大事な手帳

和響

探しモノ

 秀樹は机の中を引っ掻き回し、黒い手帳を探していた。一番上の引き出しはインクの切れたボールペンやちびた消しゴムなど、ほぼほぼゴミ同然のものしか入っていない。チッ。ここじゃないのか。秀樹は舌打ちをして乱暴に引き出しを閉めると、別の引き出しを引き抜いた。古いラジオにCDケース。この引き出しもガラクタばかりだ。


 秀樹はスマホを取り出し時間を見る。午後三時三十分。まずい。四時になったらこの家の住人が帰ってくるはずだ。焦る気持ちで次々と引き出しを開け黒い手帳を探す。でもどこにも黒い手帳なんて入ってなかった。


 ——ガセネタだったのか。


「くそっ」と秀樹は吐き捨てる。秀樹が探している黒い手帳がこの机の中にあると教えてくれたのは思いがけない人物だった。仕事仲間の遥子だ。


 遥子は容姿端麗な美少女で、うちでは一番人気のスタッフだった。頭の回転が速く、良く気が効く上にテクニックも最高。指名サービスなんてものはないのに、遥子さんは今日いないの? と訊く客もいるくらいだ。


「遥子ちゃんに限って嘘はないだろ?」


 秀樹はもう一度一番上から引き出しの中身を確認する。黒い手帳。色合い的にもあればすぐ目につくはずだ。でも、どこを探してもやはり黒い手帳なんてものは入ってなかった。


 午後三時五十五分。

 秀樹は今日のところは諦めて机から離れた。



 翌日。

 職場で秀樹は遥子にさりげなく近づき、耳元で囁いた。


「遥子ちゃん、あの机の中に黒い手帳なんて入ってなかったけど」


 遥子は振り向くことはせず、小さな声で言葉を返す。


「うそ。あるはずだよ? だって、私見たもん。あそこに黒い手帳を入れてるとこ」

「でもどこを探してもガラクタばかりだった」

「そんなはず、ないんだけどなぁ〜」


 遥子の最後の言葉と同時にミントの香りが漂い、秀樹はくんと鼻を動かした。かわいい女だ。美少女と形容するには少しばかり年齢が経っているけれど、それでもやはり、この女は美少女というにふさわしい。


「もう一度、明日見に行ってみるよ」と、秀樹は遥子に言った。遥子は、「ふふふ」と笑みを漏らし、「私も一緒に行こうか?」と答える。


「え? 一緒に……?」

「うん。あれ? なんか、都合でも悪い?」

「い、いや……」


 秀樹の身体が熱を持つ。あの机のある部屋にはちょうどいいサイズのベッドが置いてある。もしも遥子と二人きりであの部屋に入ったとしたら、俺は冷静さをを保てるだろうか。強張り始めた身体を無理やりに動かして、秀樹は遥子から一歩離れた。


「いや、俺一人でもう一回行ってみるよ」

「ふうん。そお? じゃ、頑張って」


 遥子は意味ありげに微笑むと、スタスタと職場の奥へと消えていった。ほんのり甘くとろけるような残り香が、ここに居なくなった遥子の存在を、さらに色濃く残していた。


 ——遥子ちゃん、遥子ちゃん、遥子ちゃん……


 秀樹は心の中で何度も遥子の名前を呼び、かぶりを降る。遥子ちゃんのことが好きだとバレてはいけない。俺は、真っ当な人間なんだ。その為にも——。


「あの手帳が必要だ」


 次の日。

 秀樹はまた机の中を探していた。改めて引き出しの中を見る。秀樹自身が引っ掻き回したが為に、机の中は酷く荒れている。


「モノが多すぎるんだよ」


 秀樹はそう呟くと、引き出しの中身を床にぶちまけた。散乱する文房具。いるいらないを繰り返し、使えない文房具類はゴミ袋に詰め込む。何度かそれを繰り返し、引き出し全てが綺麗さっぱり見やすくなっても、探し物の黒い手帳は見つからなかった。


「やっぱりここにはない」


 でも、遥子は見たと言っていた。この机に黒い手帳をしまったところを。それが本当だとすればあるはずなのだ。黒い手帳がこの中に。


 秀樹は机の下を覗き込んだ。もしかして引き出しではなく、机に張り付いているのではないかと思ったからだ。


「あっ」と、秀樹は声を出す。あった。黒い手帳は透明の袋に入り、机の下にガムテープでくっつけてあった。


「でもなんで?」


 ——誰がこんなことを?


 考えられる人物は一人しかいない。


「俺か——」


 無くさない為に。盗まれない為に。秀樹は自分でここに貼り付けたのだ。


 秀樹はびりっと机の下から手帳を剥がすと、透明なビニール袋を乱暴に破り捨て、中を確認した。先代から引き継いだ黒い手帳。自分の命よりも大事な手帳。ペラペラと何度もページをめくり、手を止める。そこに書かれた文字を読み、秀樹は鈍くなった脳味噌から曇りを取り外していく。


『黒沢遥子は、秀樹さんのことが大好きです。秀樹さんとわたしは夫婦です。年齢が離れていても、秀樹さんとわたしは夫婦なのです』

『俺は遥子ちゃんの夫。黒沢秀樹です』


「そうだった、のか——」秀樹はなんとなく思い出し始める。でもそれをまた黒い靄がかき消していく。


 今年で五十五歳の秀樹は半年前の早朝、仕入れ先へ向かう道中で交通事故に遭い、認知機能が低下していた。事故当時、飲酒運転をした若者の暴走事故は新聞でも大きく取り上げられた。運転していたのは十九歳の青年だった。飲酒をしていい年齢ではない。


『乗るなら呑むな、呑むなら乗るな』


 なぜ、こんな簡単なことができない輩がいるのだろう。事故を起こせば誰かを傷つける。自分の命だって同じこと。加害者家族が謝罪に来たとき、遥子は奥歯を噛み締めた。加害者の若者達は即死だった。自分の夫は頭部外傷後、若年性認知症になってしまった。幼い頃から憧れ続けていた真面目なお兄さん。白い割烹着を着て厨房に立つ秀樹のことが遥子は昔から好きだった。それなのに。


 先代から受け継いだ料理旅館は今でも順調にまわっている。調理スタッフは若い従業員に任せればいいし、今年で二十八歳の遥子は若女将として店に立っている。日常生活は問題なく過ごせるはずなのに、秀樹は記憶が時々混濁し、遥子との関係も自分の立ち位置も忘れてしまう。


 座り込み茫然と黒い手帳をみつめる秀樹の背中で「みつかった?」と、遥子の声がした。


「ああ、うん」と秀樹は振り返る。友禅染の藤色の着物。秀樹がちょうど一年前にプレゼントしたものだ。でも秀樹はそれも忘れている。


 遥子は秀樹に近寄り、すぐ隣で腰を下ろした。一瞬にして身体が固まる秀樹。その驚くような顔を見て、遥子は少し悲しげに微笑む。


「大好きよ、秀樹さん。忘れてしまってもいいの。何度でも思い出せばいいだけなのよ」


 秀樹の肩に遥子の頭が寄りかかる。秀樹はその重みを心地よいと思った。この人のことが好きだ、と唐突に思いが胸に溢れ出る。そっと遥子の頭に手を添えて、秀樹は言った。


「俺も、遥子ちゃんのことが好きだ——」


 思い出した。俺は遥子ちゃんのことが好きだった。親子ほど歳が離れていても、職人気質で面白味もない俺を好きだと言ってくれた、今は亡き料理長の娘、遥子ちゃんのことが。そして遥子ちゃんは僕の大事な妻なのだ。探し物はみつかったと、秀樹は思った。


「お父さんのこの手帳、大事にしまっておかなきゃね」

「そうだな、これは何より大事な手帳だ」


 秀樹は立ち上がり、机の一番上の引き出しを開けた。使用可能な文房具類。ボールペンにサインペン、ハサミやカッターナイフが理路整然と綺麗に並んでいる。余計な物のない空間。そこにちょうど黒い手帳一冊分のスペースがあった。


「ここにちゃんと、しまっておくよ」


 いつの間にか立ち上がり秀樹の隣に立っていた遥子はそれを覗き込む。


「秀樹さんの机の中が綺麗になってるっ! これならすぐに見つかるよね?」

「ああ、今度はすぐに見つけるさ」


 幸せだと秀樹は思った。夕陽が差し込む自分の部屋に、愛する女性と二人でいる。それだけで生真面目な男の人生は薔薇色に輝く気がした。


「職場に戻る? それとも——」


 遥子が意味ありげに視線を向ける。その視線の先を見て秀樹はドキンと心臓を昂らせた。「私、着付けは得意な方なのよ」遥子が秀樹の耳元で囁くと、秀樹はさらに固まった。


 いや、まずいだろ。着物の問題じゃない。だって遥子ちゃんはこんなに可愛くて、そしてまだ十代の若い女の子なんだから——。


 秀樹の心の中が読めたのか、遥子はそっと秀樹の頬にキスをした。繰り返す日々の中で、遥子にとっては辛くて甘いキスだった。遥子は秀樹の胸に顔を埋め、言った。


「秀樹さん、わたし貴方のお嫁さんになりたいの」




——了——




 




 

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