【7】さあ、のんではじめよう

サカモト

さあ、のんではじめよう

 いつの間にか、ぼくの住んでいるマンションの最上階がカフェになっていた。

 店主はハンサムボブカットの十六歳で、三白眼の女の子だった。店は彼女が学校の終わった放課後から開店する仕組みになっている。



 授業が終った日の夕方、ぼくはエレベーターにのって、同じマンションの最上階にある、カフェへ向かう。

 最上階はもともと、大家さんの部屋だった。そこが、ある日、こつぜんとカフェになっていて、そのカフェの店長は十六歳の女の子だった。高校生で、つのしかさんという。ボブカットと三白眼をもった子だった。彼女はこの近くの高校に通っている。

 ぼくは毎日ように、店へ行く。でなければ、ぼくが家には外へ出る機会があまりない。

 ぼくの通う高校は、オンライン上にある。授業もすべてオンラインで行われ、だから、実際に足を運んで学校へ登校する日は、年間でも、かなり限られている、数日ほどだった。中学校は地元の学校へ通った。

 その高校を選んだ理由は、世界中にいる、いろんな先生から学べるという理由だった。それに、世界中に同級生もできた。部活にも入っている、文芸部に。

 家で授業を受けて、家で同級生と会って話す。そんな生活を送っていたある日、住んでいるマンションの屋上がカフェになっていた。つのしかさんはそこで、店長をしている。化粧をして、エプロン姿だった。

 ただ、授業終わりの夕方に店へ行くと、だいたい、お客さんはぼくしかいない。店員さんも彼女しかいないし、そのため、高確率で広い店内で一対一となる。

 当初は、こんなに毎日、店へ通っていると、警戒されるのではと不安になった。でも、つのしかさんは、ぼくが店に行くと、第一声で、特殊なひとことを放ってくるようになった。

 どうも、入店直後のぼくへ対する、その特殊な一言は彼女の娯楽みたいなものらしい。

 もてあそばれている。でも、なら、まあ、いいんだろうな。ぼくが彼女のオモチャであるなら、こうして、店へ通ってもいい気がする。

 そうだ、そうだ。

 と、心の中で、そういいわけをした。

 そんな心の葛藤を経て、店へ通いつづけている。店にいるとは、彼女とは少しだけ話す。あまり話かけすぎると、彼女の仕事に支障をきたすと思って、ほどよくひかえるようにはしている。

 だから、ぼくはいつも店で、いつもおとなしく部活をしている。レギュラー珈琲を頼む。文芸部なので、スマホで文章を書く。部活もオンラインだった。まえに、つのしかさんにも、部活のことは話したので、ぼくがスマホを操作しているときは、そっとしておいてくれる。

 授業はオンラインで、通学費がかからない、という理由と、昼ごはんは家で自炊、しという条件のもと、高校に入ると、両親はお小遣いを多めにくれるようになった。そのおかげで、日々この店へ通えている。店でいつも頼むレギュラー珈琲も、やさしい価格であることも大きい。

 そして、その日も、授業が終わり、夕方を迎え、ぼくはエレベーターへ乗り込だ。最上階の店へ向う。四階から七階へあがる。

 店へ着き、ドアを開けて中にはいる。

「いらっしゃいませ」

 と、声とともに出迎えられる。

 でも、その声は、つのしかさんじゃなかった。知らない大人の女性だった。

 その人は見慣れたエプロンをしている。つのしかさんがいつもしているエプロンだった。

 エプロンを見てから、気づく。きれいなひとだった。

 あれ、つのしかさんじゃない。そう思って、きょとんとしていると「お好きな席へどうぞ」と言われた。ぼくは、あわてて大げさに頭をさげた。それから、いつも座っている席へ向かった。

 すぐに、その知らない店員さんがおしぼりと水を持ってきた。「なにしますか」と、聞かれる。

 ああ、なにげなく、この店で、おしぼりと水を出されたのは、はじめてだな、と思いつつ「あの、レギュラー珈琲をお願いします」と伝えた。

「はい、ただいまお持ちしますね」

「あの」

 と、ぼくは思いがけず、呼び止めてしまった。

「はい?」

「あ、いえ」

 呼び止め、こちらを向かれ、で、けっか、たじろいでしまう。

 それでもなんとか「あの、店長さんは」と、訊ねた。

「わたしです」

 と、大人の女のひとが答えた。

「ええっと、あの、つのしかさんは」

「あの子のともだちなの?」

「ああー………」

 きかれて、ともだちです、という一言を返すことに、ブレーキをかけてしまう。そう答えるのは、ずうずうしい気がした。自信もなかった。

 そして、そのまま言葉につまってしまう。きっと、いちじるしい修行不足だった。人生経験の不足を痛感する。

 そうしていると、大人の女性のひとが少し笑った。

「あの子にはわたしが休んでいるあいだ、この店を任せていたの」

 その一言で、だいたいの状況が把握できた。いろんな想像もしてしまった。

「そうなん、ですね」

 ぼくがそう答えると「珈琲、いまお持ちしますね」と、丁寧にいって、その人はまた少し笑って、カウンターへ向かう。

 それからは、ずっと茫然としていた。

 そして、ふと、考えた。

 ああ、そうか、あの人はもう、ここにはいないのか。

 昨日も同じような時間に、この店に来て、つのしかさんのオモチャにされてた。そのたった二十四時間前の昨日が、もう遥か遠くの世界だったにように思えてくる。

 体験したことない感覚だった。この感じを、乗り越えられる術を、ぼくは会得していない。

 そのとき、店のドアがあいた。

 高校の制服を着た女の子が入って来る。化粧をしていないけど、髪型と目わかった。

 つのしかさんだった。彼女は、ぼくの顔を見ると「事件だ」と声を出し、つぎに「ほぼ、すっぴんを目撃されてしまった」といった。

 ああ、つのしかさんだ。制服姿だったけど、いつもと同じ彼女だった。彼女の言葉だった。

 いっぽうで、察しの良い彼女は、こっちがいつもの様子が違うことにも一瞬で気づいた。

 ほくそ笑むと、制服姿のままカウンターへ向う。それから「サキさん、それ私が」といって、見慣れたレギュラー珈琲のカップを運んでくる。

 それをぼくの席へ静かに置く。

 そのまま真向かいに座って言った。

「さあ、のんではじめよう」

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