第5話 子守唄

「ちょっと、ミュラさん!」

 ハヤテを抱き上げたまま、ミュラは息を切らすこともなく廊下を進み階段を上がり、一番上の階の奥から三番目の扉の前までたどり着いた。扉の前には、背筋を伸ばした黒いスーツ姿の筋肉質の男性が三人立っていて、護衛の人間だろうかとハヤテは思った。

 三人組はミュラの姿を見るなり、すっと頭を下げる。それから、その内のひとり……特に鍛え上げられた筋肉を持つ男性がミュラに言った。

「王子様、こちらに異常はありません」

「ああ、ご苦労。悪いが扉を開けてくれないか。両手が塞がっていてな」

「はっ!」

 男性はハヤテの存在を特に気にする様子も見せずに、両手で扉をゆっくりと開けた。ミュラは礼を言って慣れた様子で室内に入る。扉はすぐに閉められた。

「っ……」

 ハヤテは室内を観察する。部屋は、先ほど居た部屋よりもはるかに広い。置かれている家具が少ないので、余計にそう感じるのかもしれない。この部屋に置かれている目立つ家具は、小さなテーブルとソファー、そして、窓際に大きなベッドがあるだけだった。

 ベッドを見て、ハヤテの顔はますます赤くなる。身体を使って働くとは、つまり、性的なことをしてもらうという意味に違いない。どうすれば良いのだろう。そんなこと、経験も無ければ知識もほぼ無い。リードをして貰えばなんとかなるかもしれない……と、混乱しながらハヤテは思ったが、ミュラがハヤテをベッドに横たわらせたことによって、すべての思考がぷつんと途切れてしまった。

「ミュラさん……」

「じっとして」

 ミュラはハヤテの足からスニーカーを脱がすと、それを丁寧に揃えて置いた。そして、自身も履いていた靴を脱ぎ、その横に並べると、ベッドの上に乗った。ふたり分の重さでベッドが軋む。その音を、ハヤテは緊張の中で聞いていた。

「ミュラさん……」

「こんなに身体をこわばらせて、可愛らしいな」

 ミュラはハヤテに覆い被さって、そっと真下にあるハヤテの頬に触れた。横目でハヤテはその手を見る。爪が短く整えられていて、綺麗な手だった。

「ハヤテ……」

「っ……」

「ハヤテ、早く」

「ミュラさん……」

 ミュラの形の良いくちびるが、言葉を紡いだ。

「早く、歌って」

「……え?」

 予想外の言葉を聞いて、ハヤテは目を見開いた。歌う、だって? あれ? 身体を使うって、そういう意味だったのか! 自分がとんでもないことを想像していたのだと理解したのと同時に、ハヤテは両手で自分の顔を隠した。

「ハヤテ?」

 そんなハヤテにミュラが不思議そうに言葉をかける。

「どうした? やはり疲れているのか?」

「……いえ、僕は大丈夫です。ミュラさん、起き上がりたいので、そこから退いていただけますか?」

「起き上がる? どうして?」

 ミュラはつん、とハヤテの頬をつつく。

「ハヤテには子守唄を歌ってもらうんだ。だから一緒に寝転ぶのが良い」

「わ!」

 ミュラはハヤテの横に寝転んだ。そして、素早くハヤテを抱きしめた。まるで、どこにも逃さないというような強い腕の力に、ハヤテは本当に身動きが取れなくなった。

「ミュラさん! こんな体勢じゃ歌えないですよ!」

「だが、こうしていたい。ハヤテ、君はあたたかくて抱き心地が良いのだ……抱き枕みたいで落ち着く」

「……」

「ハヤテ、弱った私のわがままを聞いてはくれないだろうか」

 そんな言い方はずるい。ハヤテは小さく息を吐くと「分かりました」と苦笑しながら言った。

「でも、僕は子守唄なんて歌ったことが無いんです。だから、上手くいくでしょうか?」

「それは分からない。だが、ハヤテは癒しの音……いや、癒しの歌声を持っているに違いないのだ。頼む、一度試してほしい」

「……分かりました。では、この国の子守唄を教えてはいただけませんか? 真似して歌ってみます」

「分かった。では、もっとも有名な子守唄を……」

 すっとミュラは息を吸って、囁くように歌い始めた。

「眠れぇ、眠れぇ、小さな命よぉ……お日様を浴びて眠れぇ……花のような心でぇ……出だしはこんな感じだ。どうだ? ちゃんと覚えたか?」

「……はい。なんとか」

 ハヤテは少し引きつった笑顔で答えた。ミュラの歌声が、あまりにも音程のがたがたしたものだったからだ。ミュラは歌うことが得意では無いのだろうかとハヤテは思ったが、もしかしたら、これがこの世界の正しい歌い方なのかもしれないと思い直し、ミュラの腕の中で小さく咳払いをした。

「ごほん……では、歌います」

「ああ、頼む」

 ハヤテは息を吸う。そして、ミュラの真似をして歌い始めた。

「眠れぇ、眠れぇ……」

「待て、ハヤテ」

 ミュラがハヤテを慌てた様子で止める。

「どうした? 緊張しているのか?」

「え?」

「音程がずれていたぞ? やはり疲れのせいで調子が悪いのか?」

「……いえ」

 ハヤテはミュラが歌った通りに音を拾っただけだ。なのに、音程がずれていると言われてしまった……やはり、ミュラは歌うことが得意ではないらしい。自分が発する声というものは、自分では上手く理解するのが難しいものだ。

 こうなったら、真似をして歌うことは出来ない。ハヤテはミュラの歌声を元にして、自己流で歌うことに決めた。目を一度閉じてから全身の力を抜いて、小さな子供を寝かしつけるような、穏やかな声で歌詞をたどる。

「眠れ……眠れ、小さな命よ……お日様を浴びて眠れ、花のような心で……」

 ハヤテはそこで息を切離、ちらりとミュラを見た。ミュラは何も言わない。ただぽかんとした表情で、ハヤテのことを見つめているだけだ。

「あの、ミュラさん。期待にそえなかったらごめんなさい。僕はこんな感じでしか歌えないです」

「……しい」

「え?」

「なんと、美しい!」

「うわあ!」

 ぎゅうと、ミュラはハヤテを強く抱きしめた。今までで一番強い腕の力を受けて、ハヤテは苦しさのあまり両足をばたつかせる。

「ミュラさん! 離して……!」

「ああ、ハヤテ……」

 ハヤテの言葉はミュラには聞こえていないらしい。ミュラはハヤテの耳元で、震える声で呟く。

「美しい。君の歌声は、まるで天使の微笑みのようだ」

「っ……!」

「ハヤテ、私は君に出会えて良かった……」

 ミュラは顔をハヤテに寄せた。互いのくちびるがくっついてしまいそうな距離だ。ミュラの長い金色の睫毛が喜びを表現するかのように揺れている。美しいのは僕じゃなくてミュラさんです、とハヤテは心の奥底で叫んでしまった。

「ああ、ハヤテ。もう一度歌ってくれないか? ハヤテの歌声は私の心を穏やかにしてくれる……眠れる気がしてきた」

「えっ? 本当ですか? では……」

 役に立てるのなら、何度だって歌おう。そう思いハヤテが息を吸い込んだその時、部屋の扉がノックされた。ミュラはゆっくりと起き上がり、不機嫌そうな声で扉に向かって叫ぶ。

「入れ!」

「失礼致します」

 入って来たのはコールだった。彼はベッドの上に居るハヤテとミュラを見て、ぎょっとした表情になる。

「なんとミュラ様! 公務があるとおっしゃっておきながら! このような……! 昼間から……破廉恥な!」

「ち、違います! 誤解です!」

 ハヤテは慌てて起き上がり、さっとミュラの背後に隠れた。ミュラは首をぽきぽきと回しながらコールに言う。

「そうだぞコール。誤解だ。私は出会ったその日に取って食うような狼ではない」

「なら、いったいそんなところで何を……」

「私は眠ろうと、ハヤテに子守唄を歌ってもらっていたのだ」

 ミュラの言葉に、コールは目を丸くする。

「それは失礼致しました。先ほどはお仕事をするとおっしゃっていたのに、書斎に居られないのでどうされたのかと思い……邪魔をしてしまいましたかな?」

 申し訳なさそうに眉を下げるコールに、ミュラは大袈裟に息を吐いて言った。

「ああ、邪魔だった。もう少しで眠れると思っていたのに」

「ああ、わたくしはなんということを……」

 絶望に打ちひしがれるコールを見て、ハヤテはくいっとミュラのシャツの袖を引っ張った。

「そんなにきつい言い方はしない方が良いですよ。コールさんだって悪気があったわけじゃないんですから……」

「……ほう。ハヤテは王子に意見するのか」

「え!? いえ、そんなつもりじゃ……!」

 焦るハヤテの様子を、ミュラは楽しげに眺めながら言った。

「冗談だ。さて、ハヤテ」

「は、はい!」

 ミュラはベッドから降り、靴を履いてからハヤテに向き直る。

「私はこれから書類仕事があるから、しばらく……夜までは会えない」

「はい」

「コールを置いておくから、何でも言いつければ良い。遠慮をする必要は無いからな」

「……分かりました」

「夕飯は一緒に食べよう。それまで良い子にしているんだぞ?」

 ハヤテの頭を撫でてから、ミュラはコールに向かって言った。

「ハヤテを任せた」

「はっ!」

 頭を下げるコールを一瞥して、ミュラは部屋を出て行った。室内に残されたハヤテは、現在の時刻が気になってきょろきょろと時計を探した。だが、どこにも見当たらない。ハヤテはコールに訊ねることにした。

「あの、コールさん」

「はい! どうされましたか?」

「今、何時ですか?」

「時間でございますね、少々お待ちを……」

 コールがぱちんと指を鳴らす。すると、空中にふんわりと数字が浮かび上がって来た。

「ええと、二時五分でございます。何か、ご予定がおありですか?」

「いえ、時間が気になっただけで……すごいですね! その、今の魔術……」

「なんと! ハヤテ様に褒めていただけるとは光栄な……! 今のは初歩的な術でございます。時計よりも正確な時間を確認できますので、この術を使うことが多いのです」

「そうなんですね……この部屋には時計がないのですか? 柱時計も目覚まし時計も見当たりませんね」

 ハヤテの言葉に、コールの表情が曇る。

「……ここはミュラ様の寝室でございます。ですから、当然、以前は時計は置いてありました」

「以前?」

「はい。ミュラ様が眠れなくなる前はちゃんと、立派な柱時計がありました。ですが、ミュラ様が今の状態になってからは、それを撤去したのです。時計が視界に入っては、時間を気にして余計に眠れなくなる可能性があるからと……」

「そうだったんですね……すみません、何も知らずに質問してしまって」

「とんでもない! 何でもおっしゃって下さい!」

 何でもと言われると、何を訊けばいいか迷ってしまう。ハヤテは改めてコールのことを見た。歳は確実にミュラよりも上だろう。四十代、いや、それよりも上か……そういえばミュラはいったい何歳なのだろうか。

「あの、ミュラさんっておいくつなんですか? とても迫力があるから、きっと僕よりも上ですよね?」

「ミュラ様ですか? まだ二十六歳、いえ、もう二十六歳ですね」

 意外と若いことにハヤテは驚いた。六年後の自分は、あんな威厳のあるオーラは絶対に出せないだろう。

 コールはふう、と息を吐いて自分の胸に手を当てた。

「もう二十六歳にもなるのに、お相手も作らずに仕事と鍛錬にしか興味を持たれないのですよ……困ったものです」

 まだ二十六歳ならそれでも良いのではないだろうか、とハヤテは思ったが、世界が違えば感覚も違っているのだろうと思い、自分の意見を言うことは控えた。

「……ミュラさんのお仕事って、どんなことをされているんですか?」

「そうですね……簡単に説明しますと、芸術の発展の分野に力を入れてお仕事をされておられます」

「芸術……それこそ、音楽とか、そういうものにですか?」

「その通りでございます! ミュラ様は幼少の頃から音楽や絵画に人一倍興味を持たれていまして……自分がする方の才能はまったく無いのですが」

 そこまで言ったコールの顔が、みるみる青く染まっていく。

「わ、わたくしは何ということを……」

「コールさん?」

「腹を切ってお詫びせねば!」

「コールさん!?」

 その場に跪き、コールはぱちんと指を鳴らし、空中から銀色に光る短刀を出した。それを握り、自らの腹に突き刺そうとする。ハヤテはベッドから飛び降りてコールの手首を掴んでそれを阻止した。

「いきなり、何考えてるんですかっ!?」

「わたくしは今、大罪を犯しました! この国の王子様の……王子様の悪口を言ってしまったのです! これは許されることではありません!」

「わ、悪口って……」

 おそらく「自分がする方の才能はまったくない」というのが悪口だと言っているのだろう。ハヤテは、先ほどのミュラの歌声を思い出して苦笑した。

「……ミュラさんって、歌が苦手なんですか?」

「歌……いえ、苦手というか、独特というか……苦手……はぁ……」

 コールは力無く項垂れた。ハヤテはさっとコールから短刀を奪って、それを背後に隠して言った。

「さっき、子守唄を教えてもらったんです。この国の子守唄を歌ってもらいました」

「な……ミュラ様の歌声をお聴きになったのですか!?」

「はい、聴きました。音程に……ちょっと問題がある感じですよね」

「はい……ですが、ミュラ様はそのことにまったく気が付いておられません。絵の方もそうです。自分は上手いとお思いのようですが……お下手です。芸術を誰よりも愛しておられるのに、才能が開花しなくて……」

「ま、まだまだこれからですよ! 僕、いつかミュラさんと一緒に歌いたいなぁ……」

「ハヤテ様……」

「僕は悪口なんて聞いてません。ほら、だからこれをしまいましょう……今、ミュラさんの前からコールさんが居なくなってしまったら、きっとミュラさんは困ると思いますよ」

「ああ、ハヤテ様……お優しいお言葉、ありがとうございます」

 ハヤテが差し出した短刀を受け取ると、コールは指を鳴らしてそれを目の前から消して息を吐いた。

「わたくしは、ミュラ様がお生まれになった時からお仕えしているのです」

「えっ。失礼ですが、コールさんはおいくつですか?」

「もう五十歳を超えてしまいました」

「それじゃあ……年齢の離れたご兄弟のような存在なのですね」

「兄弟とは恐れ多い……ですが、これからももっと信頼していただける存在でありたいと思っています」

「……家族みたいで良いですね」

 自分でそう言っておいて、ハヤテの胸はちくりと痛んだ。羨ましい、と思う。自分には本当の家族も、家族のような存在も居ない。なので、ミュラとコールの関係性がとても眩しいものに思えた。

「ハヤテ様……? どうされましたか? お疲れですか?」

 いつの間にか俯いていたハヤテにコールが心配そうな声で問うた。ハヤテは咄嗟に頷いて頬を掻く。

「……ごめんなさい。少しだけ疲れが出たみたいです」

「それはいけません! お部屋にご案内いたします!」

「ありがとうございます」

 コールを止めるために慌ててベッドから飛び降りたので、ハヤテはまだスニーカーを履いていなかった。綺麗に並べられていたそれに足を滑り込ませて、すでに扉の前に移動していたコールのもとへ進む。

「さあ、参りましょう。と、言いましても、ハヤテ様のお部屋はこの隣でございますが」

「えっ? 良いんですか? この階は……ミュラさんのご家族とか、そういう方たちが使われるのではないのですか?」

「はい、その通りでございます」

「僕は王族でもないし……ただの一般人がこの階に居るのは、問題になるのではないですか?」

「ただの一般人だなんて!」

 コールは信じられない、といった表情でハヤテに言う。

「ハヤテ様はミュラ様の大切な方でございますよ? ですから、ご自分のことを卑下するのはお止め下さい」

「大切って……今日会ったばかりなのに、そんな存在にはなれませんよ」

「いえ、わたくしには分かるのです」

 コールは自信満々な様子で胸を張ってみせた。

「ミュラ様の目を見れば分かります。ハヤテ様はもう、ミュラ様の中で大切な人になっておられます」

「……だと良いんですけど」

 ハヤテは苦笑する。王子様にそう思ってもらえたなら光栄なことだ。だが、そうなれる自信はまったく無い。万が一、機嫌を損ねでもして「元の世界に帰れ」と言われてしまえば、それに従うしかないのだろう。そんな危うい関係だ。

「……頑張ろう」

 ハヤテは小さくそう呟いた。ミュラの信頼を得るためには、まず、彼を眠らせなければならない。そうして睡眠障害を完治させることが出来れば……家族は無理でも、友人に近いレベルの人間だと思ってもらえるかもしれない。

 必ず、役に立ってみせる。そう固く決意して、ハヤテは自ら扉を開けた。

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