水紅色
紺野しぐれ
Episode01:翡翠色の瞳
イリスは息を吐いた。
吐息は白く、大気に融ける。この国の寒さは時間という概念を狂わせる。花芽吹く春は来ないからだ。
常のように降り注ぐ白い雪は
荷馬車には酒樽と煙草を詰めた木箱が並ぶ。彼は、家業である雑貨屋の配達を任されていた。テルミヤ河を横切る石橋を渡った先に、次の配達先がある。
イリスの古い友人であるユーリィの店だった。
ミルキィウェイという名のその酒場は、三十路前後の若者が営むにしては規模が大きく、質も高い。店主のユーリィがかなり気まぐれな性分もあり、営業時間は無茶苦茶だ。それでいて申し分ない客と利益を上げているというのだから、彼には天性の商才があるのだろう。
彼の容姿に骨砕けになって通い続ける女性も多いと噂も立つが、それに信憑性がある。
イリスは呟かずにはいられない。
「天は彼に二物を与えた」と。
馬を歩かせる。
このへリオトロオプでは蒸気機関が発達して半世紀ほどになるが、近年になって隣国シークレストとの貿易が盛んになった。
その繁栄は先進国であるシークレストには遠く及ばず、援助の姿勢を受けて少しずつその文明を後追いしている段階である。国土は豊かではあるが、隣国と同等の文明を築くまではまだまだかかりそうだった。
現在の交通手段は列車と、馬車が大多数である。シークレストではこうは行かないらしい。隣国へ移住する人間は居ても、やってくる人間は居ない現状、街では情報だけが独り歩きしていた。
限られた貴族は、蒸気自動車を所持しているが広い公道の少ないこの街を走る影はないに等しい。
国の北部にある貴族街『水蓮市』まではここから距離がある。イリスは稀に父の代わり商売に訪れる際に見るぐらいの珍しい産物だった。
「どう、どう」
三階建ての煉瓦ビルの前で手綱を引き、馬を止める。馬はシュウシュウと白い鼻息を吐いた。
荷をそのままに、イリスは地下に続く階段を下りる。
硝子扉を開けて、店主である彼を呼んだ。
「ユーリィ、いるか」
扉の向こうには長い廊下があり、その先を曲がったカウンターや店の様子はイリスの位置からは窺えない。
返事を待って耳を澄ますと、静かに席を立つ音が聞こえた。
「悪いな、今上がる」
ユーリィのバリトンが響く。
よく通る澄んだ声は常に憂いを帯びている。
イリスは荷馬車へ戻り、彼を待った。
程なくして上がってきたユーリィはシャツを着崩したラフな格好で煙草を燻らせている。
「いつも悪いな。……元気か」
馬に向かって声を掛ける。風変わりな男で、掴めない。馬の顔をしばらく撫でて気遣ってから、イリスには目で愛想を送る。そうして裏の倉庫に向かい、鍵を開けた。
酒樽を五つに、煙草の有名柄を各種詰めた木箱が三つ。酒瓶が二十を二人交互に荷台へと詰め込む。荷を運び終えてから、ユーリィは唐突に訊いてきた。
「今日の夜空いてるか、お前」
「うん、ここで最後だから、今日は」
「なら、今晩はウチで面白いものが見られるから、来るといい」
「へえ、新しいジプシーでも入れたのか」
「そんなところだ。少しばかり擦れた奴だが、今のところ文句なしだ」
ひい、ふう、紙幣を数えながらユーリィはウインクしてみせた。
妥協のない彼に太鼓判を押させるジプシーとはどんなものなのか。
「三十、二パッセな。助かるよ」
思案する間に紙幣と硬貨を受け取って、イリスは荷馬車に戻る。
「それじゃ十八時にな」
「毎度。……考えとくよ」
彼が煙草を持った手を上に上げる。イリスも軽く応じて、馬を歩かせた。
馬の運動を兼ね広場を一周して、帰路に就く。
午後を過ぎて、街を歩く人々は食品を買い求める主婦で溢れている。家にもちらほらと客が来るだろうと予想できた。
十八時の約束に店を任せられるかはわからない。
イリスは馬小屋に馬を放してやり干草を加え、夜に解放されることを願いつつ店の扉を開けた。
その晩、珍しく花雪は止んでいた。
イリスは父親に頼み込んで店番を代わり、急いで家を出た。
時刻はとうに約束を過ぎている。
花雪が溶けて道はぬかるみ、足を取られながらも走った。
地下階段を降りる頃、の知るミルキィウェイとは違う雰囲気が辺りを包んでいた。
唄が、聴こえている。
入口となる硝子戸を開けて一層、その唄声は澄明に響き渡った。廊下の壁から顔を覗かせたそこに、客はいつもの二倍は居るだろうか。
ピヤノの隣でマイクロフォンに手を添える彼女は、伏目がちにその長い睫を見せている。
ユーリィの言う、新しいジプシーだろう。
綺麗だ。イリスは口の中で呟いた。
発してはいないその言葉を感じ取るかのように彼女は一瞬の眼差しを彼に向ける。
潤んだ瞳は淡い翡翠。
ヘリオトロオプ人の瞳の虹彩は青味のある碧玉だが、彼女のそれは色素が薄い。
圧倒されるように思わず壁に隠れたイリスの元に、カウンターからユーリィが姿を見せた。
「――一級品だろ」
「あ、ああ。遅くなって悪い」
「俺には関係ないぜ、でも……見られてよかったな」
「うん」
頷いて、視線を彼女に戻す。
その瞳はもうこちらを捉えてはいなかったが、イリスの鼓動は煩いぐらいに高鳴っていた。
艶やかな黒髪はウルフショート。白い肌に紅玉の様な唇。
なによりやはりあの瞳は人を惹きつける。
「なにか拵えてやるから、カウンターに座れよ。もっと近くで見たいだろう」
「いや、あの……オレは」
「飲めよ、そうすりゃ少しは落ち着くぜ」
有無を言わせずユーリィはイリスの腕を引いて席に着かせる。
「ニコラシカを」
「えらくキツいのを選ぶな。気になるんだろ、女が。リオってんだ」
彼女の名を口にするユーリィの表情は楽しそうなことこの上ない。友人を揶揄うのが楽しい質だった。
「……砂糖が無性に齧りたいから」
「そういえば、お前は甘党だったっけ」
苦笑ひとつ、ユーリィは慣れた手つきでレモンを被った洋酒のグラスと別皿に赤砂糖の欠片を前に並べた。
ひと口、またひと口と含む毎に時間の感覚が薄れて行く。
本来のイリスは下戸で、すすんで飲むことは珍しかった。それでも今は、胸に響く鼓動をアルコオルのせいにしていたい、そう感じていた。
気が付けばイリスはカウンターに伏していた。唄もざわめきも止んで、看板であることがわかる。
「眠ってたね。お酒弱いの?」
声の主にぶる、と身体が動揺した。
顔を上げると、カウンタで彼女が――リオがグラスを磨いている。
「ユーリィ、起きたわ彼。……お名前は?」
驚きと緊張で固まったイリスをそのまま、リオは遠慮なく顔を寄せて表情を覗き込む。
「……リス」
「リス?」
「イリスだよ」
ユーリィが手の埃を払いながら戻って来て差し挟んだ。
「いつまで固まってる、良いから先に裏で待ってろって言っただろ」
ユーリィの言葉にイリスは首を捻った。まるで記憶にない会話だ。
彼の言う裏というのは常連用、という名目の個室のことだったが、一体なんの話であるかさっぱりとわからなかった。
「ほらほら、さあさ、行った行った。俺は片してから行くから」
ぐい、と背中を押されて仕方なく立ち上がったイリスの後ろに、倣ってリオも付いて来る。
外に出てから、思わずイリスは口にしていた。
「なんで付いて来るの」
「なによ、一緒に初舞台祝ってくれてもいいじゃない」
イリスの無粋な一言に、リオは猫のように瞳を細める。
「ごめん、そういう訳じゃ」
「いいから早く入って。寒いよ、ここ」
常冬のヘリオトロオプの夜はマイナスが当たり前で、昼間に融け掛かった雪は再びと凍り付く。
おまけにステージを降りた時のままの彼女は、スリットの入ったロングドレス一枚の出で立ちだった。
リオに背を押されて、詫びながらイリスは部屋の扉を開けた。
裏部屋は意外に広く、色々なものが揃いすぎていた。化粧台、浴室、寝台。
友人とはいえこの店の構造を知り尽くしたわけではないイリスは、呆然とした。
「来るのは初めてだ。寝泊まりでもしてるのかな、なんでも揃ってるじゃないか」
アルコオルのせいか、普段よりストレートな言葉が口を滑る。リオも後ろから顔を出した。
「……ホント、ホテル並ね。あ、シャンパンがある」
彼女はなにも気にしていない様子だったが、イリスは血相を変えて押し黙った。
あの友人のしそうなことと言えば、ひとつしか考えられない。酒と女と個室。きっと今夜中はこの部屋から出ることを許されないだろうと察していた。こんなことは珍しくなかったからだ。
円卓にはご丁寧にもリオの祝賀会のために用意されたであろうもてなしの料理が並べられている。
はー、とため息をひとつ。
イリスはカナッペやサラダを皿に盛り始める。仕事以来、口にしたのはアルコオルだけだった。とにかく胃を満たして、頭をすっきりさせて理性を保たせよう。
そう考えていた。
「イリスも一杯ぐらい付き合わない?」
リオがコルク栓を抜きながら訊く。やって来ないユーリィを気にする様子はない。
グラスに注いで、イリスの返事を待った。
「やめとく」
「下戸だから?」
「さっき見ての通りさ。だから、やめとくよ」
無意識に笑んでいたのか、リオが笑み返して来る。その柔らかい微笑みに、イリスは改めて彼女を綺麗だと思った。
まっすぐに見つめて来るリオの瞳に頬が熱くなる。
それから……
それから。
イリスは我に返った。
フェイクファーの絨毯の上で眠っていたらしい。体を起こして、リオが寝台で眠っているのを確認した。
何時なのかも解らず、時計を探す。あれからユーリィは来たのだろうか。
イリスは寝台の側の卓上に時計を見つけた。三時。それが午後なのか、午前なのかすらわからないことにゾッとした。
「……リオ」
眠っている彼女を起こすのは気が進まないが、仕方ない。
自分だけ帰る訳にも行かないのだから。
イリスの声にリオはゆっくりと瞳を開いた。
彼女はぼんやりとイリスを見つめていたが、やがて形のいい眉を吊り上げ、瞳にありありと怒気を見せた。
次の瞬間イリスは、弾かれたように横を向いている。じりじりと焦れる頬の痛み。殴られた事実に頭が真っ白になる。
「近寄らないでよ、下衆!」
イリスは訳もわからず混乱する他ない。
リオはシーツをぎゅうと握り締めては体に纏い、寝台の端に逃げてイリスからあからさまに距離を取る。
「オレ、なにか――」
ぼんやりとしていた頭を必死に整理する。思い出せるのは、結局酔った彼女に盃を持たせられたこと、と――。
もしや、と思い立つのは過去にやらかしてしまった苦い経験。深酒を避けるようになったのは、女性に無体を働いたまま記憶を失くしたという事実。それは、この現状と結びつけるには充分すぎる符合だった。
イリスは顔色を失くしながら彼女に謝ろうとしたが、その頭部にクッションが飛ぶ。
「ごめん、オレ……」
「お願いだから出てって」
リオの言葉と同時、イリスは弾かれたように部屋を飛び出していた。
最悪な夜だ。いや、最悪なのはオレだ。
渾身走りながらにイリスは己を叱責し続けた。
また、花雪が吹雪いている。呟きは、風に掻き消された。
橋を渡りきったところで真っ暗な闇にぽつりと灯る街灯に沿って歩きながら、イリスはユーリィのことを考えていた。
彼は初めから来るつもりがなかったのかも知れない、と。
それが親切心からくるちょっとしたサプライズだったことがイリスにはわかり切っている。それがなにより痛かった。
自分の部屋へ戻り、ひとときの安らぎを得ても尚、目覚めた体も心も気怠い憂鬱に満ちていた。
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