第15話 妹、アイドルやめるってよ

 奇しくも俺は数時間前まで実の妹だと信じていた沙耶乃とファーストキスを交わしてしまっていた。沙耶乃は自分の唇に人差し指を当てて、頬を赤く染めて恥ずかしそうに内緒のポーズをとる。


 俺ははっきり言って、沙耶乃が大好きだ!


 地味な容姿のときも、アイドルでスポットライトを浴びてみんなの注目を一身に集めているときも。


 だが……。


 それは家族として、妹として、好きだった。


 たとえ、沙耶乃が過剰なスキンシップを図ってきても、恋愛感情を抱くまいと一番近い綾香に思いを寄せていたんだ。


 それがまさか、国民的アイドルとなってしまった沙耶乃とキスしてしまうなんて……。俺は兄として、理性がある内に沙耶乃を諭さねばならない。舞い上がってそのまま天国に逝ってしまいそうな気分を落ち着かせ、伝えた。


「沙耶乃、俺はお兄ちゃんなんだぞ。さすがに唇にキスは……」


 そうだ、ほっぺたならギリ許せる範囲だ。だけど口へのちゅーは完全にアウト。俺の学校に倫理の先生がいるなら、一週間全ての授業時間を使い反省文だけを延々と書かされる拷問を受けても仕方のないことをしてる。


 諭した俺に沙耶乃はなにか勘違いしていた。


「だってお兄ちゃん、お部屋で謝ってたよ。キスできなくて、『ごめん』って」

「えっ!? 違うよ、あれは……」


 俺が答える間もなく矢継ぎ早に先回りされて、沙耶乃はさらに勘違いを重ねる。


「そっかーーっ、雰囲気壊して『ごめん』だったんだね!」


 よっぽど俺の部屋でキスしたかったらしい。


 ふと俺に良からぬ思いが過る。あのまま、タイマーが鳴らなければ、俺は沙耶乃の作り出した色っぽい雰囲気に飲み込まれて、最後までいたしてしまっていたかもしれないのだ。


 百歩譲って、義妹なら……。


 いやそれでもダメなんだけど、それに加えて沙耶乃はスキャンダル厳禁の今やときめく日本を代表するアイドル!


 結果的に俺が沙耶乃の唇を、しかもファーストキスを奪ってしまったことに頭を抱えて、黄泉坂のファンに詫びようとしていると沙耶乃は口を開く。


「私ね、お父さんからお兄ちゃんと血がつながってないと言われたとき、驚いたのは間違いなかったけど、うれしいって思っちゃった!」


 俺が悩んでいたのとは裏腹に沙耶乃がよろこんでいたなんてっ!?


 もうここまで来て、義理だってことが喜ばしいとなるのは一つしか思い浮かばない。俺は恐る恐る沙耶乃に訊ねていた。


「それって……」


 人生の坂について俺は思い出す。


 上り坂、下り坂、黄泉坂!



 違う、まさかだ……。



「だって、お兄ちゃんと結婚できるからだよっ!」


 沙耶乃の暴走が止まらない!


 すでに沙耶乃の俺への好感度は、俺がまったく知らない内にマックスまで到達しているようだった。


 だが沙耶乃は歌唱力も高いが演技力もアイドルらしからぬ物を持っている。もしかしたら、綾香のように嘘告って線も拭い切れない。


 綾香の件で沙耶乃まで疑ってしまう俺を許して欲しい。もし、幼馴染と義妹から嘘告で振られてしまったら、俺は今すぐそこにある公園のブランコのステップに後頭部を打たれて、“止まるんじゃねえぞ!“したいと思う。


「沙耶乃、演技の練習とかじゃないんだよな?」


 クソザコメンタルに成り下がった俺が沙耶乃に恐る恐る訊ねると……、


「うん! もうそんなことしなくていいの。お兄ちゃん、私ね、黄泉坂を辞めてきたの。今日からみんなのアイドルじゃなくて、お兄ちゃんだけのアイドルになりたくて……」


 あまりにも衝撃的過ぎる返答に腰を抜かしそうになってしまう。


「えっ!? エエエエェェーーーーーーッ!!!」


 ぺろっといたずらっ子のように舌を出して、やっちゃったぁみたいなかわいい顔で反省しているのか、していないのか、量りがたい。


 今まで一生懸命勤めてきた紅白常連のトップアイドルグループ黄泉坂49のセンターの地位をそんな簡単に捨ててしまうなんて、なんてことだ!


 しかもそれが俺だけのアイドルになりたいという理由で!!!


 まあある意味では沙耶乃らしいと言えばらしいのかもしれない。才能があふれすぎて、些細なことに固執しないみたいな。


「って、些細なことかぁぁぁーーーっ!!!」

「お兄ちゃん、どうしたの!?」


 俺が思わず叫んだことに、沙耶乃がびっくりしていた。これが叫ばないでいられるわけもなかったから……。


 興奮気味の俺を見た沙耶乃は落ち着いたトーンで昔を懐かしむように教えてくれる、沙耶乃がアイドルを目指した理由を。


「お兄ちゃん、子どものころに言ってたよね。『アイドルと結婚できたらなぁー』って……」

「まさか沙耶乃、俺のガキみてえな願望を真に受けて、トップアイドルにまで登り詰めたっていうのか!?」


 俺は沙耶乃の言葉に身体中の血の気が引くような思いになる。三つ子の魂百までとは言うが、それを実践して達成してしまうって、沙耶乃はやっぱり希有な才能の持ち主であることは間違いなかった。


「うん! お兄ちゃんが応援してくれるから、成れちゃった!」


 しれっととんでもないことを言ってのける沙耶乃。


「でもね、お兄ちゃんの応援がなかったら、絶対に無理だったと思う。いままでずっと沙耶乃を支え続けてくれてありがとう、お兄ちゃん!」

「あ、ああ……」


 沙耶乃が決めたことだ。


 俺はそれに従う他ない。もったいないことかもしれないが、沙耶乃がまったくアイドルに未練がない以上、俺にどうこうできるはずもなかったのだ。


「私、お兄ちゃんのこと、ずっとずっと前から好きだったの。だから、お兄ちゃんと付き合いたい。どうかな、沙耶乃じゃダメ?」


 数時間前まで妹だった沙耶乃に俺は……


 恋に落ちそうになっていた。


 でもやっぱりけじめというか、きちんとさせておきたい。兄という立場を利用して、沙耶乃を彼女にしてしまうのはどうかと思えたから。


「まずは友だちから友好を深めてまいりたいと……」


 数時間前まで妹だった沙耶乃が俺の彼女になりたいだなんて、信じられないし、正直どう受け止めてよいのか、分からないのもある。ここは焦らず、じっくりと新しい関係を構築していく所存。


「ええーっ!?」


 俺の煮え切らない態度が不満なのか、沙耶乃は驚き、今にもゲリラ豪雨が降り出しそうなほど、沙耶乃のかわいげな表情を暗く曇らせながら、俺に訊ねてくる。


「お兄ちゃん、沙耶乃こと……嫌い?」


 そんな表情で訊ねられると俺は途端にいたたまれなくなる。俺から視線を逸らし俯いたかと思うと、唇に手を当て不安そうに俺を見つめてくる沙耶乃に答えた。


「いや、好きだ。最高の妹だと思ってる。違う、思ってた。沙耶乃が彼女って思ってしまうといけないことしてしまいそうで怖いんだよ……」


 俺が綾香に振られたとき、お風呂や添い寝で慰めようとしていたくらいだ、俺たちが義理だって分かった以上、沙耶乃は俺にもう好意を隠さないのかもしれない。


 妹としての愛情と恋人としての愛情は違う。


 俺の沙耶乃に対する思いは家族愛、一方沙耶乃の俺を思う気持ちは恋愛感情に近いのだろう。


 それを知ってか、知らずか、恋人同士が愛情を確かめ合う好意について、俺は沙耶乃から問われ答えに窮していた。


「いけないことって、どんなこと?」


 まったくわからないのか、そういう振りをしているのか、沙耶乃は首を傾け、きょとんとしているが、それがまた俺を答えにくくさせていた。


「いや、さっきのキスとか……」

「もうしちゃったよ?」


 首を少し傾け、かわいく答える沙耶乃。


 そうですね……もう経験済みですよね。


 突然沙耶乃が俺にキスしてくるなんて思わなかったから、ホントに不意をつかれた。


「あ、うん……その先もあるし」


 べろちゅーとか……。ってそんなこと、とても沙耶乃に答えられそうにない。だって、「ここでしよっ!」とか言い出してしまうかもしれないから。


 俺が言葉を濁していると、男女間の愛情確認に興味津々の沙耶乃はさらに訊ねてきて、俺を困らせる。


「先はどんなことをするの? お兄ちゃんはその先も沙耶乃としたいの?」

「手をつなぐとか、ハグするとか……」

「うんうん、それからそれから?」


 訊ねながら俺の手を両手で握り、ずんずん迫る沙耶乃にお尻を少しずつずらして、間合いを取る。この勢いだとまたキスしそうで……。


「あ、そうそうお風呂一緒に入るとか……」


 ベンチの端まで詰められ、もう後がなくなったところで、沙耶乃は小悪魔的な微笑みを湛えて俺に提案する。


「お風呂に一緒に入ったら、次はぁ、なにしよっか?」


 くっ、沙耶乃……絶対に知らないふりして、訊いてるだろ。


「お、俺は知らないっ。保健の授業はいつも寝てサボってたから!」

「ええーっ、お兄ちゃーん、教えてよぉ。沙耶乃に手取り足取り実技で教えて欲しいよぉ」


 実技!?


 して、許して……それ以上、俺に訊ねるのは! 沙耶乃とちゃんと付き合うから!


 数日後、俺はさらなる沙耶乃のアプローチに驚くことになろうとは思いもよらないでいた。

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