第1話 ひとりカラオケ

 無人の受付けの前を通過して、予約した部屋に向かう。最近になって、カラオケの予約はスマートフォンのアプリひとつで出来てしまうから便利で良い。それまでは受付けの店員に「おひとりですか?」と怪訝そうな顔で訊ねられたり、部屋が空く順番待ちをしている同年代の集団に「ひとりでカラオケなんて楽しいのかな?」と大きな声で言われたりして嫌な思いをしたことがあるハヤテだ。

 今はひとりカラオケは随分とメジャーになっているので、そこまで気にはしないが、やはり他人と必要以上に関わらないで良いというのは気が楽だ。ハヤテはドリンクバーのコーナからプラスチックの透明なコップを取って、その中に氷とオレンジジュースをそそいでから、自分が予約した部屋に入った。

「……やっぱり落ち着く」

 コップをテーブルに置き、背負っていたリュックを安っぽい黄色いソファーの上に放り投げて、ハヤテはため息を吐いた。近くの部屋からの他人の大きな歌声が聞こえてきて、それが今日は嫌に頭に響く。自分が歌う時はマイクのボリュームを下げるのを忘れないようにしよう。そう思いながら、身に付けていたコートを脱いで、それをリュックに被せるように置いてから、ハヤテは深くソファーに腰掛けた。

 このカラオケボックスに居られるのは三時間だ。本当はもっと長い時間を、この部屋で過ごしたいが、長時間の外出は叔母の機嫌を損ねてしまう。アルバイトの場合は早く帰ると、ねちねちと嫌味を言うくせに勝手だ。言い返したい気持ちはあるが、ハヤテにはそれが出来ない。何故なら、ハヤテは叔母の完璧な支配下に置かれてしまっているからだ。

 ハヤテの実の両親は、ハヤテが五歳の時に事故で他界している。道路に飛び出して来た子供を避けようとハンドルを切った際に電信柱に衝突したという痛ましい事故だった。運転していた父親、助手席に乗っていた母親、ふたりとも助からなかった。保育園に居たハヤテだけが無事で、ハヤテは一度に大切な家族を失ってしまったのだ。

 その後、ハヤテは親戚中をたらい回しにされた。小学校の転校を何度も経験し、多感な時期を寂しさに支配されて育った。なので、中学に上がるのと同時に母親の妹が「私がハヤテ君の面倒を見るわ」と名乗り出た時は本当に嬉しかった。やっとまた「家族」の仲間に入れてもらえる……そう思って感動したハヤテだが、その希望は叔母の家に連れて来られた瞬間に崩れ去ってしまうことになる。

「あんたはこの家で働くの。良いわね?」

 外では見たことのない叔母の冷たい表情を見て、ハヤテの背筋にひやりとしたものが走った。それは、いつも親戚の輪の中では絶対に見せない、本当の叔母の顔だった。

「世間体が悪いから高校には行かせてあげるわ。けど、その先は働くのよ? 間違っても大学に進学したいだなんて言わないでね。あんたに使う無駄な金は無いから。タダで住ませてあげる代わりに、掃除、洗濯、することは分かっているわよね?」

 そう告げられた日から、ハヤテは奴隷のように叔母に良いように扱われ続けた。高校に進学と同時にアルバイトを始めて、稼いだ給料をすべて叔母に渡した。高校を卒業と同時に就職をする予定だったが、その会社は不景気の影響で倒産。仕方なく、高校時代からのアルバイト先の近所のコンビニで、ハヤテは今も働いている。もちろん、そこで稼いだ給料の多くは「家賃」として叔母に吸収されることになるのだが。

 何度も叔母の家を出ようとした。けれど、その作戦は勘の鋭い叔母にすべて阻止されてしまった。今、ハヤテは節約生活を続けている。いつも持ち歩いているリュックの底には現金の入った封筒が隠してあり、もうすぐ十万円貯まるところだ。その金額に達したら、夜中にこっそり家を出よう。そうハヤテは決心して、今は大人しく叔母の奴隷になりきっている。

 貯金をしているハヤテの唯一の楽しみが、月に一度のひとりカラオケだ。金額の安い昼間の時間帯で、時間は決まって三時間。ドリンクが飲み放題の店舗を選んでいる。小さな小さな、密かな贅沢だ。

 昔から歌うことが好きだった。

 ハヤテの遠い記憶の中では、笑顔の両親がハヤテの歌声を両手を叩いて褒めている。幼く舌足らずな声なのに、両親は「ハヤテはきっと歌手になれる!」と心からの言葉を与えてくれていたのだ。その思い出が、ハヤテの心を支えている。高校時代の選択授業では音楽を選び、基本的な声の出し方や感情の込め方は学んだ。

 本当は、もっと歌を勉強したかったが、進学は許されない状況だったため、それは叶わぬ夢だった。今は「歌手になりたい」という大きな願望は持っていない。だが、自分の歌声を求められるような場面に立てたら……そんな淡い憧れは胸の奥にある。また、あの頃の両親のように、自分の歌声を褒めてくれる人が現れたらと思うと、どこか心が温かくなるのだった。

「まずは、喉を慣らそう……」

 ハヤテはひとりそう呟き、楽曲を探すための端末を操作し、いつも最初に歌うことにしている、しっとりとしたバラードの曲を予約した。数秒の間を置いて聴き慣れたメロディーが室内を満たす。備え付けのマイクを手に取り、その音量を手元の端末を使って調整しながら、ハヤテは立ち上がって「ふう……」と小さく息を吐いた。

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