Episode02:冷えた指先

 パッセオ広場は円形の中央に大きな時計台がそびえる。一時間置きの鐘の音は、橋を越えたユーリィの店まで十分に響いた。

 朝方の広場は穏やかで、しんしんと積もる花雪ホアシュエのせいか人は少なく、静けさが増す。

 そんな広場に面した外からの来客に対応出来る窓際カウンターへ腰掛けて、イリスは重い息を吐き出した。頬杖のまま、気だるく開いた眼で、接客には程遠い仏頂面を隠せないのは昨晩の出来事が頭を離れないせいだ。

 あの時、衝動的に自分が何かをしでかしたのだ、と思い込んだイリスだったが、一夜明けて冷静さを取り戻せば、果たしてアルコオルの力を借りたところで自分が初対面の彼女に対して無体を働けたろうか、と疑問が浮き彫りになった。

 

 前科はある。が、それは相手の同意含めて誘いに乗る形だったじゃないか――。

 

 見飽きた白い雪を睨み据えて、ふつふつと苛立ちを募らせるしかなかった。

 静寂を割いてベルがけたたましく鳴り始めた。

 ようやく普及し始めた、電話機の呼び出し鈴。午前からの電話と言えば、お得意の顧客か仕入先と相場は決まっている。

 イリスは眉を持ち上げてから壁の電話を一瞥して、気が向かないままのろのろとした動作で受話器を肩と顎に挟み置いた。


「――よう」


 受話器越し、いつもながらの憂い声は電話先に出た相手を確かめようともしない。

 慣れた悪友の声だ。


「あのねえ、いつもオレが出張ってると思ったら大間違いなんだからな?」


 取引先でも顧客でもないとわかったイリスは不機嫌さを隠さない声色でぼやいてみせる。ユーリィは鼻で笑って、抜かせ、とごちた。


「間でわかるよ、親仁さんとは半秒は違うぜ。……そんな話がしたいんじゃない」

「昨晩のアレ、ちゃんと説明してくれよ」

「アレ、な。まず、悪かった。俺の思惑通り事が進むハズもなかったな」


 ユーリィの声は悪びれない。精々、肩をぶつけたのを詫びる程度のものだ。

 そんな彼の態度はいつものことだったが、事の末路を思えば、イリスはカウンターに顔を伏した。この野郎。呟かずには居られない。


「殴られたし印象はサイテーだし踏んだり蹴ったりだ。……オレ、彼女になにもした覚えがないんだけど」


 盛大に耳元で笑い声がした。本当に、他人事が過ぎる。イリスは苛立ちながらもユーリィの返事を辛抱強く待った。


「いや、本当まさかリオが手を出すところまでは計算外だったぜ。まあ、あれだ。結論から言うと、お前はシロだよ、イリス」


 イリスは安堵の息と一緒に受話器を手から滑らせそうになっては、慌てて肩と顎で挟み直した。よかった。唇で刻んで、何度も反芻する。

 ユーリィは、昨晩のイリスの様子からちょっとした親交を深めるサプライズを贈ったつもりだった、と言う。昔から異性との縁はマダム相手ばかり、という不健全な交友が多かったイリスを案じてサプライズを施したがる癖があった。

 かつて一度、色町の女をそれと知らず勢いで抱いてしまったことがある。覚えたての酒を煽りすぎた挙句、乗せられてしまい、朝には身包み剥がされて無一文。それ以来、人前で深酒を避け、かつ色町と売女の象徴紅眼ロゼリアの女には近付かなかった。

 そういう風だから昨晩の件はイリスにとって信じられない、信じたくない出来事だった。疑いが晴れたイリスはどうにか自尊心を損なわずに済んだのだった。


「それで、直接謝らなきゃ気が済まんとさ。正午までにそっちに顔出すはずだから、しっかり店番してろよ、いい子でな」

「言われずともオレはこの店の番犬なの」

「頼りないねェ……、よかったな、感謝しろよ俺に」

「………、ァ」


 どの辺をだよ、言い掛けるより早くに音はふつりと途絶える。

 およそ昔からこんな態だった。行き場のない苛立ちに舌打ちを軽くひとつしてから受話器を戻し、イリスはカウンターへ元のように頬杖をついた。

 それでもどうにも憎み切れない、それが悪友の悪友たる所以でもあった。

 広場へ目を戻せば、少しずつ日が上がりつつあるのがわかる。暖かい日差しが、積もる花雪を溶かしていた。


 正午を過ぎると雪国の割には気温が高くなる。

 陽だまりがちょうどよく窓から差し込み、カウンターへ伏してうたた寝てしまうのが日課だった。何せ、暇な日は客足が夕刻までない。

 近年の紡績工業への女性従事が増えたことをそれとなく感じさせるものだった。

 売り上げには痛い影響はなかったため、イリスにとっては昼寝の時間が増えたにすぎなかった。

 トン、ト。

 ガラスを叩く硬質な音にイリスは弾かれたように飛び起きる。ちょうど、夢見心地で居たところだった。

 探さずとも音の主はすぐ窓越し立っている。

 薄手のジャケットを羽織った彼女が少しバツの悪そうな顔で腕組み俯いていた。リオだ。

 イリスはカウンターの小窓を引き開ける。


「……やァ、昨日はよく眠れたかい」


 厭味なく訊ねたつもりだったが、リオは僅かに眉を寄せた。組んだ腕に力が篭るのが見えた。


「眠れるわけないわよ、………悪かったわ、ごめんなさい」

「なんともなかったならいいんだ。オレ本当に酒癖悪いから、なにかあってからじゃ困る。憶えてないことも初めてじゃないから」


 過去の失態を思い出せば、苦笑って眉が下がった。そうすると、不思議と柔らかい微笑みに映るのがイリスだった。上目に窺って、リオもほっと胸を撫で下ろした。その表情がほのかに解れる。


「わたし独りでシャンパン一本開けて、ベッドで眠りこけたのよ。あなたは、ほとんど飲んでいないわ。起こされた時に少し……寝惚けたみたい」


 わずかに言い淀む間があったが、イリスはそれを気に留めなかった。そうか、よかった、と頷きを重ねる。


「ユーリィに怒られたわ。……今度埋め合わせをさせて欲しいのだけど、構わない?」


 それはイリスにしてみればまるで予想もしていない言葉だった。


「銀星堂って店、知ってる?」

「ああ、この裏通りにある店だね」

「明日の晩、十九時にそこで。抜けて来られるかしら」

「も、ちろん」


 願ってもない誘いだった。最悪の印象を拭った上に、上書けるチャンスだった。

 リオは形のいい紅い唇を持ち上げて微笑い、くるりと踵を返そうとして、また立ち止まった。


「そうだった。煙草、切らしちゃって。ラクシュミ、貰える?」

「聞き慣れない銘柄だね」

「蓮のマークの。ああ、そう、それ」


 カウンターの下の網籠を探るイリスを覗き込んで、リオはたくさんと並んだ箱の内のひとつを指差す。カウンターへ取り出したその箱は、黒地に薄桃の睡蓮のマークが描かれている。彼女の指定通りだったが、イリスにはあまり馴染みのないものだった。毎日のように商品を管理しているのに、それを買う客を見たことがなかったように思う。記憶を手繰りながらイリスは首を傾いだが、リオが硬貨を払うのを見て受け取り、そのまま思考を手放した。

 そう、大したことじゃあない。


「それじゃ、明日」


 ひらりと振られた手を同じく返して、広場を歩いて行くリオの姿が見えなくなるまで見送る。

 大きく呼吸をひとつして、そうしてはじめて気がつく。鼓動が煩い。

 完全な一目惚れだった。心臓の上へ掌を当て、イリスはそう自覚した。

 瞼の裏には歌う彼女の姿と、あの翡翠色の魅惑的な瞳の虹彩が刻まれている。

 澄んだ歌声は、忘れられそうになかった。


 約束の時間より早くに、彼女は既にその店に居た。そう大きくないこの街で男女が連れ添うならユーリィの店だ、と大体の人間は口を揃えたろう。

 だが、この二人が時間を過ごすに当たってはその限りでないのはわかり切っていた。

 リオの選択は正しい。

 店番を父親に頼み込んで代わってもらったイリスは、息を切らしてイリスの店の裏通りにあるその店の前へ時間の十分前に辿り着いた。

 その店、銀星堂はイリスにとって友人と馴染みの深い場所だった。酒も出しはしたが軽喫茶に近く、伝統的な、悪く言えば質素な飾らない店。

 格子枠の窓から、カウンターへ腰掛ける彼女の姿が見える。

 深呼吸を一度。息を整えてから、店の扉を押して入ればカウベルが軽やかに来訪を告げた。

 待ち人をする彼女は、さっと視線を寄越して、口許だけで微笑った。


「ごめん、待たせて」

「まだ鐘は鳴ってないわ。お疲れさま」


 気を悪くした素振りのない、言葉通りの労い。一見どこか冷淡で気の強さを感じさせる彼女の印象だったが、口を開けばとてもまともだ、とイリスは思っていた。あの、ユーリィの側に居る人間にしてはまともすぎる。

 リオの手元には氷を入れない冷蔵のレモネードのタンブラーがあった。

 外は吹雪きこそしないが、いつもながらの花雪がちらつく寒さの中、それは異様にしか映らない。なにより、この店の名物は温かいチョコレートショコラなのだ。


「冷たい方が好きなの。みんな、おかしいってよく笑うわ」


 手元を凝視していたことに気付かれ、ハッとして顔を上げたイリスは誤魔化すように、白髭が暖かそうな恰幅のいいマスターにチョコレートショコラを頼んだ。


「オレは甘いのが好きなんだ。……だけどそう言えば君は、いつも薄着だね。北部の人間はここより寒さに強いと聞いたことはあるけど」

「……そうね」

 

 店内は暖炉の火と床下湯管を巡らせる循環式の暖房機能で寒さも暑さも感じない程よい温度が保たれていたが、それを抜いても彼女の服装は肌寒さを思わせた。

 両肩を露出させたコルセット調のベアトップに細身のスキニーデニムは彼女の線の細さを強調してとても似合っていたが、そこに一枚ジャケットを羽織った程度では花雪の降る夜など寒さが勝る。

 そこでふと思い出したのがヘリオトロオプの大陸北部はこの町より更に厳しい寒さであることだった。もしかしたら、彼女は北部出身なのかも知れない。

 カマを掛けたつもりはイリスにはなかったが、言葉短に返したリオには視線をつい、と逸らされてしまった。触れられたくない話題だったのだろう。

 間を読んだように湯気の立つカップがカウンターへ置かれ、イリスはとろみのついた湯面へ息を吹き掛けてからカップを啜った。


「店には慣れそう?」

「まさかステージに立つ破目になるとは思ってなかったけれど。人使いも荒いというか、すべてにおいてあれだけ粗いにも関わらず盛況しているのはあの人の業なのかしらね」


 つらつらと感想を述べたリオは、言葉の割楽しそうな語調で話す。


「……なんだろうな、釈然としないけれどそうなんだろうな。いい加減さに逃げ出すジプシーも居たし、今度もどうかと思ったけれどアイツの見る目は確かだった。華のない店だったからさ」

「怒らないのね、あんな目に遭ったのに」

「怒るより前に肝が冷えたよ。……ユーリィから事の顛末聞いてさ、本当にほっとしたんだ。昔、そういうことが一度あったから」


 自分のことを話す時に、嘘が吐けない性格だった。話さない方が印象を落とすことはなかったかも知れない。それでも、黙らずに居られない損な性分がイリスだった。

 リオは黙って耳を傾けていた。タンブラーの中身を飲み干して、コトリと置く。


「いろいろ、聞いてるわ。紅眼にいい思い出がないこと。歳上の夫人にばかりモテること。おかげで辛酸味わい尽くして恋愛沙汰はもうごめんだ、って」


 リオの言葉に危うく含んだショコラを吹き出しそうになっては、顔を背けて咽る。

 悪い友人の要らぬお節介、ここに極まれり。

 甘いショコラ裏腹の苦い顔をして、イリスは唇を曲げるしかない。


「余計なことばかり話すよなァ。間に受けないでくれよ、アイツの言葉なんて」

「――……って言えばきっとイリスは意地でもそんなことないって積極性を見せるはずだから、って」


 くすくすとリオが笑いを堪え切れずに口許を抑えて両肩を揺らした。


「……あンのスケコマシ」


 どこまでも人を食う男だ。

 両足をぶらつかせてため息を吐くイリスに、笑気をやり過ごしたリオが宥めるようにその頭を撫でる。

 なめらかな指先が髪を潜るのはくすぐったい感じがしたものの、イリスは黙って彼女の好きに任せた。

 

「紅眼が怖いのはしょうがないけど、女がみんな怖いのじゃないわ」

「……わかってるさ」


 カウンターへ伏して、少し冷めたカップを引き寄せて頬へ当てる。優しい声は、母親が子どもへかける声色のようで、イリスは少しの反発と、安らぎを覚えながら緩く瞳を閉じた。


「わたしはあなたの思う、そういう女だけどね」


 ぽつりと届く呟き。

 顔を上げて、彼女の顔を覗き込んだイリスが見たのは薄い微笑みだった。

 イリスのカップが空く頃を待ち、行きましょうか、と彼女は席を立った。先に清算を済まされ、さらりと無駄のない動きにイリスは後れを取ってしまう。

 外は花雪が降り止んで、風もなく穏やかだった。

 裏通りを少し歩けば国立公園がある。互いに示し合うことをしなかったが、自然とそこへ向けて歩いていた。

 葉を落とした街路樹には代わりと雪が積もり、仄かに彩を添える。イリス独りでは見飽きた風景ではあったが、隣を歩く彼女が目で愛でるように見つめるのを見れば悪くないと思える。

 

「初めからダイナーに誘えばよかったかな、なんだかお腹空かない?」

 

 数歩前へ出たリオがくるりと振り返り、後ろ歩きに訊ねる。

 

「来るまでは、多少。……緊張、してるのかも」 

「体が冷えたら、飲茶楼に行きましょ。水蓮市から二号店の出た店、気になっていたの」

 

 飲茶楼というものが何であるのかをイリスは知らなかったが、彼女が嬉しそうに微笑むので問題なく笑み返した。

 白く細い手が躊躇なくイリスの手を引く。どきりとしたのは、その手がとても冷たかったからか、接触にか。

 公園を一周するころにはその冷たさも多少ほの温かくはなったものの、イリスの体温が奪われていたに過ぎなかった。

 連れられて煉瓦棟の二階の店へ入り、出された茶葉を発酵させて作るという紅茶に似た味の茶でようやく暖を取る。

 自分用に温かい料理でなく冷菜を選ぶリオを気に留めるも束の間、注文した肉餡包みや卵のスープを口にするうち、そんなことはどうでもよくなってしまっていた。イリスの欠点のひとつだった。

 腹が充たされてしまえば、大抵のことが気にならなくなってしまう。

 そうして、抱いた疑問をすべて忘れてしまうのである。

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