第3話 戮王子、エドマンド
奇しくもその手紙を私自身が読むことができたのは、雨のそぼ降る未明だった。
その夜、老いた羊の番が珍しく仔を産み、私は産後の処理と、新たな財産と引き換えに、既に食べごろになっていた年長の仔羊を肉にする作業に追われていて、屋敷に使者が来ていることに気づかなかった。
むっとする獣の臭気と、エプロンをべっとり濡らす血の鉄っぽいにおいを漂わせて帰ると、使者の女とその数人の従者は私を見るなりぎょっとし、ひとり騎士分と思しき巨漢は、外套の下に吊り下げていた剣をすらりと抜いた。
「下がれ」
騎士の男は銅鑼声でがなり、私は言うとおりに一歩引いた。初めは崩れ者の強盗を疑ったが、彼らの服の仕立ての上等なこと、女の顔にいささか見覚えがあることに気づくと、同時に彼女も私が悪意の持ち主でないことに気づいたようだった。
「エリザベス。何の用でこんなところへ?」
私はかつて一定の関係にあった古物商の娘に笑いかけ、大げさに両手のひらを振って見せた。女は私が自分をファーストネームで呼ぶのを快く思っていないようだったが、苦い顔をしつつも昔の二人の合図で答えた。
「お久しぶりです、リバーズエッジ公」
騎士は私が武器を持っていないことがわかると、ある程度まで警戒を緩めてくれたが、自分の主人らしき女が私に応じるまでは、忠実な猟犬のように剣を構えたままでいた。通常よりもかなり幅広の剣を扱う所作は精練されていて、鞘に納めるとき、柄を一度逆手に持ち直す手癖を見せたが、それさえも実に堂に入っていた。さぞ名のある騎士なのだろうが、しかしいくら裕福な家の娘とはいえ彼がエリザベスに従うような態度でいることが少し気にかかった。
「久しぶり、だけどよくここを知ってたね、リズ。君には伝えてないと思ってた」
私は彼女がぎこちなく差し出した小指に自分の人差し指を絡めた。たぶん今年で二十五になる女の、少し骨ばりかけた指は冷たく震えていて、私の血まみれの指は柔らかい皮膚の上でぬるりと滑った。
「昨今はエバンズ公と呼ばれています。貴方と同じ男爵になりました」
「わ、それはおめでとう。後で何かお祝いを送るよ」
私は彼女に屋敷へ上がって暖をとることを勧めたが、彼女は躊躇いがちに断った。
「今日は王子殿下のご依頼で、こちらの書簡を届けに来たのです。できれば手を洗って、何か暖まるものをいただきたくはありますが、夫の待つ身でもありますから―――」
多才で勉強家だが、夢見がちな乙女でもあった少女が、結婚し、貴族の末席に名を連ね、騎士を従えて王子からの手紙を届けにやってくる―――私は時が経ったことを実感した。
ただ土地の広いばかりの我が家には、家畜以外、財産と呼べるものはなく、せめて道中の路銀の足しと、宿を貸してくれる良い家の心当たりに紹介状を書き、それから殿下との思い出の品などをいくつか届けてくれるよう頼んで渡したが、後者に関して彼女はいい返事をしなかった。
「王子殿下は、自らこちらへ行啓なさると仰られました。思い出話はそのときになさってください。仔細は手紙に書かれたと」
それで私は、届いたばかりの手紙を血まみれのまま読まなければならなくなった。
気まぐれで、衝動的な幼馴染の青年は、例え国を統治する立場になろうとも、いつまでも少年時代と同じ気安さで私を欲していることを知るのだった。
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