第6話 触れ合う手と手
「……ふう」
ハヤテは自室のベッドに腰掛けて、深く息を吐いた。緊張の糸が切れたのか、瞼が急に重くなる。横になってしまえばすぐに眠れる気がしたが、今、ミュラは仕事の最中なのだと思うと、寝ることはどうにも気が引けた。
コールに案内された部屋は、ミュラの寝室ほどの広さがある。ここが今日から自分の部屋になるのだと思うと、ハヤテは少し緊張した。違っていることは、置かれているものの多さだ。先ほどの寝室はがらりとしていて、必要最低限のものしか置かれていなかったのに対して、こちらの部屋にはテーブル、ソファー、ベッドの他に、分厚い辞典のようなものが並べられている本棚や、服が何着もぶら下げられるほどの大きさのラックなど、眠ること以外でも快適に過ごせるような造りの部屋になっていた。また、驚いたことにテーブルの前にはがっしりとした木の台が置かれていて、その上には一昔前の分厚い型の、テレビらしきものが堂々と置かれていた。
「……テレビ、あるんだ」
城の外観が古風だったので、あまり文明は発達していないものだと勝手に思い込んでいた。そういえば……と、ハヤテは天井を見上げる。そこにはちゃんと、円形の照明が設置されていて、この室内を明るく照らしている。城といえばロウソクのイメージがあったハヤテは、自分はこの世界のことを何も知らないのだということを改めて実感した。
「……眠れ、眠れ……」
先ほど覚えたばかりの子守唄を口ずさむ。優しい歌だと思う。自分の両親も、子守唄で寝かしつけようとしてくれたことがあるのだろうか。想像すると、ハヤテの心はあたたかくなった。
「ミュラさんが満足してくれるように歌わないと……」
ハヤテは胸に手を当てて「あー、あー」と声を出した。ため息を吐く時のように深く息を吐きながら、丁寧に喉を慣らす。ただ大きな声で良いというわけではない。ミュラを癒して眠気に誘うような、穏やかな音を探した。
「眠れ、眠れ、小さな命よ……」
目を閉じて想像する。草原の中、きらきらと輝く金色の髪。その人は横たわっていて、顔の傍には黄色い小さなタンポポが咲いている。
「お日様を浴びて眠れ……」
その人は青い瞳を細めて笑う。ゆっくりと優しい声で「ハヤテ、おいで」と、こちらに向かって手を伸ばす。
「花のような心で……」
差し出された大きな手のひらに自分の指の先を置けば、その人は欠伸をひとつこぼしてから「ハヤテ」と甘えるように自分の名前を呼んだ。
「っ……!」
ハヤテはそこで目を開いた。そして、急いで周りを見渡す。自分の目に飛び込んで来たのは、自室の風景だ。ハヤテは安堵の息を吐く。
「……変な想像しちゃった」
歌う時、その歌詞に合わせた場面の映像を想像することはある。だが、今のように、リアルに特定の誰かをしっかりと思い浮かべたのは初めてだった。
ハヤテは自分の手の先を見つめる。指の先が熱い。本当に、頭の中で思い描いたように……ミュラに触れられていたかのように熱を持っている。心臓がどきどきと忙しなく鳴って、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「ちょっとしか違わないのに、ミュラさんは大きいな」
お互い、もう成長期は終わっているだろうから、ハヤテがミュラの身長を超えることは無いだろう。身長だけではない。手の大きさも、力の強さも……ハヤテは軽々と抱えられてしまったことを思い出して赤面した。それはとても恥ずかしかったが、同時に、ほんの少しだけ、嬉しかった。抱っこ、なんて幼い頃以来だ。記憶は曖昧だが、きっと今日のように両親に腕に抱かれたことがあるに違いない。身体がその時のことを思い出して、嬉しいという感情を覚えさせたのだと思った。
もう一度、子守唄の練習をしよう。そう思って息を吸い込んだその時、外から扉がノックされた。誰だろう。深く考えずにハヤテは音の方に向かい、自ら扉を開けた。
「はい」
「ハヤテ!」
「えっ! ミュラさん!?」
扉を叩いたのはミュラだった。ミュラは機嫌が良さそうな声で「入るぞ?」と言って、慣れた様子で室内に入ってきた。その手には畳まれた白いシャツと黒いズボン。まさか、この部屋で着替えるとでも言うのだろうか。ハヤテは首を傾げる。それに、仕事があると言っていたではないか。サボってここに来たのなら、きっとコールがまた頭を抱える事態になるだろう。
「ミュラさん、お仕事の最中ではないのですか?」
ハヤテの言葉に、ミュラは自慢げに鼻を鳴らす。
「終わらせてきたぞ! あの程度の仕事、私の手にかかれば朝飯前だ!」
「お、お疲れ様です」
「ふふ。ハヤテは良い子にしていたか?」
良い子とは、大人しくしていたということだろうか。ハヤテは迷いながら小さく頷いた。
「では、ハヤテ」
「はい」
「これに着替えてくれるか?」
「え?」
仕事が終わったから歌ってほしい。そう言われるものだと思っていたハヤテは、ミュラが差し出してきた衣類を受け取りながら、どういうことだろうとミュラを見上げた。ハヤテの視線に気が付いたミュラは微笑む。
「一応、城内なのでな……おしゃれをしてほしい」
「ああ……」
ハヤテは改めて自分の服装を見る。安っぽいセータとズボン。加えて足元はスニーカーだ。この城内で過ごすのにはふさわしいとはいえない。
「もうすぐコールが最高の革靴を持って来るから、先にこれらを着て待っていてくれ」
「分かりました」
ハヤテは身につけていたセータを脱いでベッドに放った。その下に着ていた長袖も脱ぎ捨てて上半身だけ裸になる。こちらの世界は気候があたたかいので、寒さは感じなかった。
受け取った白いシャツとズボンの間に、白い半袖のインナーが挟まれていたので、それを身につけてから、新品の匂いがするシャツに腕を通す。このようなシャツを着るのは学生の頃以来なので、ハヤテは懐かしい緊張感に包まれた。
次はズボンに手をかけたところで、ハヤテはミュラの視線を感じて手を止めた。こちらを見つめるミュラの頬は、ほんのりと赤い。どうしたのだろう、とハヤテは訊ねる。
「ミュラさん? どうされましたか?」
「……いや、ハヤテが、私が部屋を出て行く前に着替え出したから……驚いてしまった」
ハヤテは「しまった」と思った。男同士だから見られても構わない、と深く考えずに着替えてしまった。しかし、いくら男同士といっても相手は王子様で自分は一般人だ。一般人が王族の前で服を脱いでしまうなんて、これは失態だ。ハヤテは慌てて詫びる。
「すみません! 王子様の前でなんて無礼を……!」
「いや、無礼などではない。ただ、他人の裸を滅多に見ないから、驚いただけだ。気にしなくて良い……ハヤテは見かけによらず男らしいのだな」
そう言いながら、ミュラはハヤテの肩に触れる。
「細いな。シャツだと身体の線が余計に目立つから、ハヤテの可憐さが際立つ」
ミュラの言葉に、今度はハヤテが赤面した。
「可憐って……そんなこと無いですよ」
「いや、ハヤテは歌声も見た目も、すべてが繊細さを含んでいる。丁寧に扱わないと、壊れてしまいそうだ」
他人を口説く術を教育されているのだろうか。恥ずかしげもなく、大袈裟な言葉を発するミュラに、ハヤテはただただ赤面するばかりだった。
「そうだ。手伝ってやろう」
「え?」
ミュラは、ハヤテのズボンのベルトに手をかけた。ハヤテは慌ててベルトを掴む大きな手を押さえる。
「ちょ、何をしているんですか!?」
「何って、着替えを手伝おうと……」
「自分で、出来ます!」
ハヤテはミュラの手を押し除けようとするが、力でミュラに敵わない。ミュラは指先を器用に動かし、ベルトを緩めて奪い取った。
「ミュラさん!」
「懐かしいな。私も幼い頃は、着替えを手伝ってもらっていた。だから、ハヤテ、遠慮する必要は無い」
「それはミュラさんが子供だった時のお話ですよね!? 僕は大人だからこういうのは結構です!」
「照れているのか? 私に比べればハヤテはまだまだ……」
するりとズボンがずらされる。それと同時に、部屋の扉がノックも無しに勢い良く開かれた。
「ハヤテ様! 新しい靴がご用意出来ましたよ! サイズは魔術で調整いたします……」
うきうきした様子で室内に入ってきたコールは、ハヤテとミュラを見て固まり、手に持っていたぴかぴかの革靴を床に落とした。
「は、破廉恥な……! やはりミュラ様は飢えた狼!」
「なんだ、コールか。ノックくらいしろ」
「ハヤテ様! さぁ、このコールめの後ろに! 早く!」
「っ……!」
ハヤテは急いで下がったズボンを上げ直して、さっとコールの背後に隠れた。コールは不機嫌そうにくちびるを尖らせるミュラに向かって、強い口調で言った。
「お仕事を放棄してこんなことをするなんて! わたくしはミュラ様をこんな野獣に育てた覚えはありませんぞ!」
「誤解だ。私はハヤテの着替えを手伝っていただけだ」
「ハヤテ様は、未だにシャツのボタンを掛け違えておられるミュラ様とは違って、しっかりとされています! 確かにまだ幼い方ですが、お着替えくらいおひとりでなさるでしょう!」
「そう声を荒げるな。ほら、ハヤテが困っている」
ミュラとコールの視線を受けて、ハヤテはますます困惑した。どうにも、このふたりからは、自分はとても若い……幼く見えているらしい。
「あの……僕って何歳に見えますか?」
そう訊ねたハヤテに、ふたりは迷うことなく答える。
「十七くらいだな」
「十六歳、ですね」
「ああ……」
ハヤテはため息を吐く。それから、遠慮がちに真実を口にする。
「一応……二十年は生きているんですけど、見えませんか……?」
「な……」
「えっ!?」
ミュラとコールは目を丸くして、互いに顔を見合わせた。
「若く見えるな」
「とても成人されているとは……」
「……あはは」
ハヤテは苦笑する。確かに自分は童顔だ。アルバイト先のコンビニで年齢確認が必要な商品を売る際、客に「売ってる君の方が年齢チェックしないといけないね」と笑われたことも何度かある。
「あ、バイト……どうしよう」
「ハヤテ? 何か心配事か?」
首を傾げながらそう訊ねるミュラに、ハヤテは眉を下げて言う。
「バイト先……仕事先に、連絡をしないでこっちに来たので……辞めるって連絡を入れたいんですけど、どうにかなりませんか?」
「連絡? 手紙なら送れるぞ。コール、任せられるか?」
「はい、少々お待ちを」
コールが指を鳴らすと、目の前に便箋と封筒、万年筆が現れた。コールはそれらをテーブルの上に置いて、ハヤテを手招く。
「わたくしは、ハヤテ様の世界の言語を理解しておりません。ですから、ご自分で書いていただければ助かるのですが……」
「もちろんです! 自分で書きます!」
ハヤテは急いでソファーに腰掛け、万年筆を手に取る。初めて触れる万年筆は重く、文字を書くだけなのに妙に緊張した。
「ええっと……急ですが……いや、まずは誠に申し訳ありませんが……うーん」
退職の書類など書いたことが無い。いったいどう書き始めれば良いのか悩むハヤテに、ミュラが軽い口調で言う。
「新しい仕事が見つかったから辞めさせてくれと、簡単に書けば良いだろう」
「そうですけど……一言目が難しいんです」
「細かいことは気にするな。ささっと簡潔に書くのが良い。その方が言いたいことは伝わる」
「……じゃあ、急ですが新しい仕事に就くことになりましたので、退職させて下さい……今までお世話になりました……これで良いですか? 簡単すぎて失礼な気もするんですけど……」
「良い。百点だ。私はだらだらと長い手紙が好きではない……私の部下が同じ手紙を寄越して来たら、退職金を弾んでやろう」
「……はは」
まぁ、もう向こうの世界とは関わりになることも無いし良いか、とハヤテは短い文面の書かれた便箋を半分に折って封筒に入れた。宛先は……分からない。店の名前は分かっていても、住所までは記憶していなかった。
「あの、僕、住所は……」
「必要ありませんぞ」
コールは自信満々にそう言った。
「ハヤテ様が念じた場所にこの手紙を魔術で送ります」
「えっ、そんなことが出来るんですか?」
「ええ、もちろん。パソコンのメールよりも早く送れます!」
この世界にはパソコンもあるのか、とハヤテは驚いたが、それよりも魔術の幅が広いことに感心した。
「すごいな……あ、でも僕は魔術は使えないから、念じても届かないのでは?」
「ご心配無く! ハヤテ様、手紙を持って、空いている手を貸していただけますか?」
「手、ですか?」
言われた通りにハヤテは右手で手紙を握り、左手をコールに差し出す。だが、そこでミュラが「待て」と口を挟んだ。
「……私がやる」
「え?」
「ハヤテ、私の手を握るんだ」
ミュラは大股でハヤテのもとに進むと、どしんと隣に腰掛けて手のひらをハヤテに差し出した。ハヤテはこれから何が起こるのか理解しないまま、反射的にミュラの手を握る。すると、繋いだ手から柔らかい金色の光がぽう、と生まれた。
「え、な、何……!?」
「ハヤテ、怖がらなくて良い」
空いている手でハヤテの背中を撫でながらミュラが言う。
「魔術を使っているだけだ。心配無い」
「っ……」
心配無いと言われても、少し不安だ。無意識に手が震えてしまう。そんなハヤテの額に自分の額をくっつけて、ミュラは優しく微笑む。
「リラックスして……その手紙を送り届けたい場所を頭の中で描くんだ」
青い瞳がハヤテを見つめている。空よりも海よりも、今まで見たどんなものよりも美しい、青。それがこんなにも近い距離で、自分を見つめている。少しだけ恥ずかしい。けれど……嫌ではない。それよりも何故か安心感を覚える。
ハヤテは深呼吸をひとつしてから、目を閉じた。そして、アルバイト先のコンビニをイメージする。自動ドアをくぐって店内に入り、店長がいつも居るバックヤードの机の上に手紙を……。
「無事に届いたようだな」
「……え?」
ハヤテは目を開いて自分の右手を見た。そこにあった手紙は消えている。これは、ちゃんとコンビニに届いたということなのだろうか。ハヤテはミュラを見上げる。彼は満足そうに笑って、ハヤテの頭を撫でた。
「上手に出来たな。初めてとは思えない」
そう言ってミュラは繋いでいた手を解いた。思わずハヤテは「あ……」と呟いてしまう。ミュラは不思議そうにハヤテを見た。
「ハヤテ、どうした?」
「あ、いえ……大丈夫です」
どうして、手が離れたことに……寂しさを覚えてしまったのだろう。ミュラの手が自分のそれよりも大きいからだろうか。皮膚と皮膚がくっつく感触が心地良いからだろうか。熱を伝え合う感覚に酔ってしまったからなのだろうか……分からない。
ぼんやりと自分の手を見つめるハヤテに、ミュラは心配そうな視線を向ける。
「ハヤテ、顔が赤いが知恵熱でも出たか?」
ミュラの言葉にハヤテは慌てて自分の頬に触れた。熱い。本当に熱があるのではないかと思うほどに、熱い。
「ミュラ様、知恵熱とは子供が出す熱のことであって……」
「分かっている。ものの例えだ。まったく、コールは昔から頭が固い」
ミュラはふうと息を吐くと、ハヤテの肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「ハヤテ、私が夕食は一緒に取ろうと言ったのを覚えているか?」
「はい、覚えています」
熱を持つ頬を押さえながらハヤテが答える。ミュラはその様子を目を細めて見つめながら言った。
「本当はふたりだけで食べようと思っていたのだが……会ってもらいたい人が居る。ハヤテが嫌なら断ってくれても構わないが、出来れば皆で揃って夕食会を開きたい」
「夕食会……僕、食事のマナーに詳しくなくて、ちゃんと出来るかな……」
「会、と言っても堅苦しい場面では無い。気楽に夕食を楽しんでもらえたら良いと考えている」
「……分かりました。粗相の無いように気をつけます」
ハヤテの言葉に、ミュラは吹き出す。
「今からそう固くならなくて良い……体調は大丈夫か? まだ顔が赤い」
「大丈夫です! 赤いのは多分……知恵熱です。きっと……」
「ははっ! ハヤテはコールと違って頭が柔らかいな」
良い子だ、とミュラはハヤテの頭を撫でる。その様子を見て、コールがごほんと咳払いをする。
「ミュラ様、ハヤテ様は成人されていて、子供ではないのですよ! そうでしょう、ハヤテ様。大人が大人に頭を撫でられて嬉しいはずないでしょうに。嫌なら嫌とはっきりとおっしゃって良いのですよ?」
「え、えっと……」
別に嫌ではない。むしろ、ミュラの体温を感じられて安心する。だが、そんなことを言ってしまうのは、何だかおかしい気がして、ハヤテは口籠った。
「ハヤテを見ていると構いたくなるのだ」
黙ってしまったハヤテをよそに、ミュラは足を組みながら言う。
「どうしてだろうな。いつまでも愛でていたい」
「愛でるって……」
とんでもないことを言う人だ、とハヤテはミュラの言葉をどきどきしながら聞いていた。
「艶のある黒髪、淹れたての紅茶のように澄んだ赤茶色の瞳、肌は絹のように滑らかだ。幼い見た目も小鳥のようで可愛らしい」
「……可愛くはないでしょう。僕は……」
可愛らしい、なんて褒め言葉は女性に使うのが相応しいだろう。いくら童顔といえども、自分が可愛らしいという言葉に当てはまるとは、到底思えなかった。
「と、ところで夕食会では誰とお会いするんですか?」
話題を変えようと、ハヤテは早口でミュラに訊いた。ミュラは「ああ……」と思い出したように口を開く。
「私の父と母だ」
「ああ、お父様とお母様ですか……え?」
ハヤテは硬直する。ミュラの父親と母親ということは、つまり……。
「こ、国王様と王妃様!?」
「ああ、そうだ」
「そ、そんな……」
ハヤテの顔から血の気が引いていく。
「い、いきなりそんな立派な方にお会いするなんて……」
「うん? ハヤテの目の前に居る私もそれなりに立派な立場なのだが?」
「それは……そうですけど……」
「ふふ」
緊張で震え出したハヤテに、ミュラはとても楽しそうに言った。
「楽しい夕食会になりそうだ」
ハヤテはその言葉を、気絶しそうな意識の中で聞いていた。
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