第54話 義妹のやわらかな胸元

 綾香はようやく保健室の住人から教室への復帰を果たしたことにひとまず安心する。一部の男子たちはざわついていたが、女子たちは謝罪と返金をしたことで取り立てて、話題にすることはない。


 俺が綾香へ視線を移すとぷいっと俺から顔を背けてしまう。


 まったくホント世話の焼ける綾香だ……。


 両手をまえへ投げ出し机へ突っ伏しながら、ふうっと深いため息をついた。


 とは言っても、綾香のことだ。煮え湯を飲んだ熱さを忘れて、いつまた調子に乗って、イキリ出すとも限らない。


 それじゃ、わざわざ謝罪行脚あんぎゃにつき合った意味がない。一限目の授業が終わり、小休憩の間に不安なので釘を刺しておいたのだが、


「綾香、気をつけろよ。せっかくみんな、受け入れてくれたんだ。頭に乗るようなことをやっちゃダメだぞ」

「そんなこと分かってるわよ! 春臣は私の母親なの?」


 綾香は余計なお世話とばかりに机に肘を置いて頬杖をついきながら、鬱陶しそうに俺を見ながら、ため息混じりに言い返してくる。


 なぜ、綾香のお母さんなのか分からないが。


「俺はそんな世話好きじゃねえよ。分かってんなら、それでいい」


 俺が言い終わると綾香は「ふんっ」と鼻をならして、俺からそっぽを向いた。


 俺と沙耶乃の仲を邪魔するためにストーカーされたり、あのまま綾香が保健室登校したままだとちょっと不憫ふびんに思ったのだが、当の綾香からは良く思われてないらしい。


 まあ俺が勝手にやったことだ。感謝されるためにやったことじゃない。


 綾香からしっしと野良犬を払うように手を振りあしらわれて席に戻ると、こちらを見ていた沙耶乃がぷるぷると首を振って、綾香の態度が気に入らないのか、頬を膨らましていた。


「あり得ない、なんなの綾香ちゃん! お兄ちゃんが時間を作って解決してくれたっていうのに」

「いいよ、綾香ならあんなものだろうさ」


 それに綾香が歪んでしまった原因は俺にもある。本当の被害者は村瀬と三島と言っていいだろう。


「お兄ちゃんはよくがんばりました!」


 えっ!?


「おっ、おい沙耶乃! みんな見てるって……」


 沙耶乃の突然の行いに俺は慌てた。クラスメートの目があるというのに席に座る俺の頭を胸に抱いて、よしよしと撫でているのだから。


「妹が兄を励ましてるだけだよ? ダメなことなの?」


 綾香に振られたときと同じように、俺のもやもやとした気持ちを慰めながら、まったく人目を気にする様子もない。


 俺は大事なことを忘れていた。


 沙耶乃は元国民的アイドル、一般人モードでは恥じらうこともあるが、アイドルモードになれば、人目をはばからず、この教室内でも黄泉坂の歌を全力で歌うなんて、簡単なことだろう。


「お兄ちゃんは一生懸命がんぱりました。それは沙耶乃が一番よく知ってるからね。綾香ちゃんのことなんて放っておいて、沙耶乃のこともっと構って」


 沙耶乃のふくよかな母性愛を感じる胸元に抱かれ、今は妹というより異性として意識してしまう。俺を柔らかく包み、制服越しでも沙耶乃の体温と鼓動が伝わってきて、俺の鼓動は早くなり身体も熱くなってしまっていた。


 そんな沙耶乃の気遣いに満ちあふれた幸せなときは無情にも終わりを告げてしまう。


 ――――許すまじ、君塚!


 ――――君塚はシネよ!


 ――――いや君塚つっても沙耶乃さまじゃない。


 ――――妹だからってスキンシップ過剰だ!


 ――――うらやまぁぁぁぁぁーーーーー!!!


 ――――おれの妹もかわいけりゃなぁぁ!!!



 一限目の授業は体育だったので、沙耶乃の胸元に抱かれたしあわせなひと時は終わりを告げて、恨み節を吐きながらゴゴゴッと黒いオーラをまとい怨霊と化したかのようなクラスの男子たちに更衣室へ連行されてしまった……。


 まるで不倫が発覚してしまった芸能人のようにクラスの男子たちをまえにして釈明会見をさせられる羽目になった俺。


「君塚……そこに直れ。沙耶乃さまの胸元へ顔をうずめるとは一体どういう了見なのか、説明責任を果たしてもらおうか」


 更衣室のベンチに座らされ、記者に扮した男子たちが俺を問い詰める。


「あれは……沙耶乃がしてくれたことだから……俺からはあんなこと絶対できねえよ……」


 ――――くっ……ぐぬぬ……。


 ――――くそっ、くそっ! 


 ――――俺もアイドルの妹がほじぃぃぃぃ!


「ひとつ君塚に訊こう! 沙耶乃さまのぺぇはどうだったんだ?」


 大人しかった佐川はすっかり沙耶乃親衛隊長が板について、堂々とした風格を醸し出し俺の頬にマイク代わりのバトンを突きつけてきていた。


 俺は兄として最高の妹であることを広めるために即答した。


「そんなもの、訊くまでもないだろう! 最高に決まってる!!!」


 しまった……。


 いくら兄でも沙耶乃に好意を寄せられていることに嫉妬している男子たちに俺の発言はまさに火にガソリンを注いでしまったようなもの。


 俺の周囲を取り囲み、彼らの怒りが爆発しそうになっていたときだった。


 男子更衣室のドアがいきなり開いて、


「おらぁぁぁーーーーー!!! 貴様らなにやっとんじゃぁぁぁぁーーーーーーー!!!」

「ぎゃぁぁーーー、ヤマダが出たぁぁ!」

「バカモン! 先生をつけんか、先生を!!!」


 クラスの男子たちからお説教を受けそうになったが、ちょうど男子更衣室の様子を見にきた山田先生が俺の窮地を見て、逆に佐川たち男子を床に正座させてしまう。彼らは山田先生をまえにすると借りてきた猫のように身体を小さくして反省してた。


「くそぉぉ……君塚にスマホをタップしても反応しない呪いがかかりますように!!!」


 地味にやだな……その呪い。



 俺だけお咎めなしで彼らに雷が落ちるのを見守ってると授業が終わってしまった。着替え終わり教室に戻ろうとしたときに後ろからブレザーの裾を引っ張られた。


 以前は芳賀や服部がいたずらで、そんな仕様もないことをしてきていたが、もうあいつらは絶賛停学中。戻ってきたら、さぞかし驚くことだろう。


 ちょうど俺の先を沙耶乃たちが歩いており、村瀬たちと話しながら盛りあがっていた。


 誰だろうと思い、振り返ると綾香だった。

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