Episode03:トキノアカメ
イリスには幼馴染みの親友が居る。ヘリオトロオプ髄一の観光ホテルを営むウリンソン財閥の一人息子、アレクセイ。今でこそ互いの家柄の差に隔たりを感じこそするものの、そんなことを気にしなくてもいい幼年期から同じ歳ということもあって今でも交流がある相手だ。
リオとのデートから数日経った頃、ふと思い立ちイリスは彼を訪ねることにした。
近年シークレストからの観光客を増やして繁盛しているホテルは、パッセオ広場の通りに面しており、別棟の改築工事が行われている最中である。
正午過ぎ、正面ロビーを訪れるそこに人影は少なく、これなら仕事の邪魔はせずに済みそうだとイリスは思う。
案の定、アレクセイはチェックを済ませるカウンターで椅子に腰掛け、新聞を読み耽っていた。暇を持て余していたようにその表情は眉間に皺を寄せた仏頂面で険しいが、イリスは気に留めない。
アレクセイは屋号、クラウンズベッドの王冠を象る金のラペルを飾った濃灰のスーツに身を包み、やや長い黒髪を後ろへ撫で付けた出で立ちをしている。無愛想であることを除けば女性受けが好いであろう映える容姿をしていた。
「相変わらず、小難しい顔しちゃって」
声を聴いて顔を上げたアレクセイは眉間の皺こそ緩めたものの、泣き眉に常微笑のイリスとは対照的な胡乱な表情である。
新聞を丁寧に畳み脇へ抱えて立ち上がり、挨拶代わりの拳を合わせる仕草とその表情の温度差は知らない人間が見ると異様でもある。
「ピークを過ぎて暇なだけだ。お前も、それを見越して来たんだろう」
言いながらに側の呼び鈴を鳴らし、駆けつけた同じ出で立ちの従業員へ空きを任せた。
顎先でイリスを隣のラウンジへと誘う。
イリスは厚い絨毯の上を慣れないなと感じながら歩いて、ソファへ向かい合って腰掛ける。
「生憎、考えなしで訪ねたのさ。しばらくここの配達は親父が担ってたでしょう、ご無沙汰だなと思って」
「まあ昔ほど頻繁には顔を合わさんからな。とは言え、俺はお前が店番しながら昼寝してるのをよく見掛けるが」
「……暇なんだよ」
「だろうな」
ふっ、と互いに笑みを零したところで、給仕が珈琲を淹れたカップソーサーを二対置いて一礼して行く。
イリスは給仕の後姿を見送ってから、角砂糖を湯面へ放り込んだ。
「最近、馴染みの酒場に歌姫が入ったんだ。小耳に挟んでいるかも知れないけど」
馴染みの酒場、と声に出した時点でアレクセイの眉が寄った。無言のまま珈琲を啜る。
イリスにはその反応も少しは予想したことではあった。想像以上に苦い顔であることが、続く言葉を飲み込ませたが。
「まだあの低俗な店に出入りしてたのか、お前。あれほどもう止めておけと言っただろ。あそこの店主も碌な噂を聞かんし、ダウンタウンの
「クセはあるけど、オレは嫌いじゃないよ。まあ確かに、昔そこの客の紅眼とひと悶着あったのは事実だけど……そんな客、この頃は見ないし」
嫌悪感を丸出しにするアレクセイを前に、多少イリスも張り合ってはみるものの、やはり生活階級の違いはここで出るのかも知れない、等と思わずには居られないのである。
低俗、という言葉ひとつでそれは明瞭だった。
「お前の好きにすればいい。でも、俺は行かん。そもそもうちの親父があそこの人間には関わるなと煩い。下賤の出身か、後ろ暗い理由があるんだろう。触らぬ神に祟りなしだ」
テルミヤ河を越えた先、ユーリィの店より奥を進むとそこはいわゆるダウンタウンに当たり、色町も交えて治安が多少悪くなるのも事実だった。その点ではアレクセイの言葉には弁解の余地もない。
イリスはバツが悪くなって肩を竦める他なかった。
「それで、その歌姫がどうしたって。惚れでもしたか」
ああやれやれ、もう店の話はできまいと思って珈琲を口に含んだ矢先の言葉だった。イリスは噴き出しこそしなかったものの、気管を詰まらせて咽せることになった。顔を真っ赤にして咳き込む様子を見てアレクセイが咽喉で笑う。
「図星か、珍しいこともあったもんだな。そういうことなら気にならんこともないが――……まあ行かんな。もっとも、見せに来るなら話は別だが」
「まだ何も言ってないでしょうが。……アレクも彼女の歌聴いたら感想変わると思うんだけどなァ」
「ご執心だな」
「だってあんなに綺麗な歌はないぜ」
イリスがうっとりと零すも、アレクセイは素知らぬ顔で珈琲を啜る。
そんな彼を前にイリスは思うのである。
きっと、この男をミルキィウェイへ連れたとしてユーリィに会わせた場合、やはり確実に剣呑な空気を生んで一触即発の状態になるのだろう、と。
なにせ堅物一方、人を揶揄することを愉しみとする性悪、その相性は水と油であることは想像に難くない。
「オレも人のことは言えないけどさ、アレクこそ好い子は居ないのかよ」
「気に留めたこともないな。……最悪放っておいても俺の場合は縁談を組まれるんだろう、惚れた腫れたを考えるのは面倒だ」
アレクセイは表情一つ変えずに即答する。
知っている限り、彼に想いを寄せる女子はイリスは何人か心当たりがある。が、如何せん財閥家、次期当主の肩書に加え当人がこの調子で居続けるため果敢にも告白しようとする者はいない。
(コイツの奥さんは苦労するんだろうなァ)
さすがに口には出さなかった。悪人ではない。ただ、いわゆる朴念仁なだけだ。それが問題なのではあるが。
穏やかな日差しの差し込む午後、しばらくと暢気な時間を過ごしたイリスは帰り際、「歌姫によろしく」と言伝を預かり別れた。
朴念仁にしては気の利いた言葉だった。
花雪と呼ぶには激しい雪のまたある日。数日冷え込みが厳しく続き、広場を行くのはまばらな人影と馬車だけだった。外気との温度差に白く曇る窓を揺らすのは、風。
正午前から、今日一日が退屈なものになることをイリスは感じ取ってカウンターへ両腕を枕に伏せていた。
吹雪を前に水連市への配達予定を取り止めて戻った父親から聞くに、テルミヤの河も凍り付き、その激しさに街を結ぶ列車も運行を取り止めているということだった。
「……リオのステージが観たいなァ」
ぼやくも、こんな日では集客が見込めない。ユーリィのことだ、きっとそもそも店を開けるつもりすらないんだろう、イリスは思った。
店を開けないならそれこそ管を巻きに行きたいところだったが、これだけ暇なのだからと店番を完全に任せたつもりの父親は既に二階の自宅へと姿を消していた。
しょうがない。日の暮れるまでは転寝ながらでも時間を過ごすしかない。
ストーヴで温めた湯を注いで、珈琲で両手を温めつつ、ぼう、と思いを馳せた。
ガタガタと小窓が揺れる。
風の強い日だ、とそちらへ視線を遣った瞬間、イリスはそれが人影であることを悟った。
曇る窓に黒尽くめの大きな影が立っている。
小窓を開くと、吹雪の欠片が風と舞い込み、イリスは身震いをした。
「女を知らないか。トキノアカメだ」
中折れ帽を被り、カシミアの外套は襟を立て吹雪を凌ぐ男の顔はほとんど窺えない。窓が開いての第一声、聴きなれない単語にイリスは首を捻る。
「……アカメ?」
「飼い猫が逃げたもんでな、探しているんだ。この写真に写っている女を見なかったか」
アカメ、紅い眼、紅眼。
思い立って、イリスはまず男の瞳を直視した。自分と同じ、ヘリオトロオプ特有の碧玉の瞳。
男が眉ひとつ動かさず突き付けた写真はセピア色だった。見たままの色彩を写す技術は、まだこの国にはなかったとイリスは認識していたためそこに疑問を抱くことはない。
写真の中には椅子へ腰掛ける長い黒髪の女が、上流階級らしい仕立てのよい値の張りそうな衣服を纏って写っていた。紅眼を彷彿とさせるその言葉と容貌ではあったが、写真からはその濃淡以上の色味を拾うことは困難だった。
「…………、いや」
イリスは首を横へ振ってみせる。男は落胆めいて息を吐いた。真っ白い靄が立つ。
「無駄足ついでだ、ラクシュミを貰おう」
先日耳にしたばかりのそれは、リオが買い求めた銘柄と同じだった。
黒背景に薄桃の睡蓮花。
そういえば、と思浮かべると同時、その思惑は顔色に滲んでしまってはいけない気がした。できるだけと平静を装って、無駄口を開かずにやり取りを終える。
男は箱を受け取るとそのまま素っ気なくざかざかと遠ざかった。小窓から身を乗り出し探す男の姿は、クラウンズベッドのある方角へ消えた。
窓を閉め、今しがた見た写真をもう一度頭へ描く。艶やかな黒髪、セピアからも映える魅惑的な瞳。
心が逸る。言いようのない不安が、どっと押し寄せた。
気を落ち着けようと口にした珈琲は、冷たくてアテにならない。
イリスは考えるより早く、電話機へ手を伸ばしていた。
長い呼び出し音。おそらく、店を開けるつもりもないユーリィは店にすら居ないかも知れない。イリスは辛抱強く受話器を握り締めて待った。
「もし、どなた」
長い呼び出しの後に聞こえたのは、聞き慣れた気怠い声色。
「イリスだ。なあ、トキノアカメって何」
「……ああ?」
受話器の向こうが一瞬にして張り詰めた空気を放ったのが分かった。重い沈黙が流れる。嫌な重さだった。
その空気をどう取るべきか考えあぐねたイリスが息を殺していると、ユーリィが小さくため息を吐き、ゆっくりと口を開いた。イリスの心境を見透かしたかのように。
「何があった。そんな言葉『こちら』ではそう聞かねえな。……はじめから話せよ」
イリスは、黒尽くめの男が訪れて女を捜していること、その写真の女の特徴、男がクラウンズベッドへ向かったことを話した。ユーリィは終始黙ったまま耳を傾けていたが、最後にふうん、と納得の行ったように相槌を打った。
「それで。お前、その女が誰だと思った」
「……リオじゃ、なければいい」
それは祈りのような言葉だった。
写真に写っていたその人がリオに似ていたのかと訊かれればそんなような気がする、そんな程度ではあったが、状況を考えるに流れ者の彼女にはその可能性があった。ただ一点、トキノアカメと言う言葉とリオにその接点はない。彼女の瞳は紅眼とは似つかわない淡い翡翠色だ。ジプシー。その言葉を覚えていたイリスは、男が「飼い猫」と言った瞬間からもしやという節を描いていた。素知らぬ振りを上手くできたかはわからないが、勢いで首を振ったのだった。
「リオだろうなあ。まず、間違いなく。……どうせこの吹雪だ、今夜は店を開けるつもりがなかったんだが、そういうことなら態と張った方がいいもんかね」
「どう思う?」と訊ねる口調ながら、既に意思が固まっていることをイリスは知っている。そういう性格だった。意見なんて本当は求めていないのだ。
「リオは、どうするの。噂の歌姫だぜ、写真を見て目星をつけられてることだってあり得る。髪形や恰好は違うし、……」
紅眼でもないけれど。続く言葉を無意識に飲み込んだ。だとすればどうしてこんなにも胸が逸るのか。他人の空似だと気にしなければいい話じゃないのか。
「気になるならお前は一緒に居てやれば。飼い主の世話なら任せておけよ、適当に言い包めて帰すよ。どうせ、水蓮のお貴族サマだろ、ついでに儲けさせて貰うぜ」
「………刺されるような真似は止せよ」
ユーリィのいつもながらの軽口に、何故かイリスはホッと胸を撫で下ろした。
改めてリオの住むアパートメントの場所を訊ねて書き留め、夕刻は彼女の元を訪ねることにした。
受話器を置いてから、ふと気づく。
「結局、トキノアカメってなんだ」
ユーリィはきっと知っていたんだろうか。首を傾ぐも、出ない答えと悪友の対応に期待をしたイリスは、まあいいかと構え直して元のようにカウンターへ腰掛けた。きっとなにもない。
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