第3話④

 厨房脇の貯蔵庫だった大部屋に、少しの手を加えただけの寝室には、貴人を通してもてなせるような設備はなく、私は向かいがてら使用人に命じて目につく椅子や小卓などを持ってこさせた。


 剥き出しの石壁に、簡素なベッドと丸木椅子、書き物机、本棚。ビロード張りの肘掛や、銀細工で飾った丸テーブルは、無骨な部屋の中では異質に浮いた。


「魔術師は木の洞に住んでいるとまで聞いたが」


 殿下は部屋の中を見渡して笑った。せせらうような、悪戯っぽい声の響きには、過日と変わらない気安さがあり、私は胸中に少しばかりの寂寥を抱かずにいられなかった。いっそ恥知らずの叔母など捨て置いて、今すぐに膝を屈してしまおうか?しかし除くべき問題は、最早彼女ひとりの責任に留まるものではなくなっていた。


「殿下の目にはここも厩に映るでしょう」


 私はこの家で最も上等と思われる椅子を勧めたが、殿下は私が普段使っている丸木の椅子をずりと引き寄せて座った。


「私は戦場でさえ寝屋があり、庶人よりも良いものを食べた。負傷すればそうして蓄えた血肉も削れ、毛布の血汚れは虫や鼠が食い破ったよ。そうだな、見たところ犬小屋くらいはいいところだ」


 私はベッドに腰かけ、持ち込んだ椅子には見知った顔のロドリゴ卿と、私の知らない青い髪の青年が座った。彼らは殿下の背後、私のちょうど真正面に位置するかたちになり、私は気まずい思いを味わった。


 多くの場合、騎士分は諸侯貴族より格下の位階だが、こと王の騎士ともなれば、私のような下級の貴族よりも立場が上になった。


 私はロドリゴに会釈をしたが、統治すべき土地を持たない勲功爵は尊大な一瞥を寄越してそっぽを向いた。


 ―――間もなく武勇と忠節が家格を繋ぐ手段になり得ない時代が来るだろう。一代限りの栄信は途絶え、口先と邪知が繁栄を貪る世が来る。そして私のような土着の古ぼけた家は、誉れや過ぎたる権勢がなくとも、地元民の支持と血統に根差した縁に頼れば、いつまでも変わらぬ暮らしを謳歌していくことができるのだ。

 彼の子息が、いずれ権力者の寵愛と加護を失い、単なる自由民に成り下がったとき、私やその子孫には、身柄を受け入れてやるくらいの余裕はある。だが、サー・ロドリゴは自らその機会を無碍にし続けている―――


「エリザベス・スミスに会ったか?父親の遺産で爵位を買ったんだ。今は新都中にそういう輩がうようよしている」


 諸々の世間話のある折に、不意に殿下は苛立ちをこぼした。私は彼女が金で地位を買ったことと、富農の三男が戦場で拾った功で成り上がることのどこが違うのかと問いかけそうになったが、目の前の友に配慮してその言葉を飲み込んだ。


「殿下の側に伝手ができたことは私の救いです。そう悪いことばかりじゃない」


 実際私が政治的なしがらみに囚われず、話を通すことができる知り合いは殆ど中央から遠ざかっていた。知った女が遥任貴族になることは、私にとっては喜ぶべきことでさえあったのだ。


「君がこっちに来るわけにはいかないか?」


 少しの間を置いて、殿下は遠慮がちに言った。薄く笑みを作ってはいたが、目つきははっきり本気だった。

 私は抱いていた予感が的中してしまったことを胸の中で憂いた。


「私が軍を率いる間、幕府にはいつも君がいた。助言と事務、それがどれだけ私を援けていたと思う?もう一度共に来て、私のことを支えて欲しい」


 私は殿下の過剰な期待に満ちた目を、真正面から受け止めることができなかった。


 果たして富貴な知り合いに頼んで食糧や兵卒や軍馬やその他の物資を融通してもらうことは、私でなければできないことだっただろうか?


 敵の将軍や官吏に知り合いがいたり間接的なつながりがあり、そういう人物を寝返らせたり、布陣や兵站などの弱点を探ってはどうかと提案するとき、もう既にその以前にはこちらで根回しを済ませてあって、殿下の派遣した密使や配下が改めて交渉し、引き出した条件は、実際のところいいように吹っ掛けられていただけだったと知れば、殿下は我々古い貴族のそういう慣習を憎むだろう。


 殿下が好んで側に置く清廉な文士や、騎士上がりの高級官吏たちには不得手でも、殿下が領地に帰してしまった、或いは自ら殿下の元を去った貴族たちであれば、私にできることは大抵できるのだった。


 ただ少しばかり私腹を肥やすこと、人を囲うこと、服や持ち物を豪奢にしたり、頻繁に宴を開いたりすることなどに目を瞑ることができ、かつそれが我々の友情を傷つけないのであれば、私は私の知り合いで、比較的真面目で善良な者を幾人か推挙するつもりでいた。


「こうして直接頼むのは、君を尊重してのことだ。命を下して召還することも、大体的に辞令を発してしまうこともできた。公に決まったことに、君は強いて逆らうまい」


「私は殿下を敬愛しております。忠誠は幾星霜経てもゆるぎなく―――しかし、果たして私にその器があるでしょうか?戦中は、殿下の名の下に集めたものを、右から左に流しただけに過ぎません。虎の威は狐を大きく見せるものです。それでも私でなくてはいけませんか?」


 友情に配慮したと殿下が言うのであれば、私のほうから持ち掛けて代わりの者を紹介することはできなかった。案の定、殿下は私の器よりも、自分がもう愛されていないのではないかということを疑った。


「地位も栄誉も欲さない、幼いころからそうだったよ、君は。そういうところを好きになった。だけど、俺からの贔屓ももういらないなら―――」


「まさか。喜んで賜ります。所用が終われば、すぐにでも」


 殿下は少し苦笑して、しかしどこか嬉しさや、からかいのニュアンスを含ませた口調で問うた。


「叔母君のところへ行くのか」


 もし叔母のことがなくとも、素直に任を受けるつもりはなかったが、しかし殿下にとって、その口約束は既に絶対のものとなっているようだった。私は喉元にしこりを残したまま、努めて平静に「ええ」と答えた。


「ひとつ忠告するとすれば、あんなもの最早怪文書だ。私は魔術に詳しくないが、ひとりで行くには危険極まりないぞ」


 殿下は諦念の滲む苦笑いを浮かべつつ、背後の椅子に座っていた供回りのひとりを指し示した。青い髪の青年が立ち上がり、高い頭を慇懃に低くまで垂れた。


「精兵をひとり残していく。騎士分ではないが、直に叙勲されるはずだった。君の“冒険”につき合わせ、大いに箔をつけさせてやってくれ」


 その晩我々は大いに酒を飲み、歌ったり、揉み合ったり、呂律の回らない舌で議論を戦わせあったりした。

 宴もたけなわを迎えると、武闘派の連中が腕相撲のトーナメントを組み始め、私などは初戦で負けたが、殿下とロドリゴが競り合った決勝戦は最骨頂に白熱した。接戦の末、殿下が卓の下でこっそり相手の腹を蹴り圧すという荒業で勝利し、ワインばかり飲んでいたロドリゴは、祝杯に殿下の赤い髪に真っ赤な嘔吐をプレゼントした。

 陰気な館は明るい歓声に沸き上がり、私は久しぶりに心から楽しい夜を過ごしたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る