クレイス
推川スイカ
πρόλογος
「…ありがとう」
背後から彼の声が聞こえた。
伝えられたのは感謝の五文字
私は何を言われたのかわからず、一瞬戸惑う。
その言葉の真意を知るべく、私は彼の方へと体を向けた。
けれど、彼は私の方なんて見てなかった。
彼の見つめる先には人の形によく似た化け物の集団。
漆黒の肌に漆黒の兵装を纏っている。手や足は武器と一体化しており、胴体も漆黒の鎧で覆われている。頭部は何も被っておらず、剥き出しの状態だが眼が血のように赤黒い。
何に対し憎悪の感情を抱いているのかはわからないが、目を合わせるのも恐ろしいほど怒り狂ったような眼光でこちらを威圧してくる。
この化け物によって、ここは血生臭い戦場へと化した。
私達が命を削り、決死の覚悟で戦い続けたその戦場でどれだけのものが失われただろうか…。
楽しかった友人との思い出、ライバルと高めあった努力の日々、そして愛する人までも。
全てが一瞬で塵となった。
私達が築き上げた希望はいとも容易く破壊され、絶望が私達を襲った。
私はみんなが幸せに生きてくれればそれで良かった。みんなが幸せに生きてくれれば私の心は救われた。でももう…私の心は救われない。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして…!
どうして…私達は幸せになれないの…?どうして…生きることすら許されないの…?
私は心のなかで嘆き続けた。それほどまでに私の心は憔悴しきっていた。あと一歩で精神が崩壊する、その手前。
そんな精神状態でありながらも私はまだ自分の精神を保ち続けている。
残った仲間と共にこの地獄から脱出する。その僅かな希望だけがこの足と心を動かしているのだ。
ふと我に返り、自分がある疑問を抱いていたことを思い出した。
そして、怪物の方へと体を向けている彼にあの『ありがとう』の真意を訊ねる。
「ど…うして、ありがとう…?」
消え入るような私のか細い声。
声を出すのが奇跡だと思わせるほど、小さな声だった…
彼はその声に気づき、顔を少しだけこちらへ向けた。
しかし…
「…」
彼は少し俯き、黙り込む。まるで何かを隠すように。
彼のその反応を見た私の頭には一つ嫌な考えが浮かんだ。
そうであって欲しくない。そう思いながらも浮かんだ嫌な考えを口にする。
「…まさか…アレと…戦う気なんですか…?」
私はありえないとでも言うかのように彼に詰め寄った。
だけど、彼は表情を変えずこちらへ視線を送ってくる。
何も言ってくれない…肯定ってことなんだろう…
そんなの…
「なんで…?一緒にここから逃げ出すって。みんなで…みんなで約束したはずです…!なのになんで………なんでなんですか!」
私は戸惑いを隠せない。必死に彼に『なんで』と問う。
でも彼は何も言ってくれない。
何も言ってくれない彼を見て私は、彼から視線を落とし少し顔を下に向けた。
なぜ視線を落としたのか。それは、今の彼と視線を合わしていると心が痛くなってしまうからだ。
戦場に立とうとしてる彼の顔は、まるで何かを諦めたかのような顔をしていて、とても『憂鬱』さを感じる。
ありったけの絶望を味わって、もがいて苦しんで、それでもどうしようもなくて、そして諦めた。あくまで私の想像にしか過ぎないけれど、私には彼がそんな過去を辿ってきたような、そんな風に見えてしまった。
すると…私の右肩に彼が優しく手を置いた。
私が顔を上げると、彼の顔から『憂鬱』さが抜けていた。
「ごめん。でも、そのみんなを逃がすためには目の前にいる化け物を始末しないと逃げるための時間は確保できない。必要なことなんだ。」
彼ははっきりとそう言った。
強い眼差し、強い口調。それを見た私は忘れていたことを私は思い出す。
いつだって、彼が感情に支配されたことなんて一度もなかったことを。
怒りや悲しみ、喜びや嬉しさも。彼はコントロール出来ている。いくら負の感情が渦巻こうが、彼は『憂鬱』そうな表情を浮かべるだけ…。
ただ冷静に目の前で起きている問題を対処していく。
それが彼だ。
けど、その冷静な判断を私は認めるわけに行かないのだ。私にも譲れないことがある。
「そんなこと私は認めません…!君が戦うなら私も戦います!」
私は強い口調で言い放った。
精一杯の強がりだったかもしれない。でも彼一人を戦わせる訳にはいかないという強い思いが私の中にはあった。
その時の私の表情は覚悟に満ち溢れていたはずだ。
彼もパッチリとした丸い目をさらに丸くしている。
3秒後、彼はにこやかな笑顔を見せながら私の方へ向き直った。
「やっぱり君は変わってない。」
「え…?」
彼の唐突で意図のわからない発言をきき、私の頭の上に大量の疑問符が浮かんだ。
しかし、それを気にも止めず彼は話し続ける。
「真っ直ぐなままだ…。どんなに辛くても、苦しくても、決して諦めない。その諦めない心に僕は何度も何度も救われたんだ。」
彼は水晶のような綺麗な瞳でこちらの顔を真っ直ぐ見ながらそう言った。
その瞳の輝きに私は気圧される。
確固たる決意のようなものを感じさせられるその瞳。
私はその場で硬直してしまった。
彼の言葉はまだ続く。
「理不尽な現実に抗うことを諦め、ただただ闇の底に沈んでいった僕を君は見逃さなかった…。
生きることを諦めないで。君はそう言って、闇の底に沈んでいた僕の手を握り、強く強く、腕が痛くなるほど引っ張ってくれた。
そして、君のおかげで僕は知ることが出来たんだ。この世界にはまだこんな素晴らしいものがあったんだって。」
彼の口から私に対しての感謝の言葉が紡がれていく。
彼は戦場という場所に似つかない天使のような微笑みを浮かべ、私を見ていた。
その表情が私には酷く悲しく見えて、切なく見えて心がとてつもなく苦しくなる。
なぜならわかっていたから…彼が今、私に感謝してるのは私に別れの言葉を伝えるためなんだって。
だめ…行かないで…
そう思っても、悲しさが心を覆って上手く声を出すことが出来ない。
私は胸に手を当てることで、かろうじて彼と顔を合わせることができていた。
彼はまだ優しく微笑んでいる。
優しく微笑みながら口を開いた。
「人の温かさを…努力することの意味を、そして人を愛することを…。教えてくれたのは君なんだ。」
やめて…それ以上言わないで…
彼の優しい声、優しい笑顔、優しい言葉で私の心はますます苦しくなっていく。
彼の優しさに触れられるのがこれが最後なんだって、そう思いたくなかった。
そんな私の心の内など知らず、彼はまた私に優しい声、優しい笑顔で優しい言葉をかける。
「僕の物語を始めさせてくれたのは紛れもなく君なんだよ。」
彼のその言葉を聞いた途端、私は膝から崩れ落ちた。そして、あっという間に目頭が熱くなり、大量の涙が頬を流れていく…。
それを見た彼が、私と目線を合わせるために腰を落とす。
俯いていた私が涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼に向けると、彼は優しく語りかけてきた。
「大丈夫かい…?」
私を本気で心配しているようで、彼の表情は笑顔から真剣なものへと変わっている。
「大丈夫なわけないじゃないですか…!ここで君と別れたらもう二度と会えないかもしれないんです…!それなのに大丈夫なわけ…ない…」
もう、私は顔だけでなく感情までもぐしゃぐしゃになっていた。
声だって酷く震えている。
それを見た彼が再び、私の右肩に手を置く。
「僕だって悲しいよ…」
彼も震えた声でそう言うと、彼の左目から一粒の涙がほおを伝った。
私は少し驚く。彼が人に涙を見せたことなんて一度もなかったから。
そういえば、彼の笑顔だってまだ数回しか見たことがなかった。
彼がこんなに感情豊かになれたのも私のおかげなのかな…?
でも、彼がここでいなくなってしまったら、彼の笑顔も泣き顔も…全部全部見ることなんてできなくなってしまう…
そんなのは絶対に嫌…。だから今ここで、彼を止めないと…!
「だったら、みんなで逃げましょう。その先で…」
「それはダメだ!」
私の言葉は彼の大きな声に遮られる。
私は一瞬、体をビクッと震わせた。
「ごめん…でも、仕方がないんだ。今はまだ奴らに気づかれてないけど、後もう少しでこちらにやってくる。ここから門まではまだ距離があるし、君は先の戦いで大分傷ついてる。」
そう、彼の言う通り、私は心も体も既に満身創痍。戦うどころか、動くことすら少し弊害があるくらいだ。
「それに僕はまだ
彼は私を必死に説得していた。
確かに、
「ですからなんで…!私だけを逃がそうとするんですか…!私だってまだ…戦えます!」
嘘…ほんとは分かってた。この体で戦うことなんてできないって。彼を一人にしたくないだけの言い訳だ。
それに気づいてる。彼の判断が正しいことも。
でも、それでも、彼を失いたくない…。
その一心だけで彼を止めようとしている。
その一心だけが私の心を強く突き動かしている。
けれど彼は、それを優しく静止させる。
肩にあった彼の右手は、いつの間にか私の右手を掴んでいて、私の右手は強く握られた。
彼の右手の温もりが私の右手に広がっていく。
泣きじゃくっていた私も、彼に右手を握られて少しずつ落ち着きを取り戻す。
彼は静かに口を開いた。
「僕はここで死ぬわけじゃない。確かに一人で戦うことにはなってしまうけれど、僕は負けるつもりなんてない。むしろ、勝つつもりでいる。
僕達を苦しめた奴らを、理不尽な現実を…この手で終わらせるまでは絶対に死ぬわけにはいかないんだ。」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめ、強く強くそう言った。
彼の目には、さっきとは打って変わって尽きることなき炎が宿っているように感じた。
「これを全て片付けることが出来たら、必ず君に、そしてみんなのもとに戻る。約束してくれる…?」
彼が私の右手を離し、右手の小指を私に突き出した。
彼のその行動を見た私は思わずフフッと笑ってしまった。
「なんだか子供みたいですね。」
私が笑いながら言うと、彼はキョトンとした顔をした。
どうやら、何がおかしくて笑っているのか分からないみたいだった。
私は彼のそういうところが好き。いつもは冷静で無表情な彼が、笑ったり、泣いたりして、感情豊かな一面を私に見せてくれたり、大人っぽい彼が今みたいに子供っぽい一面を見せてくれたりするところ。
そんな彼を見ていると心臓がキュッとなって、彼のことがとても愛おしくなる。
子供っぽい彼を見ていると、私の心がポカポカ温まってきて、完全に落ち着きを取り戻していく。
落ち着いた私は、彼と目を合わせてこうたずねる。
「本当に戻ってきてくれるんですね…?」
私は彼と約束を結ぶ前の最終確認をする。
彼はそれに小さく頷き、肯定の言葉を口にした。
安心した私は、突き出された彼の小指を自分の右手の小指で握った。
すると…近くで低くうなる声が聞こえた。化け物の鳴き声だ。
彼は握っていた右手の小指を離し、周りの状況を確認する。
確認し終わると、私の両肩が彼の両手に掴まれた。そして…
「今から逃がす。覚悟は出来てる?」
彼にそう訊かれ、私は大きく頷く。
そして彼は、
それから数秒経ち、彼は私の方をチラリと見た後、準備ができたことを教えてくれた。
私は小さく頷き、右手を彼に差し出す。彼はその手を同じくして右手で握った。
「準備はいい…?」
「まって…!」
彼が発動を宣言しようとした瞬間、私はそれを止め、彼に抱き着いた。
当然、彼は慌てふためく。
「えっ?何?どうしたの?」
彼がオロオロしているのを見て、私はまたフフッと笑う。
さっきは手の温もりしか感じられなかったけど、今度は彼の体全体の温もりを感じることができた。
でも…その温もりを感じ始めたとき、私の心が激しく痛くなる。
切なさが込み上げてきたのだ。
「ごめんなさい…君と一緒にいられなくなるのがとても寂しいんです………」
私の声は再び震え始め、涙が大量にこぼれた。
私のその言葉を聞いた彼は、私の背中に手を当てて優しく、優しくさすってくれた。
それがとても心地よくて、私の心はまた落ち着きを取り戻していった。
数分、この時間が続いた後、私が彼に
そして…
「
彼がそう唱える。
その瞬間、轟音が鳴り響き、私の周りが白い光で照らされる。
恐らく、設定しておいた道筋をつくるための
そんな白い光に包まれながら、彼は私に何かを伝えようとしていた。
うまく聞き取れない…
聞き取れないまま、
最後に彼が何を伝えたかったのか。その答えは今となってもわからない。なぜなら、彼は私達のもとへ帰ってこなかったから…
約束は果たされなかった。
私は彼を恨んだ。
どうして、私に嘘をついたのかって…
けれど、恨んでも、恨んでも…彼の優しい笑顔が脳裏に浮かんで、やるせない気持ちでいっぱいになった。
だから私は彼を探しに行くことにした。彼がどこかで生きてるって信じて…。
これは、彼を救い、彼に救われた私がもう一度彼を救いに行くまでの物語…。
クレイス 推川スイカ @Xseven1206
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