Episode04:オーバーヒート

 ダウンタウン寄りの住宅街の一角、赤煉瓦の三階にリオの部屋はあった。運良く、父親の贔屓にしている顧客が明日からますます強くなるとラジオの言う吹雪を見越して商品の受取りに来店する連絡があり、イリスは店番を任せて出ることができた。

 壁の時計は午後の四時を示している。

 家を出て十数分。肩に頭に雪が降り積もり、振り払えどキリがない。

 階段を上がり切ったところでようやく、雪をやり過ごすことができたイリスは身形を整えてから呼び鈴のブザーを押す。

 しばらくの間の後、わずかに開いたドアの隙間から、ひっそりと相手を確かめるリオの翡翠色の瞳が覗いた。

 イリスの顔を見てホッと安堵して見せたのも束の間、その背後を気にするように目を配った後、彼の手を引いて中へと招き入れるとすかさず鍵を掛けた。

 

「……ユーリィが、しばらくは外に出るなって。ごめんなさい、この部屋寒いでしょ」

 

 雪に濡れた外套は、リオが受け取ってハンガーへと吊るしてくれる。

 キルト生地のカバーの掛かるソファへ腰を下ろしたイリスは彼女の言葉でようやく、部屋の室温が低いことに気づく。外気との差はあるが、窓を見ればそれがよく判る。曇りが薄い。

 窓際へ設置された蒸気式ラジエータは、カンカンと音を立てているのに不思議だった。

 リオは、深紅のストールを羽織り直しながら小さく笑う。

 

「音ばかり立派なのよ。私は平気だけれど、……なにか、拵えるから少し待って」 

「いや、お構いなく」

 

 遮るイリスに笑みだけ返すと、リオは小さなキチネットでケトルを火にかけ始めた。

 イリスはテーブルの上へ、店から持ち出したサーディンとスープの缶詰と、じゃがいも、チーズを並べた。これからしばらくの間は外を自由に歩けないリオを思ってのことだった。数日で済めばいいが、いつまで忍ぶことになるのかは誰にもわからなかった。

 ため息を吐くイリスの前に、しばらくして湯気の立つマグが置かれる。

 

「こうして温まるほかないのよ、ごめんね」 

「大丈夫だよ、ありがとう。……続きそうだね、吹雪。ユーリィからなんて聞いてるかわからないけど、必要な物があれば言って欲しい。うちは雑貨屋なんだ」

 

 ありがとう、と彼女は小さく呟いた。

 その表情は険しく、指爪を噛んで窓の外を見つめていた。

 

「……追われてたのよ、初めから。嗅ぎつけるのが上手いのね、こんなに早く見つかるなんて思ってもなかった。甘すぎたんだわ」

 

 両手指をマグで温めながら聞くイリスは、彼女の言葉の温度を測りかねた。とても、過ちを犯すような悪人には見えない、そう思うのは自分の先入観によるものなのか。

 かと言って、訪ねて来たあの男が悪人であったのか。

 気軽に訊ねられそうにない事柄だった。

 静寂に、カン・カンとラジエータの音だけが響いた。

 

「聞かないのね、なにも」

 

 イリスが俯いた顔を上げると、彼女はいつの間にかいつも通りに和らいだ表情を見せている。

 それは、訊ねれば応えてくれそうな印象で、ふと脳裏に思い浮かんだ疑問を、イリスは何の躊躇もなく口にしていた。

 

「トキノアカメって、なに」

 

 瞬間、空気が凍るのをイリスは見た。リオは窓を覗きに行く素振りでイリスに背を向ける。明らかな動揺は、隠し切らない。

 

「……聞いたことだけは、あるわ」

「ねえリオ」

「知らない」


  リオの肩が俄かに震えているのを見て、イリスは彼女の傍へ寄る。さらに俯くリオの肩へ手を置くと、彼女は首を横へ振った。

 

「ごめんなさい、わたしが悪かったわ、……本当はなにも聞かないで欲しいのよ。知らなくていいことって、あるでしょう」

「ユーリィは、知ってたんだろ。『こちら』じゃ聞かない言葉だ、って言っていたよ。……君はどこから」

 

 弱々しく、イリスの胸を押し返す細い腕は確かに震えていた。

 その腕を取って、そっと引き寄せる。

 表情は、覗かなかった。彼女がそれを望まないことはわかっているつもりだった。

 

「君のことが知りたい。でも、暴きたいんじゃない。でも、オレから逃げないで」

 

 跳ねるような心臓の音が、リオに伝わっているのを思うと逃げ出したい気持ちにも駆られながらイリスは静かに息を吐いた。

 腕の中の彼女は、身じろぎひとつしない。

 そっと撫でた黒髪は、とても指通りがよかった。

 

「隠したくても、隠せない時がくるの。どんなに気を遣っていても。……あなたには知られたくなかったのに」

 

 意味を問う前に、それを理解することになった。

 リオが顔を上げる。その瞳は淡い紅色をしていた。

 一般的に言われる、紅眼ロゼリアよりもその色合いは淡く薄紅に近い。

 

「紅眼、……じゃないのか」

「そうよ、これは朱鷺とき色」

 

 朱鷺ノ紅眼トキノアカメ。それは思わず感嘆の息が漏れるほどに、艶めかしい光を湛えていた。芸術品とでも言うようにつけられたその名前に相応しい美しさだ。

 吸い込まれるように見入るイリスの腕から、リオはするりと離れて席に戻った。

 

「その瞳、前にもどこかで……」

「……覚えてるの? 全部、思い出せる?」 

「なに、を?」

 

 イリスもソファへ座り直して、マグを口許へ運ぶ。すっかりと冷めてしまっていたが、構わない。

 あの朱鷺色をどこで見たのか。頭を巡らすうち思い当たったのはリオに平手を喰らったあの晩のことだった。動揺していたあの時はそれどころではなかったが、確かにあの時に見たような覚えがある。

 首を傾ぐ様子を見てリオは口許を押さえて微笑った。

 

「オレ、まさかやっぱり君になにかやらかしたんじゃあ」

「ないわ。そうね……やっぱり、秘密」

 

 水差しから常温というには冷たいだろう水をグラスへ注いで飲み干したリオは、優越感からか楽しそうに答えた。

 その瞳からは既に紅の面影はなくなっている。元の通りの翡翠色をしていた。

 

「色が戻ってる」

「それも、秘密」

 

 なんだよそれ、とイリスも少々大袈裟に肩を落として見せた。笑っている彼女が見ていたかった。笑っていてくれるなら、その秘密はなかったことにしていよう。そう、素直に思えた。

 マフィンを焼くわ、とキチネットへ立つ彼女の背中を見つめながらそっと、悪友のことを案じていた。

 男が来る保証もなかったが、ユーリィが男を上手くかわせる保証もなかった。


 

 リオがミルキィウェイに顔を出さなくなって数日が経った。

 豪雪は長く続かず、先の約束どおりイリスが日用品を届ける必要はなかった。

 ダウンタウンにも少なからず店はある。どうしてもと言うのなら、ユーリィに頼む方が早いこともある。

 彼女自身の口からそう諭されたイリスだったが、半ば強引に日がな夕刻に配達のついでと理由付けて部屋を訪れていた。

 必ず、手製の料理を携えて。

 一方ミルキィウェイでは華を失ったことで喧騒さが増し、酒を喰らいに来た客を独り捌くユーリィの顔色はやや、疲弊して見えた。

 夕刻、リオの顔を覗いた後に顔を出すのがもはや日課になっている。

 

「……復帰は望めないの、あれからずっと小難しい顔続けてるけれど。なんだか、幼馴染みを思い出すぜ、その仏頂面」

 

 冗談めいてみせるも、内心は穏やかではなかった。

 いつもならすかさず返るユーリィの皮肉はない。無駄に口を開かずに口許だけで笑ってみせるのだ。

 

「明日一日店を閉める予定なんだがな、…どうだ、久々に飲まないか」

 

 ユーリィは下向き加減にグラスを息で磨きながら、まるで独り言のように零した。うっかり、余所を見ていたら聞き逃していただろう。一瞬、頭の中で判断を挟む余地が要った。

 

「あ、ああ……うん」

「いいか、キョロキョロするなよ。明日の朝、裏で待ってる。ノックを2・2・1だ」

 

 独り言のようで、そうでない言葉は続く。抑揚を抑え、一息に呟くと、ユーリィはグラスをカウンター下へ仕舞った。再び、台へ立つ顔は涼やかでなんのわだかまりも感じさせない。

 いつも以上に平静さを装っていた。

 

「……さて、今夜もニコラシカか?」

 

 カウンタにコースターが置かれる。

 ニッ、と微笑ったユーリィはその後イリスが席を立つまで特別な言葉を掛けることはなかった。

 

 翌朝、店の裏口を訪れたイリスは、言葉通りにドアのノッカーを鳴らした。

 コンコン、コンコン、……コン。

 少しして内鍵を外す音が聞こえた。そのまま手押して中に入ると、今まさに起きましたと言わんばかりの風貌のユーリィが欠伸を噛み殺していた。

 濃灰の絹ガウンは、前がだらしなく開いている。

 

「昨日は悪かったな、愛想商売で」

 

 跳ねた後ろ髪を気にしながらユーリィはソファへ腰掛けて言う。

 イリスは、用心深く内鍵をしてから振り向いた。

 

「明らかに様子がおかしかったけど」 

「張られてたんでな」

 

 素早い二の句にああ、と合点が行く。

 まだ眠り足りなさそうな友人を横目に、イリスは暖炉の火で湯を沸かして珈琲を入れることにした。

 

「あの晩、お前の言う男は来なかったよ。けどな、その後から毎晩見かけない顔を見るようになった。人を探してるだなんて言わない。だが、目を見りゃ明らかなんだよ。『瞳だけを異様に気にして見据えてる』んだからよ」 

「昨日は偶然オレが居合わせる時間に居たのか。……厄介なことにならなきゃいいけど」

 

 部屋の構造は前回リオの歓迎会の時にひと通り触って覚えていた。客用のものだろう、金縁装飾の美しいコーヒーカップへ注いで、ユーリィの前へ差し出す。

 カップを受け取るものの、まだ寝起きの余韻を残したままユーリィは呆けたように天井を仰いだ。

 

「朱鷺ノ紅眼トキノアカメ。言葉の意味はわかったか、イリス?」

「……うん」

「そうか、話しちまったのか。ならもう、俺がお前になにを隠す必要もないんだな」

 

 安堵か、はたまた呆れか。判断し難いため息が、ふっとユーリィの口からは漏れる。

 

「ユーリィは知ってたんだな、リオが朱鷺ノ紅眼だってこと」 

「……見つけちまったのさ、偶然。この目で見るのは初めてだったけどな、きれいなもんだろ、そりゃ血眼ンなって探すワケ。ありゃそのへんの紅眼ロゼリアとは話が違う」

 

 紅眼の話となると途端、ユーリィは顔色が変わる。瞳を爛々とさせ、片膝に身体をイリスの方へずいと寄せて語り始める。

 なんでもかんでも無頓着に頭を突っ込んでは軽く味見をして回る、要するに多趣味の飽き性を地で行く性格を知っているイリスは彼が特に紅眼となると色濃くなる執着を見せる姿を知っていたが、今度のことはそれを上回る。にわかに肌が粟立つのがわかった。


「紅眼はそもそもこの国の種族じゃあない。隣国から逃れてきた少数民族だ。その瞳は燃える宝石のように美しく、数の少なさにその身丸ごとそのまま金持ち道楽のコレクションにされるのに時間はかからなかった。一方で自由を欲しがった紅眼は、貴族から逃れて水商売で生計を立てた。有名な話だよな。……じゃあ、どうして紅眼が水商売にしか携われないか知ってるか?」

 

 ユーリィの語りは続く。

 その眼差しは取り憑かれたと表現するに相応しい。気圧されるイリスは、声なく首を横へ振った。


「光るんだよ。俺も詳しい構造は知らないけれどな、あの瞳は恍惚を感じて輝く。それはもう、この世で一番美しいと言ってもいい。想像してみろよ、いい女が跨って恍惚の紅で――」

 

 まさにうっとりと思い出すように恍惚の表情を浮かべる彼を前に、イリスの脳裏にも様相が描かれる。

 陶器のように白い柔肌と、艶やかな黒髪、そして、官能的なまでな水紅。 

 

「やめてくれ!」

 

 叫びは半ば無意識のものだった。自らの声にハッと我を取り戻したイリスは、早鐘を打って熱くなる胸を押さえ、肩で息をする。

 そんな様子を一瞥して、ユーリィは咽喉をくつ、と鳴らした。

 

「紅眼はいいぜ。馬鹿は淫猥で卑しいだなんて言うが、そもそもそうさせたのは俺たちヘリオトロオプの人間だ。彼女らに罪なんてありはしない。……さてイリス、お前、どちらが幸せだと思う」

「なにが。……下世話な話なら聞きたくないぜ」

「鳥篭の鳥と、養鶏場の鶏。貴族に所有されるか、自由のためにその身を差し出して生活するか。皮肉なもんだ」

 

 ユーリィは言葉裏腹軽く零すと、くあくあと欠伸をして珈琲を飲み干した。

 イリスは墨色の湯面を覗き込んだまま小さく呼気を漏らす。

 

「ユーリィは、飼われてる方が幸せだと思ったのか。リオは、それが嫌で逃げてきたんじゃないのか」

「さあな。けど、この国に居る以上、紅眼が生きるにはそういう限られた方法を選ぶしかないってのが、事実なんだよ」

「……オレにはわからない」

「ましてや、朱鷺ノ紅眼だろ。その稀少さったらないぜきっと。尚更、イロモノ扱いされるんだ、鳥籠が嫌なら、国を出るほかないね」

 

 その言葉は吐き捨てたようにあまりにも冷たい。イリスはそう感じて顔を上げた。悪友とはいえ友人が、どんな顔でそれを口にしたのかを確かめたい気持ちで。

 しかし、彼はイリスに背を向けていて、その心中を図ることはできなかった。

 暖炉へ薪をくべて振り返ったユーリィは、いつものように薄く口許だけを歪めて微笑う。

 

「さあ、どうしようか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る