第3話 異世界の王子

 頬に当たる風は柔らかく、まるで春の気候のようだ。だが、頭がずきずきと痛む。どこかでぶつけてしまったのだろうか。

 ハヤテの視界は暗い。自分が瞼を閉じているからだ。どうしてだか、目を開ける気分になれなかった。

 右手には冷たい感触がある。ああ、マイクだ。そう、自分はひとりでカラオケに行っていた。そうして、帰る前の最後の一曲を歌っていたのだ。けれど、どうして自分は今、横たわっているのだろう。背中には床ではなくもっとあたたかい……まるで草の上に寝転がっているような感じがする。おかしい。夢でも見ているのだろうか。

 何も持っていないはずの左手が熱い。どうしてだろう。まるで、誰かに握られているかのような……。

「ん……」

 ゆっくりとハヤテは目を開いた。視界がぼやけて、すぐにはピントが合わなかった。数秒の間を置いて飛び込んできたのは、青色。白い絵の具を少し混ぜたような美しい青い空だった。

「え、ここ、外……?」

 そう呟いたハヤテの顔を、誰かがぐいっと覗き込んできた。突然のことにハヤテはぎょっとする。ハヤテを見つめるその人は、青空よりも深い青い瞳をしていた。髪は金色に輝いていて、同じ日本人には思えない。外国の人だろうか。ハヤテがそう思った時、その人はハヤテの右の頬にそっと触れた。

「気が付いたか!?」

「う、うん……?」

 日本語が上手いなぁ、とハヤテは驚く。そして、自分が気を失っていたことを今初めて自覚した。ぼんやりとした様子のハヤテを見て、その人の青い瞳が悲しげに揺れた。

「ああ、まだ気が動転しているんだな。無理も無い」

「あ、あの……どちら様ですか?」

「私か? ああ、そうか、知らなくて当然だな」

 何故かその人は苦笑しながら立ち上がる。それと同時に頬と左手からぬくもりが消えたので、この人が手を握っていたのだとハヤテは理解した。

「私は、ミュラ・ガベラー。ミュラと呼ぶと良い」

「ミュラ、さん」

「ああ、そう気軽に呼んでくれ。君のことは……どう呼べば良いかな?」

 そう言いながら、ミュラはハヤテに手を差し出した。ハヤテはそれを掴んで起き上がると、まだ痛む頭を押さえながらミュラに言った。

「若葉ハヤテと言います」

「ワカバ、ハヤテか」

「ハヤテって呼んでください」

「ハヤテ……良い響きだ」

 そう言ってミュラはふっと微笑んだ。その顔があまりにも整いすぎていて、ハヤテは思わず息を呑む。顔だけでは無く、ミュラはスタイルも良い。身長は百八十センチを超えているのではないかと思うほど高く、百六十五センチほどの身長のハヤテは、ミュラの横に立つのが、なんとなく恥ずかしくなった。

「あの、ミュラさん」

「どうした? ハヤテ」

「ここは、わくわくルームですよね?」

 ハヤテの通っているカラオケボックスには大人数がいつもと違った環境でカラオケを楽しめるという「わくわくルーム」という部屋がある。ハヤテは利用したことが無いが、カラオケボックスのサイトで紹介されていたのをハヤテは思い出していた。詳しいことまでは覚えていないが、そこに「大草原の中で歌ってみよう!」というコンセプトの部屋があった……ような気がする。

 だんだんといろいろなことを思い出してきたハヤテだ。だが、きっと疲れていて記憶違いを起こしているに違いない。まさか、自分がモニターの中に引きずり込まれたなんて、ありえないだろう。きっと……自分は何らかの理由で自分が予約していた部屋を出て、またそこに戻ろうとした時に自分の部屋と他人の部屋を間違えて入ったのだ。そう納得したハヤテは、この「わくわくルーム」から出ようと扉を探した。だが、ぐるりと周りを見渡しても、そんなものはどこにも無い。ただただ美しい草原が広がるだけで、遠くには川まで流れている。ハヤテは、無意識に右手のマイクをぎゅっと握った。おかしい。何が起こっているんだ。そう思い、ちらりとミュラを見れば、彼は眉を下げて申し訳なさそうにハヤテに言った。

「ハヤテ……ここは、その、わくわくルームという場所では無い」

「え……それじゃあ、本当に外?」

 いや、それもおかしい。今は冬のはずだ。こんなにあたたかな気候の中に居るなんてありえない。

「ハヤテ、ここは外だ」

 ミュラが落ち着いた声で言う。ハヤテの心臓が痛いくらいに音を立てた。

「ハヤテ……どう詫びて良いか分からないが聞いてほしい」

「っ……」

 とても恐ろしいことを言われる気がして、ハヤテは耳を塞ぎたくなった。けれども、聞かなくてはならない。逃げていては、この謎めいた状況を解決出来ない気がした。

 ハヤテは真っ直ぐにミュラを見つめる。ハヤテの覚悟を感じ取ったのか、ミュラもまた真剣な表情で口を開いた。

「ハヤテ、ここはハヤテが先程までいた世界とは違うんだ」

「……世界が、違う?」

 首を傾げるハヤテの肩を、ミュラがそっと撫でた。

「こちらの手違いで、ハヤテ、君をこの世界に呼び込んでしまった」

「ま、待って下さい。呼び込んだって、そんな……」

 まさかの答えにハヤテは驚愕した。世界が違うとはどういうことだ? てっきり、誘拐されて海外に売り飛ばされたのかと覚悟を決めていたハヤテだが、あまりにも自分が考えていた答えと違いすぎて、ますます頭が痛くなった。

「世界が違うって……そんな、ファンタジーものの映画みたいなことを信じられません。誘拐ですよね? ミュラさん、僕はマフィアか何かに誘拐されてこの国に売り飛ばされてしまった……」

 ハヤテがパニックになりながら、自分の納得する答えを得ようとしていたその時、遠くから「ミュラ様!」と叫びながらこちらに向かって来る男性が見えた。彼は茶色い馬に乗っている。その足音を聞いて、ハヤテは軽い目眩を覚えた。本当に、ここは自分がいた世界では無いのだろうか。いわゆる、異世界という場所なのだろうか。

 銀色の長髪を後ろでまとめているその男性は、ハヤテとミュラから少し距離を置いて馬の動きを止めて、自分はその上からひらりと器用に飛び降りてみせた。そして、早足でこちらに向かってきたかと思うと、姿勢を正して片膝をつき、どこか緊張を含む声でミュラに向かって口を開く。

「ミュラ様、やはりミュラ様の予想通りでございます」

「……ああ」

「この者は、我々の召喚魔法でこちらの世界に呼ばれた者で……」

「この者ではない。彼はハヤテという立派な名がある」

「はっ! 失礼いたしました!」

 男性は深く頭を下げる。ハヤテはその様子を見ながら違和感を覚えた。どう見てもミュラよりも、この男性の方が年上だ。それなのに、言葉遣いから態度まで、男性はミュラに対して深く敬っている。どういうことだろうか。

 ハヤテにじろじろと観察されていることにも気付かない様子の男性は言葉を続ける。

「こちらのハヤテ様は、確かに我々の魔力によって呼び込んだ、ミュラ様が希望された異界の、癒しの音、でございます」

 癒しの、音?

 ハヤテは首を傾げる。この男性の言っていることは、意味が分からないことばかりだ。召喚魔法だなんて、非現実すぎて理解が追いつかない。だが、本当にここが自分から見て異世界だというのなら、それを受け入れるしか道は無いのだろうか。あの、カラオケボックスでの恐ろしい出来事も「魔法」とやらが関係しているというのなら納得がいく。

「異世界……」

 ハヤテはぽつりと呟く。いつもの生活からは逃げ出したいと願っていた。けれども、まさかこんな形で抜け出すことになるなんて、想像もしていなかった。

 これから、自分はどうなってしまうのだろう。そう考えると自然と表情が曇る。そんなハヤテの肩をミュラが力強く掴む。

「ハヤテ、何も心配はいらない。この世界の優秀な魔術師たちの力を総動員して、すぐにでもハヤテを元の世界に帰そう」

「……え?」

 ハヤテは驚く。まさか、帰る方法があるなんて思ってもみなかった。

 帰れるのなら、帰った方が良いのかもしれない。だが……。

「……帰りたくない」

 ハヤテはミュラの白いシャツの袖をきゅっと握った。

「僕、帰りたくないです。この世界で暮らしたい……駄目ですか?」

「ハヤテ……? 良いのか? そう言ってくれると私としては助かるのだが……私たちのことが怖いのだろう? とても不安そうな顔をしていた。無理をしなくても良い」

 ミュラの言葉にハヤテは首を振る。

「無理なんかしていません。僕はただ、この世界のことを何も知らないから……どうやってこれから生きていけば良いのか不安に思っただけです。魔法とか、魔力とか……そのこともちゃんと分からないし」

「なら、なおさら元の世界に帰った方が良いのではないか? 少しでも不安な気持ちを持ったまま生きるのは辛いだろう? ハヤテの帰りを待つ……家族もきっと心配する」

「……そんな人は、居ないんです」

 そう自分で言葉にすると、目の奥が熱くなって涙が溢れそうになった。出会ったばかりの人の前で泣くのはみっともない。そう思ったハヤテは、くちびるをきつく噛んで涙を堪えた。

 苦しげなハヤテの様子を見て、ミュラは何かを感じ取ったのか、自分より低い位置にあるハヤテの頭をぽんぽんと撫でた。

「分かった。人は誰しも何かしら事情を抱えているものだ。ハヤテ、私は君を歓迎する。是非、この世界で生きてくれ」

「……ミュラさん、ありがとうございます。僕、ちゃんとこの世界で生きられるように努力しますので……」

「ハヤテは真面目だな。気に入った」

 ミュラは微笑む。耳が隠れる長さの金色の髪が太陽の光を反射して、きらきらと輝く。その姿は、まるで天使のようだった。

「あの……ミュラ様」

 まだ膝をついたままだった男性が口を開くと、ミュラは大袈裟に肩をすくめた。

「コール、まだ居たのか?」

「ミュラ様、このコールはミュラ様のお世話係として、どこまでもずっとおりますとも」

「相変わらず仕事熱心だな」

 そう笑いながら言うと、ミュラは何の前ぶれも無く、ハヤテをひょいと横抱きにした。突然の事態に、ハヤテは小さく悲鳴を上げる。

「み、ミュラさん!?」

「ハヤテは軽いな」

 そんなことは無いだろう、と思いながらハヤテは身をこわばらせる。動いたら地面に落とされる気がしたからだ。

 ミュラは真っ直ぐに馬の方に向かう。そうして傍に辿り着くと、ハヤテを抱えたまま器用に馬に飛び乗った。ハヤテは二度目の悲鳴を上げる。

「ミュラさん!」

「ははっ。新鮮で良い反応だ」

 ハヤテは自転車に乗るような動作で、よく分からないまま馬にまたがる。すると、背後から長い腕が伸びてきてハヤテを包む。ミュラは手綱を握っているだけなのに、まるで抱きしめられているような体勢だ。思わずハヤテは赤面した。

「コール! 私は先に戻る! お前も急ぎ戻ってハヤテの部屋を用意しろ! もちろん、もてなす準備も忘れるな!」

「はっ! かしこまりました!」

 馬上のミュラから指示を受けた銀髪の男性、コールはまた深く頭を下げた。それを見届けてから、ミュラは馬をゆっくりと発進させた。ぐらぐらと身体が揺れて怖い。ちらりとハヤテは振り向いてミュラを見ると、彼はハヤテとの距離を詰めて身体をぴったりとくっつけた。背中に熱い体温がぶつかって、ハヤテの心臓がどきりと跳ねる。こんなに他人と距離を近づけたのは初めてだ。近付いてくれたミュラのおかげで安定感は出たが、緊張する。

 自分の心臓の音がミュラに聞こえてしまうのではないかと心配になったハヤテは、自分の声で誤魔化そうと思い、前を向いたまま口を開いた。

「えっと、この馬はコールさんのものですよね? 僕たちが乗ってしまったら、コールさんはどうやって移動するんですか?」

「ああ、コールも優秀な魔術師だ。馬の一頭や二頭、簡単に馬小屋から呼び出すことが出来るから問題無い」

「へぇ……あの、魔法使いと魔術師は違うんですか?」

「ああ。魔法使いはただ魔法を使う人々のことを指す。対して魔術師は魔法を仕事に使っている人々のことだ。まぁ、名前が違うだけで大きな差は無い」

「ミュラさんも、魔術師なのですか?」

 なんとなくそう思い、ハヤテは振り返って軽い気持ちで訊ねた。だが、ミュラは一瞬ぽかんとした表情になったかと思うと、堪えることなく笑い出した。ハヤテは首を傾げる。そんなハヤテに「悪い、悪い」とミュラが言う。

「そのことも説明しないといけないな」

「ミュラさん……?」

 馬は自分が帰る場所を知っているかのように真っ直ぐと草原を進む。まるで手入れを怠っていないかのように整った景色だ。まるで誰かの手によって作られたような……。

「さあ、そろそろ着くぞ」

「え……」

 ハヤテの目に飛び込んできたのは、石垣だった。それも、人がよじ登れないほどの高さがある立派なものだ。日本の山城の図鑑で、こんな石垣を見たことがある、とハヤテは自分の記憶を辿る。

「……お城みたいですね」

 ハヤテがそう呟くと、ミュラは楽しげに答えた。

「みたい、じゃなくて城なんだよ。ハヤテ」

「え?」

 どういうことか訊ねる前に、馬は大きな門の正面で止まった。その周りには紅色の制服のようなものを身にまとった人間が十人ほど立っていて、ミュラの姿を見るなり、大きな声で全員がこう叫んだ。

「ミュラ王子様、お戻りになられました!」

「お帰りなさいませ! ミュラ王子様!」 

 ハヤテはぎょっとしてミュラを見る。彼は堂々と胸を張り馬上から笑顔を見せている。

「ハヤテ」

「っ! はい!」

 ハヤテは姿勢を正す。この展開は、まさか……!

「私の城へようこそ」

「私の、城……」

 ミュラは馬から飛び降りると、大きな手をハヤテに向かって差し出した。

「私はこの国の王子、ミュラ・ガベラーだ。ハヤテ、王子として君を歓迎する」

「……は、はぁ」

 混乱する頭のまま、ハヤテは目の前の逞しい手のひらをそっと握った。

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