第8話 愛のかたち

 喉が、渇いた。ハヤテはグラスを手に取ろうとするが、テーブルの上にはグラスも、分厚いステーキも無い。誰かが片付けたのだろうか。

「ハヤテ」

 隣に居たミュラが微笑みかける。彼はその大きな手を、ハヤテの額に当てた。冷たい手だった。

「ハヤテ」

 返事をしようと思うのに、上手く声が出せない。ああ、ワインを飲んで、喉が熱くなって……そうだ、自分は夕食会に参加していたのだ。けれど、目の前には国王も王妃も居ない。居るのは、ミュラだけだ。

「ハヤテ」

 はい、ミュラさん。

 言いたいのに、言えない。どうしたのだろう。まるで、不思議な夢を見ているかのようだ。夢? ああ、そうか……。

 ハヤテは、額に添えられた手に、そっと触れた。

「ハヤテ!」

「っ……!」

 ハヤテが目を開けると、青い瞳が飛び込んできた。ミュラだ。ミュラに顔を覗き込まれている。彼は「良かった……」と眉を下げてハヤテの頬を両手で包む。

「ハヤテ、無理をさせたんだな……すまない。配慮が足りなかった」

「配慮?」

 ミュラは何を言っているのだろう。状況が把握出来ていないハヤテは、首を動かして周りを見渡す。どうやら自分は自室にいるらしい。頭の下が柔らかい。これは枕の感触だとハヤテは理解した。今、自分はベッドの上で寝転んでいる。

 何日も眠っていないミュラを差し置いて、自分はぐうすかと寝ていたのか。ハヤテは慌てて起きあがろうとした。だが、すぐにベッドの傍らで膝をつくミュラによって阻止されてしまう。

「ハヤテ、今、ハヤテの身体の中には許容の量を超えたワインが入っているんだ。急に動いてはいけない」

「え? ワイン……?」

「気を使って飲んでくれたのだろう? 私はハヤテが酒を飲める年齢と分かって嬉しくなって……勝手に用意してしまったんだ。先にハヤテに飲めるか訊いておくべきだった。本当にすまない」

 ハヤテはぼんやりと思い出す。そういえば、気分が悪くなったのはワインを飲んだ後だ。それでは、自分は酔って倒れて……ミュラに迷惑をかけてしまったということか。ハヤテは今度こそ上半身を起こす。それだけの動作でも、頭がずきりと痛んだ。

「ミュラさん、謝らないで下さい。僕が勝手に……飲めるかどうかも分からないのに、飲んでしまっただけなので……ごめんなさい」

「ハヤテは悪くない。体質がアルコールと相性が悪いのだな」

 そう言ってミュラは立ち上がった。

「待っていてくれ。水を持ってこよう。医者が水分を取らせた方が良いと言っていた」

「あ、自分でしますから……」

「駄目だ。大人しくそこで待っていること」

 そう言い残して、ミュラは部屋から出ていった。ハヤテはため息を吐く。頑張ろうと決心した矢先にこれだ。こんな調子で迷惑をかけていては、これからが思いやられる。ハヤテが頭を抱えたその時、部屋の扉がきい、と控えめに開く音がした。ミュラだろうか。それにしては戻ってくるのが早い。こちらに向かってくる靴音も、ミュラのものでは無いようだ。ハヤテは不思議に思い、ふらつく身体を起こしてベッドから降りようとした。その時。

「あら、駄目よ。無理に起き上がっては」

「っ……王妃様!」

 ハヤテの目の前に現れたのは、王妃だった。王妃は手に洗面器のような桶を持っている。

 王妃は後ろに立つ従者に向かって言った。

「しばらく下がっていなさい……タオルをこちらに寄越して」

「はっ!」

 タオルを手渡した従者が出ていくのを確認した王妃は、ドレスの裾が絨毯に付くのを気にしない様子でベッドの傍らで膝をついた。

「横になって」

「えっ、ですが……」

 王妃の前でベッドで寝るのは、あまりにも失礼だろう。

 戸惑うハヤテの肩を、王妃がそっと撫でる。

「王妃の命令よ。寝転んで、楽になさい」

「は、はい……」

 おそるおそる、ハヤテはベッドに身体を横たえた。鋭く青い瞳がハヤテを見つめている。それだけで緊張が全身に走った。

「……」

 王妃は何も言わず、桶を絨毯の上に置いた。桶の中には透明な液体が入っている。王妃はそこに、従者から受け取ったタオルを浸してから、ぎゅっと絞った。その絞ったタオルをハヤテに近づける。

「……っ」

 ますます身体を硬くするハヤテを見て、王妃は少しだけ口元を緩めた。

「水で冷やした、ただのタオルよ。そんなに怖がらくてもよろしい」

「タオル……」

「動かないでね」

 そう言って、王妃はハヤテの額の上にタオルをそっと置いた。冷たい心地よさが身体に染み渡る。思わずハヤテは「ふ……」と息を吐いた。

「王妃様、ありがとうございます」

「気にしなくても良いの。こういうことをするのには慣れているから……ミュラが幼い頃に、たくさんしていたのよ」

「え? ミュラさんに?」

 驚くハヤテに、王妃は「ええ」と頷く。

「あの子はね、昔はとっても小さくて、身体が弱くて熱ばかり出していたの……今ではあんなに大きくなってしまったけれど」

「あのミュラさんがですか?」

 ミュラは背が高く、筋肉も程よくついていて、とても健康体に見える。子供の頃に、身体が弱かったとは、とても思えなかった。

 王妃は昔を懐かしむように、目を細めた。

「私はなかなか子供を宿すことが出来なくて……あの子が無事に生まれた時は神に感謝したわ。そんなの信じたことも無いのに、勝手よね」

 王妃は手を伸ばし、ハヤテの髪に触れた。その手は白くて小さい、とても儚げなものに見える。

「ごめんなさいね。私が勧めたから、無理をしてワインを飲んだのでしょう?」

「そんな! 王妃様は悪くありません! ですから僕に謝ったりしないで下さい!」

「いいえ。グラスに注ぐ前にあなたに訊くべきだったの。こちら側の落ち度です。あんな場で勧められたら、飲まないわけにはいかなかったでしょう。あなたは食事に手をつけられないくらい緊張していた様子だったし、もっとこう……和やかな食事会になればよかったのに……途中で出て行った私が言えたことでは無いけれど……」

 王妃は悲しげに眉を下げる。

「……昔から私ってこうなの。本当はね、久しぶりの皆で揃う食事が楽しみだった。けれど……どうにも素直になれなくて……」

「どうして、国王様に……その、態度って言うか……」

「冷たくしてしまうのか、ね?」

「は、はい」

「だって、あの人……とても可愛らしいところがあるから」

「え?」

 ハヤテは驚く。てっきり国王のことが嫌いだから、きつい態度を取っているのだと思っていた。それとは真逆の真実に言葉を失ってしまう。

 王妃は、ほんの少しだけ頬を赤く染めながら口を開く。

「あの人、どこかぼやっとしているところがあるでしょう? どう表現すれば良いのかしら……見ていて放って置けない感じが、好きなの」

「は、はあ……」

「けれど、そう思っているってことを表に出すのが……恥ずかしくて、どうにも素直になれないの。心からあの人のことを愛しているのに、上手に振る舞えなくて」

「……」

 ツンデレだ。ハヤテは心の中でそう呟く。同時に、この家族はきっとちゃんと機能することが出来ると安心した。

「こんなことを僕が言うのは、とても差し出がましいかと思いますが……」

「何でも言ってちょうだい」

「王妃様は、今、僕におっしゃったことをそのまま、国王様にお話しされるのがよろしいと思います」

 王妃の顔が、かっと赤くなる。

「む、無理よ……! そんなこと、とてもじゃ無いけれど、恥ずかしすぎるわ……」

「国王様は、王妃様が何を考えているのかが、良く分からないとおっしゃっていました」

「あの人が、そんなことを……?」

「はい。あのご様子は……王妃様と、もっともっと仲良くしたいように見えました」

「仲良くって……私はあの人に、嫌われても仕方の無い態度を取ってきたのに」

 ハヤテは落ち込んでいた国王の様子を思い出す。もし、嫌いな相手ならあんなに悩みはしないだろう。王妃と同じように、国王もしっかりと愛情を持っているに違いない。

「直接、言葉にしなくても……手紙にするとか、花を贈るとか、方法はいろいろとあると思います」

「手紙に、花……そういえば、結婚する前にあの人からよくプレゼントしてもらったわ。字がとても下手なのよ、あの人。そこがまた可愛らしくて……」

 穏やかな表情を見せる王妃。ハヤテはその様子を見て胸を撫で下ろした。王妃はふっと微笑む。その顔は、どこかミュラに似ていた。

「あなたは、不思議な人ね」

「え?」

 首を傾げるハヤテに、王妃はハヤテの髪を撫でながら言う。

「初対面なのに、どうしてかしら……あなたには何でも話してしまうわ。こんなこと、誰にも相談したことが無いのに」

「王妃様……」

「あなたは、何でも包み込んでしまうような雰囲気なの。そう……ミュラが天使と比喩していたのにも頷けるわ」

「天使だなんて、恐れ多いです」 

「ふふ。あの子、私の部屋に飛び込んで来るなり言ったのよ? 天使が目の前に現れたって。私はてっきり、睡眠不足で頭がとうとうおかしくなったのだと思ったわ。でも違ったのね。ハヤテさん……ミュラのことをお願いね。こんなことを言うのは、子離れ出来ていないみたいで恥ずかしいけれど、私はあの子のことが心配なの」

 ああ、これが親が子に向ける愛情なのか。ハヤテには、王妃の心がとても眩しいものに思えた。

「……ご自分のお子さんのことを心配されるのは、当然のことだと思います」

「そういえば、ハヤテさん。あなたはこの世界に自ら留まりたいと言ったようだけど、本当に良いの? ご両親……特にお母様が心配されるでしょうに」

「……」

 ハヤテはぐっと息を呑んだ。喉の奥が痛くなって、上手く言葉が紡げなくなる。元の世界に、自分のことを心配して待っている人は居ない。本当の家族は居ない。そう言ってしまえば良いのだが、深い愛情を目の前にして自分のことを話すことは、とても辛く感じた。

「ハヤテさん?」

 黙ってしまったハヤテの顔を王妃が覗き込む。ミュラと同じ、青い瞳。ハヤテはそれを見て、どうしようもなくミュラに会いたくなった。

「ハヤテ、無理に話す必要は無い」

「っ……! ミュラ! いつからそこに居たの!?」

 王妃は立ち上がる。ハヤテも上半身を起こした。額のタオルがシーツの上に落ちる。

 いつの間に室内に入ってきたのか、ミュラは壁にもたれて腕を組んで難しい顔をしてこちらを見ていた。

「母上、ハヤテにはハヤテの事情があるのです。深く詮索するのは止めていただきたい」

「ミュラ! いつからそこに居たと聞いているのよ! 答えなさい!」

「母上、早くお部屋に戻って父上に手紙を書いて下さい。花を添えるのもお忘れなく」

「ああ……何ということ……」

 王妃は両手で顔を隠した。ミュラはその様子を見てため息を吐く。

「今後は、素直に父上とコミュニケーションを取って下さいね」

「もう止めて……」

 軽快なふたりのやり取りを見て、ハヤテの胸はちくりと痛む。そして、無意識に呟いた。

「……良いな」

「ハヤテ?」

 小さなハヤテの言葉を、ミュラは聞き逃さなかった。

「ハヤテ、どうした?」

「あ、いえ……家族って、良いなって」

 ハヤテは無理やり笑ってみせる。

「おふたりを見ていたら、とてもあたたかいなって思って。家族って、本当に……羨ましいな、って」

 そう言ってハヤテは俯いた。目の奥が熱くなって、涙がこぼれてしまいそうになる。もしも自分に本当の家族が居たら、こんなやり取りが出来たのだろうか。そう思うと、とても息をするのが苦しくなった。

 ふわりと頭にあたたかいものが乗った。ハヤテは顔を上げる。それは、ミュラの手のひらだった。ミュラはハヤテと視線を合わせて、ゆっくりと口を開いた。

「ハヤテはきっと、とても大きなものを抱えているのだな。それを人に話すのも話さないのも自由だ。だが、話して楽になることも、きっとある」

「ミュラさん……」

「私は最初、上手く眠れなくなったことを恥ずかしくて誰にも言えなかった。自分の力で解決しようと、ひとりで色々と模索して……気がつけば、心が壊れそうになっていた。もうどうしようもなくなって、初めて医者に相談したら、不思議と恥ずかしい気持ちは消えて、とても心が軽くなった」

「……はい」

「ハヤテ、私はまだまだ未熟者だ。しかし、君より少しだけ長く生きている。だから、頼ってくれて構わない。私だけでは無い。父にも母にも頼れば良い。大きなものをひとりで抱えるのはとても辛いだろう? ハヤテが言いたくなったらで良いから、いつでも話を聞かせてほしい」

 そう言って、ミュラはハヤテの頬に手を添えた。大きな手だ。この手に触れられると、とても心地が良い。ハヤテは、少し震える声でミュラに言った。

「……僕は、僕には……家族が居なくて」

「うん」

「両親とは子供の頃に死別していて……いろんな親戚に面倒を見てもらって生きてきたんですけど、みんな……特に叔母と上手くいかなくて……」

「うん」

「僕はいつだって厄介者で……だから、ずっと家族というものに憧れがあるんです。もう両親から愛情をもらえることは無いって分かっているのに……自分で家族を作る勇気も無いんです。僕みたいな、誰からも愛されていない奴が、他の誰かを大切に出来るなんて到底思えなくて……」

「そんなことは絶対に無い」

 ミュラが力強くハヤテに言う。その瞳は、真っ直ぐにハヤテを射抜いていた。

「ハヤテはちゃんと、愛を持って他人と接しているではないか」

「愛を持って?」

「そうだ。眠れぬ私の力になりたいと言ってくれた。愛が無ければ、そんなことは言えない」

「それは……役に立ちたかったからで……認められたら嬉しいな、って……」

「そんなこと、誰だって思うだろう。私だって立派な王子として認められるために、必死に仕事をこなしている。その結果、国が良くなれば嬉しいと思うし、また頑張ろうとも思える」

「でも、それとこれとは規模が違いすぎるかと……」

「規模なんか関係無い。何かをしていれば、自分の感情が入るのは当然のことだ。ハヤテ、私はあの時、とても嬉しかった。確かに私はハヤテの愛をこの胸に受け取っていたのだ」

 ミュラは振り返り、心配そうにこちらを見つめている王妃に向かって言った。

「母上も、ハヤテから愛を受け取ったでしょう? 母上の悩みを、ハヤテは真剣に聞いてくれたのではないですか?」

「え、ええ。そうね」

 王妃は深く頷く。

「私の話を嫌な顔ひとつせずに聞いてくれて、的確なアドバイスもくれたわ。確かに、愛が無ければ出来ないことね」

「王妃様……」

「ほら、分かっただろう?」

 ミュラは優しく目を細めた。

「ハヤテは、無意識にちゃんと他人を大切にして、愛を与えているんだ。だから、自信を持って生きていけば良い。いつか時期が来れば、きっとハヤテも家族を作れる」

「……ありがとう、ございます」

 ハヤテの目から涙がぽろりと溢れた。頬を伝うそれをミュラが親指で拭う。まるで慈愛に満ちた行為を受けて、ハヤテはどうしてだかもっと泣きたくなった。

「……ふふ。ハヤテさんとミュラ、どちらが先に自分の家族を作るのでしょうね」

 王妃の言葉に、ミュラは分かりやすく顔を顰めた。ハヤテは王妃の顔を見る。その表情は、どこか息子の成長を喜んでいるかのような明るいものだった。

「ミュラ、あなたにお見合いの話が出ているのは知っているわね?」

「知っています。ですが母上、今の私の恋人は仕事です」

「あら、仕事を愛しているの?」

「ええ、離れたくないくらいに愛していますとも」

 ミュラはむすっとした顔のまま、王妃の背中を押す。

「そろそろ本当にお部屋にお戻り下さい。これからは男同士、愛についてを語らう時間です」

「あらあら……ねえ、ハヤテさん」

「は、はい!」

 名前を呼ばれて、ハヤテは背筋を正す。王妃は、柔らかな表情でハヤテに言った。

「私とあなたは血が繋がっていないし、こんなことを言うのは本当のお母様に失礼だと思うのだけれど……寂しくなったら、いつでも私のことを母だと思って接してくれて構わないから、それだけは忘れないでね。私もあなたのことを、本当の息子だと思って見守っているわ」

「そんな、恐れ多いです……でも、嬉しいです」

「ふふ、それじゃ、お休みなさい。ミュラ、今日こそはぐっすり眠れますように」

 そう言い残し、王妃は部屋を後にした。しばらくの沈黙の後、ミュラは「ふう」と息を吐く。

「最近、顔を見れば結婚しろとうるさくて困る」

「お見合い、されるんですか?」

「まさか! もうコールには断っておくように伝えてある」

 そう言いながら、ミュラはベッドに腰掛けた。ふたり分の重さでベッドが軋んで音を立てる。

「適齢期だの、寂しい独り身だの……好き勝手に言われている」

「ミュラさん、恋人は居ないんですか? さっき、仕事が恋人だって……」

「ああ、居ない。もう何年も居ない」

「意外です。ミュラさん、格好良いから」

 ハヤテの言葉に、ミュラは「それはどうもありがとう」と少し不機嫌そうにくちびるを尖らせた。

「見た目ではなく、中身を見てほしいというのは贅沢だと思うか?」

「え? 中身ですか? 性格とか、趣味とか?」

「そう、それだ」

 ミュラはハヤテの肩を指でつつく。

「皆、私の外見で寄ってくるくせに、私の内面を見て立ち去ってしまう」

「どうしてですか?」

「実はな……」

 ミュラは声をひそめて、ハヤテの耳元で囁いた。

「こう見えて、私は芸術家なのだ」

「……ああ」

「なんだ、その薄い反応は」

「あ、いえ。コールさんがそんなことを言っていたなって、思い出して……」

「あいつか……私の口から言って、ハヤテを驚かそうとしていたのに」

 面白くなさそうにミュラは肩を落とす。その様子を見て、ハヤテは苦笑した。確か、コールはミュラは「芸術を愛している」と言っていた。だが、ミュラ自信が芸術家とは言ってはいない。これは、双方に食い違いがありそうだ。

「コールから聞いているのであれば、話は早い。ハヤテ、私は芸術の発展に力を入れた仕事をしている」

「はい、そう伺いました」

「だが、ただ机に向かっていても芸術を心から理解したとは言えない。そこでハヤテ、私は自ら芸術家となり、彼らの抱える苦悩をこの身で知ろうと考えた!」

「……何か、創作活動をされているのですね?」

「そうだ。一番得意なのは絵だ。私は今まで出来た恋人たちに、それぞれをモデルにした絵を贈っている」

「えっ」

「だが、だいたいそのタイミングで別れを切り出されるのだ。王子様が理解出来ないと言ってな……きっと、私の作品が肌に合わなかったのだろう。それまでは、格好良いだの綺麗だのと言っておだてていたくせに。いつだって皆、手のひらを返すのだ」

 いったい、どんな絵を贈ったのだろう。ハヤテは怖いながらも、少し興味を持った。

 ミュラは頬を緩めながらハヤテの顔を覗き込む。

「ハヤテはどうなのだ?」

「どうって言われても、困ります。今までに誰かとそういう関係になったことは無いので……」

「では、どんな性格が好みなのだ?」

「好み……気が合う人、ですかね……」

「無難な答えだな」

「だって、よく分からなくて」

「まぁ、好きになった人がタイプというのも悪くは無い。恋とは落ちるものだからな」

 そう言うと、ミュラはハヤテの頭をぽんぽんと撫でる。

「さて、良い子はもう寝る時間だ。水を飲んでからお休み」

「え、でも……」

 もう眠れと言われても、眠れないミュラを放って自分だけ寝るのは気が引ける。ハヤテはテーブルに置かれた水差しとグラスを取りに立ち上がったミュラの背中に声をかける。

「ミュラさんは、眠いですか?」

「うん? 私か?」

 ミュラはグラスに水を注ぎながら軽く答えた。

「いや、今夜も眠れそうに無い」

「なら……僕も起きています。ミュラさんをひとりで起こしておくなんて、出来ません」

「私のことは気にしなくて良い」

 ミュラは苦笑する。

「私は映画でも観て過ごすから、あっという間に朝になる。もしかしたら、数分くらいうたた寝するかもしれないし、平気だ」

「でも……」

「ハヤテの優しい心はちゃんと受け取っているから、大丈夫だ」

 ミュラはハヤテにグラスを差し出す。ハヤテはそれを受け取ると、その水を飲んだ。喉がゆっくりと冷えて、身体が少し楽になる。ほっと息を吐くハヤテに、ミュラが身を屈めて言った。

「なんなら、私が添い寝をしてハヤテを寝かしつけても良いが?」

「ぐふっ!」

 飲んでいた水を喉に詰まらせてハヤテは咳き込む。その背中をミュラは慌ててさすった。ハヤテは涙目になってミュラに抗議する。

「突然、からかうのは止めて下さい!」

「すまない、すまない……ハヤテは反応が新鮮で良いな」

 楽しそうにミュラは笑う。そして、ハヤテの髪をそっと指先で梳きながら言った。

「さっきも言ったが、ハヤテ、いつでも私を頼ってくれて構わないからな」

「……ありがとうございます」

「ふふ、添い寝だって大歓迎だ。ハヤテは抱き心地が良いからな」

「ミュラさん!」

 頬を赤く染めるハヤテに、ミュラは心の底から楽しそうな笑顔を見せる。

「お休み、私の愛しい天使」

「僕は、天使なんかじゃ……」

「良い夢を」

 ハヤテの髪に軽くキスを落としてから、ミュラは部屋から出て行った。ハヤテはしばらくの間、呆然とベッドの上で固まっていたが、自分がされたことをしっかりと認識したのと同時に、かっと顔に血を上らせる。

「い、今のって……」

 キスだ。されたのは髪だが、正真正銘のキスだ。

 きっとミュラにとっては、挨拶程度の行為なのだろう。だが、ハヤテにとっては初めてのキスだ。恥ずかしさに襲われて、ハヤテの心はぐるぐると混乱する。

「ああ、もう、ミュラさん……ああ……」

 心臓の音が痛いくらいに耳に響く。せっかく水を飲んで冷えた身体が、また熱くなってしまった。

 ハヤテは手の中のグラスをぎゅっと握りしめる。どうにも、今夜はぐっすり眠れる気がしなかった。


 

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