王子を癒す天使の歌声

水鳥ざくろ

プロローグ

 暖房の熱気が届かない玄関で、若葉ハヤテはスリッパを脱ぎ、黒いスニーカーを履いて外に出る準備をしていた。

 季節は冬。クリスマス前の冷えた空気が頬に刺さる。先月、百円均一のショップで買った薄っぺらい手袋を忘れたことに気が付いたハヤテだが、わざわざ一度履いたスニーカを脱いでまで取りに行くのは面倒だ。仕方が無いからこのまま行こう。そう思い玄関のドアノブに手を伸ばしたハヤテの背中に、温度の低い声がぶつけられた。

「ハヤテ。出かけるのね?」

 声の主は叔母だった。ハヤテの心臓がびくりと飛び跳ねる。嫌な汗がセーターの中でつう、と伝うのが分かった。それを悟られないように、ハヤテは平静を装ってゆっくりと振り向き叔母の目を見た。

「はい、図書館に本を返しに……ついでに違う本を借りてこようかと思って」

「そんなことはどうでも良いわ」

 眉間にシワを寄せて叔母は、まるで散らかったゴミを見ているかのような顔でハヤテに言う。

「今月、家に入れるお金が少なかったでしょう? 困るのよね、入れる金額を月によって変えられてしまったら。こっちにだって都合があるのよ」

「すみません。先月、風邪で休んだから、それでその分お給料が減ってしまって……」

「ふん。あんたは居候なんだから、することはちゃんとしてよね。そのことを忘れずに生きなさいよ。二十歳になるまで面倒を見てあげたんだから。高校にだって行かせてあげたんだから」

「……はい。では、行ってきます」

 叔母の鋭い視線の気配を感じながら、ハヤテは急ぎ足で外に出た。寒い。そう感じたハヤテは無意識に両手を茶色いコートのポケッとに突っ込む。小さく息を吐けば、それは白い塊になったかと思うと、一瞬でふわりと消えてしまった。

「……帰りたくないな」

 ぽつりとそう呟いた時、鼻のてっぺんにひんやりとした感覚が走った。雪だ。雪がぽつぽつと降り出してきた。この調子だと帰る頃には降る勢いが強まっているかもしれない。背負った深緑色のリュックの中には折り畳み傘は入っていない。取りに帰るのは、嫌だ。あの叔母に会うのは極力避けたいと思ったハヤテは、早足で目的地に向かう。目指すは図書館、ではない。ハヤテが唯一、自分自身の心を解放できる場所……駅前のカラオケボックスだ。

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