりに写真集をあげよう! ああ、でも未成年には渡せないな、私の作品には年齢制限があるからね。うちの店のスパイスカレーよりも刺激が強いんだ」

「未成年であろうがなかろうが、その写真集をハヤテが手に取ることは無い」

 ミュラはカウンターに肘をつき、ふんと鼻を鳴らした。ハヤテは引きつった顔を両手で押さえる。やはり、この店主は変わり者だ。

「そう怒らないでくれたまえ」

「怒ってはいない。呆れているんだ」

「もしかして、君を被写体にしなかったことを拗ねているのかな? すまないね、私は筋肉の少ない華奢な身体が好きなんだ」

「ハヤテ、やっぱり帰ろう。ここはハヤテの教育に悪い」

「そう言いなさんな! もうすぐ良いもん食わせてやるからよ!」

 そう言ったのは、一番奥のテーブルの上で包丁を振り回しているベニだった。彼は豪快な動作で、テーブルの上の……三十センチほどの赤い魚を解体している。異様な光景だが、ここの客たちには普通のことのようで、誰ひとりと気にする様子も無く、それぞれが自分の時間を過ごしていた。

「見てくれ! この内臓! なんて綺麗な形をしているんだろう……!」

「ハヤテ、見なくても良い」

 ミュラは両手でハヤテの目を覆った。ハヤテの耳に、ベニの楽しそうな声が届く。

「お魚ちゃん、可愛いねぇ……ああ、インスピレーションが止まらねぇ!」

「……ベニさんは、魚を使って創作しているのですか?」

「違うぞ! 俺は風景画を描いてる。だが、なかなか筆が進まない時もある。そういう時は、こうやっていろんなものを分解するんだ! そうすると頭がさっぱりする!」

「なるほど……」

「そこに……カウンターの奥に掛かってる絵、俺が描いたやつだから見てくれよ!」

 顔を動かして、ハヤテはミュラの手の隙間からカウンターの奥を見た。そこには美しい、写真と見間違うほどリアルに描かれた海の絵が額装されて飾られている。今にも動き出しそうな砂浜に到達しそうな波、熱が伝わってきそうな反射して輝く日光、グラデーションになっている空の青さ……とても繊細な世界がキャンバスの中に広がっていた。

「ミューロ、最近描いてるか?」

 ベニの問いかけに、ミュラは首を横に振る。

「最近は忙しくてな、なかなかアトリエに篭れない」

「えっ、み、ミューロさんアトリエがあるんですか?」

 小声でそう訊いたハヤテに、ミュラもまた小声で返す。

「物置部屋を一部屋もらってな……絵の具のにおいが不評で、誰も寄りつかないのだが」

 ハヤテはそのアトリエについて興味を持った。頼めば中に入る許可をもらえるだろうか。ミュラの描く絵についても気になる。元恋人たちには絵を贈ってフラれてしまったと言っていたが……ミュラに描いてもらえるのなら、モデルになってみたいとハヤテは思う。

「忙しいのは分かるが、本当に体調には気を付けろよ? お前が倒れたら皆が心配する」

「体調って……別に私は身体を壊してはいない……」

 ミュラが口を開いたその時、きい、とドアの開く音が店内に響いた。その場に居た全員がそちらを見る。そこには、光沢のある黒いロングドレスを身に纏った長髪の人物が俯いて立っていた。

「お客さん! 困るよ!」

 ゾフはカウンターを飛び出してその人物に駆け寄る。

「いつもいつもルールを破って! 前も、その前も説明しただろう? この店はノック無しで入っちゃ駄目なんだよ、リンゴのおばあちゃん!」

 ハヤテは「リンゴのおばあちゃん」と呼ばれたその人をちらりと見る。その人物は長いぼさぼさの白髪をだらりと垂らしている。髪で隠れて目元は見えないが、顕になっている口元は血色が悪い紫色だ。左腕にはリンゴが大量に入った籠を提げていて、その出立ちはお伽話に出てくる悪役の魔女のようだ。

 老婆は店内を見渡し、ミュラの姿を見つけると、にたあ……と気味の悪い笑みを浮かべた。ハヤテはぞっとする。

「お兄さん、リンゴは、リンゴはいらんかね?」

 制止するゾフを押しのけて、老婆はミュラに向かってリンゴを差し出した。ミュラは困ったように眉を下げて老婆に言う。

「ご婦人、前にも贈り物をいただいたね……飴だったかな? 今日はリンゴをくれるのか?」

「リンゴ、食べておくれ。さあ、今すぐに」

 老婆はミュラにリンゴを握らせ、じっとその場で固まった。ミュラは苦笑する。

「ありがとう。だが、食べるのは城……家に帰ってからにするよ。夕食のデザートにさせてもらおう」

「……」

「ご婦人? どうされたのかな?」

「……」

 老婆は何も言わない。ただじっと黙ってミュラを見ている。ハヤテは嫌な予感に襲われた。本当に、この老婆は悪い魔女なのではないか、と全身に緊張が走る。

「ミューロさん、それ、僕が預かりますよ」

 そう言ってミュラが持つリンゴに手を伸ばしたハヤテに、老婆が強い口調で怒鳴った。

「部外者は触るな!」

「っ!?」

 ハヤテは驚く。その老婆から発せられた声は、とても太い男性のような声だったからだ。

「ハヤテ! そいつに近付くな!」

 ミュラはハヤテを庇うように立ち上がる。

「お前、まさか……」

「っ!」

 老婆は店から出ようとドアに向かう。だが、そこにはゾフが両手を広げて逃すまいとガードをしていた。

「加勢するぜ!」

 ベニも包丁の切先を老婆に向ける。追い込まれた老婆は、何やら呪文のような言葉をぶつぶつと呟き出した。魔術で逃げるつもりなのだろうか。もしかしたら、攻撃を仕掛けようとしているのかもしれない。自分も何かしなくては……ハヤテの目にミュラが握っているリンゴが飛び込んできた。ハヤテはそれをさっと奪い、力強く握った。

「逃がさない!」

 そう叫んでハヤテは力任せにそれを老婆に投げつけた。

「ぐはっ!?」

 リンゴは真っ直ぐに飛び、老婆のこめかみに直撃した。老婆はその場に崩れ落ちる。

「確保だ! 確保!」

 ベニの言葉を合図に、店内に居た客たちが一斉に動く。老婆は床に倒され、両手を客の誰かのベルトで背面で拘束された。

「っ、離せ! 無礼者どもめ!」

「無礼者はどっちだクソババァ!」

 最後の仕上げとでも言うように、ベニが老婆の背中に座った。その重みで老婆は苦しそうに「ぐえっ」と悲鳴を上げる。

「ハヤテ! 大丈夫か? 怖い思いをさせたな?」

「いえ、大丈夫です。それより……」

 ハヤテは床の上で呻く老婆を見ながら言った。

「この人とお知り合いなんですか? 前に飴を貰ったって……」

「ああ、前に一度会っただけだが……いつぶりだろうな。三ヶ月前、いや、もっと前かもしれない」

「半年前だ! この能無し王子!」

 老婆は顔を上げてミュラを睨み付ける。

「せっかく渡した飴をいつまでも食べないでよくも放置してくれたな! あれを作るのにどれだけ苦労したと思っている!」

「手作りだったのか……? ちゃんとした包みが使われていたのに」

「俺が手を抜いたことをすると思うか! この馬鹿王子め!」

 ずっとミュラのことを「王子」と言っている老婆をハヤテは不審に思った。この人はミュラの正体を知っているに違いない。そして、王子と分かっていながら何らかの危害を加えようとしていた。これは、重罪ではないのだろうか。

「やはり、お前、いや、あなたは……」

 ミュラは眉を下げて息を吐く。

「隣国の王子……トニー……」

「王子?」

「隣国のだって!?」

 ざわざわと店内が騒がしくなる。ミュラは頭を押さえながら、老婆の姿の「王子」を指差し、短い呪文のような言葉を唱えた。すると、老婆の身体は白い煙に包まれ、あっという間に男性の姿に変化した。

「トニー王子、今日はどうしてこのカフェに?」

 冷静に言葉を紡ぐミュラのことを、トニーは赤い瞳で睨みつけた。

「どうしてだと? ああ、教えてやる! 今日こそはそのいけすかないお前の顔を苦痛に歪めてやろうと思ったんだよ!」

「このおばあちゃん、よくこのカフェに来ていたぜ! いつもノックしないで入ってきて、ゾフが怒ってた」

「庶民が私のことをおばあちゃんなどと気安く呼ぶな! そしていつまで俺の上に乗っているつもりだ! 無礼者!」

「……拘束を解いてやってくれ、ベニ」

「ええ? でも……」

「その方は王子だ。無礼には扱えない」

「お前がそう言うなら……」

 拘束が解かれ自由になったトニーは、勝ってもいないのに勝ち誇ったような顔でミュラに言う。

「こんな薄汚い店に薄汚いお友達とたむろしているなんて、やはりお前は無能な王子だな!」

「……私の友人のことを悪く言うのは止めていただきたい」

「おっと、お怒りか? 寝不足で頭が上手く回らないんだな、可哀想に」

「……寝不足?」

 ハヤテは首を傾げる。新聞には「王子様はお疲れのご様子」と書かれたとコールが言っていた。寝不足なのが分かっていたのなら、そのことを見出しにするのではないだろうか。

「どうして、ミュラさんが寝不足だって知っているんですか?」

「何?」

 ミュラがすっと目を細める。

「確かに私はここ最近、よく眠れていませんが……そうだ、あの飴を食べた時期あたりから調子が悪いな……トニー王子、何かご存知なのですね?」

「お、俺は何も知らない……飴なんて、知らない……」

「飴を渡したと、確かに聞きました」

 そう断言するハヤテに、トニーは勢い良く怒鳴りつける。

「ガキは黙ってろ! 俺は何も言っていない!」

「ハヤテにそのような態度を取るのは許さない!」

 トニーよりも強い口調でミュラが叫んだ。ハヤテはその迫力に驚き思わず息を呑む。こんなに感情を爆発させたミュラを見るのは初めてだった。

「吐いていただきましょう、トニー王子」

「……っ」

「それとも、また拘束される道をお選びになりますか?」

 ミュラの言葉を聞いて、店内の客たちが姿勢を正す。逃げ道は無いと悟ったトニーは、がくりと項垂れた。

「……あの飴は、いろんな薬草を混ぜて作ったんだよ」

「薬草?」

「苦味が出ないように甘く煮詰めて……」

「どうして、そんな真似をしたのです? 王子が一服盛るなど、聞いたことがない」

「それは、お前が南の国の姫君と見合いをするという話を聞いて……」

「見合い? ああ、あの話なら断りましたが?」

「な、何? 断っただと!?」

 トニーは驚愕の表情を見せる。

「あの姫君との縁談を蹴ったのか!? お前は本当に馬鹿だな!?」

「馬鹿で結構。私には私の結婚観がありますので」

 ミュラの言葉に、トニーは拳をわなわなと震わせた。

「俺はな、あの姫君をずっと狙っていたんだ! それなのに、お前は簡単に姫君を奪おうとした」

「していません」

「黙れ! ああ、姫君はきっと心を痛めておられるに違いない……こんな馬鹿な男にフラれてしまうなんて……」

「……結局のところ、私があの姫君と結婚しようがしまいが、あなたの気は晴れないのですね」

 ミュラが呆れたように言う。ハヤテも心の中でため息を吐いた。馬鹿なのはトニーの方だと思う。コールは隣国の王子はミュラよりも歳上だと言っていた。だが、ハヤテの目にはトニーの方が幼く見える。

「それで、どうやったら飴の効果は消えるんだよ?」

 ベニが腕を組みながら言う。

「解毒剤みたいなの、持ってんだろ? さっさと渡せ」

「……そんなものは無い」

「はぁ? 無いなんて、無いだろ?」

 もう一回縛るか、と腕まくりをしたベニを見て、怯えたようにトニーが縮こまる。

「本当だ! あの薬草には睡眠を妨害する作用があって、それを大量に使ったから……たぶん、効果が消えるのには時間がかかると思う」

 そう言うトニーの顔は真っ青で、とても嘘を言っているようには見えなかった。

 ミュラは息を吐く。

「……分かりました。飴の件は、こちらで詳しく調べることにしましょう……今日はちゃんとパスポートを持ってこの国に来られたのですか?」

「それは……」

「言えないような方法で来られたのですね。では、その件についても、詳しく取り調べることにいたしましょう……少々お待ちを」

 そう言って、ミュラは大股で店のドアに向かい、それを勢い良く開けた。そして、街中に響き渡るような声で叫ぶ。

「狙撃班、下がれ! 警護班、トニー王子を然るべき場所にご案内しろ!」

 狙撃? どういうことだろうかと、ハヤテは窓から外の様子を見た。

「っ!?」

 ハヤテは驚く。目に入っただけで、二十以上の銃口が、向かいの建物や通りからこちらに向けられていたのだ。いったい、いつの間に……そう思っている間に、黒いスーツ姿のがたいの良い男性が十人ほど店内に流れ込んで来た。狭い空間が、ぎゅうぎゅう詰め状態になる。

「トニー王子、確保!」

「車に乗っていただきます!」

「持ち物を回収しろ!」

 男たちはてきぱきと動き、トニーと床に転がっていた多数のリンゴを回収して、店を後にした。

「は、はぁ……」

 緊張が解けて、ハヤテは椅子にへなへなと座る。その肩を、ベニが軽く叩いた。

「大丈夫か? 天使ちゃん」

「つ、疲れました……すごく……」

「俺もさすがに疲れたな。まさか、こんなことが起こる日が来るなんて」

 ベニはハヤテの隣に腰掛けた。

「王子様と関わってるからには、ヤバい状況に遭遇するかもしれないと覚悟はしてたけどな。いざってなると……何とも言えん」

「……あの、ベニさんは、その……ミューロさんの正体に、ずっと気付いていたんですか?」

「気付くに決まってるだろ? あんなの変装にもなってない」

 ベニは眉を下げて、店の外でスーツ姿の男たちに指示を出すミュラを見ながら笑う。

「初めて会った時は驚いたぜ。テレビや新聞で見た顔が、まさかこんなところに現れるなんて夢にも思ってねぇから」

「そうですよね……」

「王子様の気まぐれでやって来たのかと思ったが、あいつは自分も芸術が好きだって言って、偽名まで使って俺らと交流しようとした。どうやら本気で何かをしようとしているって情熱が伝わって来たんだ。それで、俺たちは相談した。この街では、あいつを王子様として見るのではなく、ただの芸術家の男、ミューロとして接しようって決めた」

「俺たちって……他の人もミューロさん……ミュラさんの正体を知っているんですね?」

「ああ、知ってる。あいつは芸術家だけでなく、この街の多くの人たちと積極的に関わろうと動いていたからな。今では、この街の皆に愛されるミューロ様ってわけだ」

「おふたりさん、コーヒーはいかがかな?」

 カウンターに戻ってきたゾフがカップを手に持って訊ねた。その額にはじんわりと汗が滲んでいて、彼の緊張を表していた。

「ミューロ、やっぱり体調を崩していたんだね」

 ゾフの言葉にハヤテは頷く。

「はい、ぐっすり眠れない日が続いているんです」

「君は、ミューロと付き合いは長いの? 警護の人には見えないし……新しい世話係さん?」

「何言ってんだよゾフ。そんなわけ無いだろ?」

 ベニはカウンターに肘をつきながらハヤテを見て言う。

「恋人に決まってんだろ。な、天使ちゃん」

「えっ!?」

 ハヤテは裏返った声をこぼす。恋人なんて、ありえない。そもそも自分は男なので、ミュラの恋人にはなれない。まさか、ベニは自分のことを女性と間違えているのではないか。ハヤテは不安げに口を開いた。

「あの、僕は男ですよ?」

「そんなの、見たら分かるぜ?」

「……男同士なのに、恋人にはなれないでしょう?」

 その言葉を聞いて、ベニは目を丸くした。

「あれ? 天使ちゃんは外国の人?」

 どきっとハヤテの胸が鳴る。自分は異世界から来ました、なんて大っぴらに言って良いことなのか分からない。迷ったハヤテは、固い表情で頷いた。

「まぁ、そんな感じです」

「へぇ、こっちの言葉が上手いなぁ。ま、良いか。天使ちゃん、教えておいてやるが、この国では同性で付き合ったり結婚したりは当たり前なんだぜ?」

 ハヤテは驚く。そんな話は初耳だった。

「そうなのですね……とても良いことだと思います」

「そうだな。好きになるのには性別なんて関係無いし、男でも女でも自由に恋をすれば良い」

 ハヤテはふと、ミュラのことが気になった。ミュラの今までの発言から、恋人が何人か居たことは分かっている。だが、男と女のどちらと付き合っていたのだろう。ベニは知っているのだろうか。ハヤテは、どきどきしながらベニに訊ねた。

「ミュラさんの恋愛対象って、男性なのか女性なのかご存知ですか?」

「ん? ああ」

 ベニは軽く答える。

「あいつ、両方好きなんだよな。でも、すぐ惚れてすぐフラれる」

「えっ」

「イケメンだし、悪い奴じゃねぇし、王子様だし、最高のものを持ってるが……あいつ、ちょっと変わり者だろ? 愛を伝えるために作品を贈ってはフラれてる。恋人にプレゼントするなら、もっと価値のあるもんにしろって思うんだが……王子様が描いた絵だから、まるっきり価値が無いとも言えないかもしれんが」

「私は、ミューロの絵が好きだよ」

 コーヒーの入ったカップをカウンターに置きながらゾフが言う。

「あの宇宙みたいな世界観は嫌いではない」

「あいつは人物画が専門だろ? 宇宙に見えたらマズい」

「だが、あのカオスを表現するのには、宇宙という言葉が一番しっくりくる」

 いったいどんな絵を描いているのだろう。ますますハヤテはミュラのアトリエに入りたくなった。

「天使ちゃんはどう思う? あいつの作品、見たことあるだろ?」

 そう訊ねられて、ハヤテは首を横に振った。

「僕はまだ、見たことがありません」

「ええっ!? 恋人なのに、一度も無いのか?」

「だから、僕は恋人では無いんです……」

「でも、ミューロは君に随分とお熱のようだけれどね」

 ゾフは口元を緩める。

「君を見つめるミューロの目は良いなぁ……思わずシャッターを切りたくなったよ。熱を持っている瞳……良いねぇ……やっぱり今度、私のスタジオに来てくれないか? 睦み合う君たちをフィルムに収めてみたくなったよ。もちろん、全裸でね」

「変態は黙ってろ。友人の情事なんて誰が見たいんだよ」

「情事が見たいんじゃない。裸体が見たいんだ。君だっていつも魚を丸裸にしては喜んでいるじゃないか」

「変な言い方するなって。天使ちゃんに誤解されるだろ」

「あの、ジョウジって何ですか?」

「え?」

「な……」

 澄んだ瞳でこちらを見つめるハヤテに、ベニとゾフは顔を見合わせた。

「ああ、今の若者はこんな言葉を使わないかもしれないね……」

「そうだな……天使ちゃん、お耳を拝借」

 ベニはハヤテの耳元で、声を落として言う。

「セックスのことだよ」

「な……!?」

 ハヤテは顔を真っ赤にして飛びのいた。

「な、な……!」

「天使ちゃんは心まで天使なんだな」

 コーヒーを啜りながらそう言うベニにと、うんうんと頷いているゾフに向かって、ハヤテは恥ずかしさで震える声で言った。

「おっ、男同士でそんなこと出来ません!」

「出来るよ」

「出来るさ」

「え……?」

 固まるハヤテの左右の肩を、ベニとゾフがぽんと叩く。

「まぁ、ミューロに任せれば大丈夫だよ」

「そうだな、あいつ絵はカオスだけど器用だし」

「任せる……器用って……」

 ハヤテは、頭のてっぺんから煙が出そうなくらい真っ赤になる。こんな状態では、まともにミュラの顔を見ることが出来ない……と思っていたハヤテの元に、ミュラが早足で駆け付けて来た。

「こら! そこのふたり! ハヤテに触れるんじゃない!」

「おお、怖い」

「まるで騎士だな」

 ベニとゾフはさっとハヤテの肩から手を退けて、両手を背中に回して姿勢を正した。

 ミュラはハヤテの頬に触れながら言う。

「ハヤテ、怖い思いをさせてしまって本当にすまない……」

「いえ、ミュラさんが無事で良かったです」

「ハヤテが助けてくれたからだ」

「僕は何もしていませんよ?」

「リンゴを投げて、奴を攻撃してくれたではないか」

「リンゴ……」

 ハヤテはそういえば、と思い出す。あの時は無我夢中だった。たいしたことはしていないと思うが、それが役に立ったのなら嬉しい。

 ベニもゾフも「あれは良い球だったな」と頷く。ハヤテは照れくさそうに頬を掻いた。

 ミュラはハヤテに申し訳なさそうに言う。

「……悪いがデートはここまでだ。帰って、しなければならないことが出来た」

「分かりました」

「……それから」

 ミュラはベニとゾフに向かって、俯き気味に言った。

「その……騙していたようで悪いのだが……私は……」

「おっと! らしくない話は止そうぜ!」

「そうだぞ、ミューロ。君は大切な我々の友人であり大切な仲間だ。それ以上でも以下でも無い」

「……ありがとう」

 ミュラは微笑む。その様子を見ていたハヤテは「友情って良いですね」と呟く。そんなハヤテにベニが笑いながら言った。

「何を他人事みたいに言ってんだよ、天使ちゃん。今日から天使ちゃんも俺らの友達だぜ?」

「え?」

 思いもよらない言葉に、ハヤテは目を丸くする。ゾフも笑顔で口を開いた。

「いつか一緒に芸術について語らおう。君にもぴったりな芸術が見つかるかもしれない」

「それなら、もう見つかっている」

 ミュラがハヤテの肩を抱きながら言った。

「ハヤテは、とても歌が上手いのだ。その方面の芸術家という名にふさわしい」

「へぇ、歌か……良いね。いつかこのカフェで……いや、街のコンサートホールで聴いてみたいものだ」

「天使ちゃんのステージ、今から楽しみにしてるぜ」

「待て! ハヤテの歌声はそんなに安くないぞ!?」

 ミュラはハヤテを抱き寄せる。ハヤテはどきどきしながら、されるがままになっていた。

「ハヤテの歌声は私だけに向けられていれば良い!」

「なんだ、メロメロじゃないか」

 ベニは小さく息を吐く。

「ほら、そろそろ帰れ。あの入り口でそわそわしてる人が可哀想だ」

「そわそわ?」

 ハヤテはそちらを見る。そこには、真っ青な顔をしたコールが立っていた。

「ああ……では、そろそろお暇しよう……皆、今日は騒がせてしまってすまない! 次に来た時は何かご馳走させてくれ!」

 ミュラの言葉に店内が明るくざわついた。その様子を見て、ハヤテの心はあたたかくなる。仲間と一緒に居るミュラは、いきいきとしていて、とても輝いている。素敵だ。いつまでも、その表情を見ていたい。ハヤテにそんな感情が芽生えた。

「ハヤテ、行こうか」

「はい」

 当然のようにハヤテの手を取ってミュラは歩き出す。ハヤテはその体温を逃さないように、繋いだ手をぎゅっと握り返した。

 

「ああ、ミュラ様! もう、どうしてこのような事態になったのか……」

「コール、落ち着け。話は城でたっぷり聞くから」

 車の助手席に座るコールの手は震えている。

「ミュラ様が早くに魔術で異常を知らせて下さったおかげで、狙撃班を素早く配置することが出来ました。しかし、まさか不審者が隣国の王子だとは……」

 コールが振り向いて後部座席のハヤテをミュラを見る。その目は赤く充血していた。

「ミュラさん、いつコールさんに魔術で伝えたんですか?」

 ハヤテの問いに、ミュラは腕を組みながら答える。

「リンゴを手渡された時だ。あのリンゴからは僅かに魔術の気配があった。きっとトニーが完全に消し去れなかった微量の魔術だ。そんなものを渡してくる奴は、誰だって警戒する……飴のからくりには驚いたな。魔術ではなく薬草か……気付かずに食べてしまった」

「知らない人からお菓子を貰っても勝手に食べてはいけないと、あれほど教えておいたのに!」

 叫ぶコールに、ミュラは「いつの話だ」と頭を掻く。

「そこらで売っているような飴だったから、油断してしまった私が悪いのには違い無い」

「あの……ミュラさん、睡眠障害は無事に治るのでしょうか? 心配です。僕、薬草なんて知らないし……僕の歌は、たぶん役に立たない気がします」

「ハヤテ、ハヤテは何も気にしなくて良い」

 ミュラは優しく微笑む。

「トニーを吐かせて薬草の種類を分析すれば、きっと解決策が生まれるだろう。だが……」

 ミュラはハヤテの頭を撫でながら言う。

「毎晩、歌うことは続けてほしい」

「え?」

 ハヤテは首を傾げる。解決策があるのなら、もう自分の子守唄は必要ないと思ったのだ。

「ハヤテは私のために歌うのは嫌か?」

「め、めっそうも無い! 歌いたいです、歌わせて下さい!」

 ハヤテの言葉にミュラは微笑む。

「ずっと聴かせてほしい。私のために、ずっと……」

「っ……」

 とろけるような熱い言葉を聞いて、ハヤテは頬を赤く染める。ミュラは車が城に到着するまでの間、ずっと楽しそうにハヤテの顔を見つめていた。

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