第5話 お風呂

「お兄ちゃん!!!」

「紗耶乃……」


 濡れた捨て犬みたいになった俺にそっと傘を差し出す紗耶乃。


「傘も差さずに座ってると風邪、引いちゃうよ」

「ああ……」


 俺は膝のうえに肘を置きながら、心配そうに見つめる沙耶乃に目をやる。


「お兄ちゃん、いつも折り畳み傘持っとけって言ってるのに、その本人が差さないなんて何かあったんだよね?」

「あ、いや……」


 俺は妹から目を背け、うつむいた。確かに鞄に傘は入っていて、勘が鋭いというより雨降りにベンチに座っていたら、そう思われても仕方ない。


「お兄ちゃんが泣いちゃうほど、悲しいことがあったんだよね?」

「……」


 沙耶乃の心配から来る追及は段々と核心に迫ってくる。雨で涙は流され、妹に泣いていることは分からないはずなのに……一卵性の双子でもないのに俺の心は妹に見透かされてしまっていた。


「家に帰ろ」

「……」


 ガキの頃は俺、沙耶乃、綾香の三人で一緒に遊んでいたのに俺だけが綾香のことを片思いしていて、あんな仕打ちを受けるまで毛嫌いされていたとはまったく思ってなかった。


 だが彼女にそこまで嫌われる理由に思い当たる節がない。陽キャ特有のノリと集団心理で歯止めが効かなくなってしまったんだろうか?


 少なくとも、もう俺の十年以上にも及ぶ片思いの恋は見るも無残な形で砕け散った。もう世界中に数多くいる女の子を誰ひとりとして、好きになれなくなるようなトラウマを植え付けて。


 そんな哀れな俺に沙耶乃はびっくりしてしまうようなことをしてきた。


「紗耶乃!?」

「言いたくなければ、黙っててもいいよ。でもお兄ちゃんが悲しんでると紗耶乃も悲しい……」


 ずぶ濡れになった俺の頭を胸で抱きしめ、悲しみに打ちひしがれる俺を慰めようとしてくれていたのだ。


「制服が濡れるから……」

「じゃあ、帰ろ」


 俺が止めるように言っても、沙耶乃は首を横に振って言うことを聞かずに、俺を困らせる。


 俺みたいな一般人と違って、みんなの……国民的アイドルグループのセンターに風邪を引かせることなんて、俺には無理だった。


「分かった……」


 俺が沙耶乃の献身に観念して了承すると、沙耶乃は、ぱっと笑顔に変わり俺の手を取り立ち上がらせた。お互いに違う高校の制服で並んで小雨模様の路地を歩く。


 思わず、沙耶乃にこぼしてしまった。


「綾香とこんな風に相合い傘するのが夢だった……」


 ぼそりと呟いた言葉が雨音にかき消されて、聞こえなかったのか、沙耶乃は傘を持ったまま前を見て言う。


「お兄ちゃん、もっと寄ってくれないと濡れちゃうよ」


 折り畳み傘だから、覆う面積が小さく肩が濡れてしまっていた。とはいうものの、すでに俺の服は乾かしてどうにかなるレベルを越えて、洗濯が確定してしまっている。


「じゃあ、俺が傘持つよ」

「あ、うん、お願いするね」


 雨に打たれて冷えた傘を持つ手に沙耶乃は手のひらを重ねて温めてくれたかと思ったら、あれだけ俺に濡れると言っていたくせに俺のびしょ濡れの制服に妹は肩を寄せてくる。


 テレビやネット、書籍に音楽、それに人の噂や口こみ……白石さやを見ない日はないと言っても過言じゃない。みんなには沙耶乃は国民的アイドルなのかもしれないが、俺にとってはかわいい普通の妹だった。


 沙耶乃と制服で登下校したのはいつ以来だろうか? 高校に入ってからは一度もなかったような気がする。


 そんなことを思っていると家が見えてくる。五分くらいの距離だったが沙耶乃の気遣いが、こんなにも心に染みるとは思わなかった。



 ずぶ濡れのまま、恐る恐る玄関の扉を開ける。


 俺が何か悪いことをしたわけじゃない。だけど綾香にこっぴどく振られた自分が情けなくて、家に帰れなかった俺は沙耶乃の優しさに感化され、戻ってきてしまった。


 幼馴染に振られ、雨に打たれて小さくなり段ボールにうずくまっている捨て犬のような俺を大事そうに抱きかかえ、拾い上げてくれた沙耶乃。


「お兄ちゃん、ちょっと待ってて! タオルとビニール袋持ってくるから」

「ああ、ありがとう……」


 かかえた分、沙耶乃まで濡れてしまったが、沙耶乃は家に上がれないほどじゃなかったので、俺の代わりに世話を焼いてくれていた。


 玄関のたたきをこぼれ落ちる滴で濡らしながら、沙耶乃を待つ。パンツまでびしょ濡れなのが母さんに見つかったら、それこそ大目玉かも。


「あらら、春臣。なにやってんの……ずぶ濡れじゃない!」


 沙耶乃が隠密行動を取ってくれていたものの、物音を聞きつけた母さんにバレてしまった。


「お母さん、お兄ちゃんもお年頃なんだから、色々あるのよ。そっとしておいてあげてほしいな」

「えっ、えっ? なに、なに、沙耶乃ちゃん、何か知ってるの? ねえ、ねえってば……」

「知ら~ない」


(やっぱり女の勘はするどい……)


 もしかしたら、俺が綾香に告白してこっぴどく振られたと悟られているのかも。そんな沙耶乃は母さんの追及を華麗に躱し、俺にハンドサインを送って今の内に身体を拭いて、濡れた制服を片づけるように促していた。


 ガシガシと頭の水気をタオルで拭いたあと、制服の上からタオルをぽんぽんと押し付け、水分を吸わす。母さんをリビングにステイさせた沙耶乃は濡れたブレザーを袋に入れ、家にあがろうとした俺に、


「あっ! ダメだよぉ、まだシャツもズボンも濡れたままだし」

「もう水気は拭いたんだけど……」

「はい、男の子なんだから、恥ずかしがってないで、はい脱いだ脱いだ」


 沙耶乃はジェンダー論などどこ吹く風な発言をすると俺のシャツのボタンを外してゆく。


「いいよ、自分でできるから」


 妹とはいえ、まるで恋人のような距離感に緊張してしまい、俺は女の子みたいに胸の前に手をやり、サッと身を引いた。


「ううん、私が脱がしたいの……」

「えっ?」


 沙耶乃は顔を紅潮させながら艶っぽいことを言ってくるので、ドキッとさせられる。母さんが父さんのシャツなんかの解れや取れたボタンを直したとき、同じように着せたり脱がせたりしているが、あれはどちらかというと仲睦まじいといった感じ。


 対して、沙耶乃の俺にしてくれいることは、


(エロティック!!!)


 否が応でも、そう感じてしまう。


「まだ、Tシャツも残ってるよ」

「あ、ああ……」


 俺から制服のシャツを剥いだ沙耶乃はまだ満足していないようで、インナーも脱ぐよう促した。首回りに手をかけ、脱ごうとするのだが濡れているため、肌に張り付いて脱ぎにくいことこの上ない。


「こうやると脱ぎやすいよ」


 すると沙耶乃が裾からくるくると巻いてくれて、袖から手を抜き、簡単に脱ぐことができた。


「ありがと……」


 どこで覚えたのか分からない妹のライフハック的脱衣術に助けられた。脱げたのはいいが、上半身を妹の前に晒してしまう。これじゃ、妹の前でストリップしているみたいだ。


 自分でやるからと言っても、「いいから、いいから」と俺の露わになった上半身をタオルで吹き上げながら、ちょっとうっとりしているような気がした。寒いと幻覚まで見えしまうんだろうか?


「お兄ちゃんの胸とか腹筋とか紗耶乃、好きかも」


 沙耶乃が俺の身体を拭きながら、ぼそりと呟いたことが耳あたりの良いように聞き取れる。綾香に振られた俺は都合の良い幻聴まで聞こえるようになってしまったらしい。


「はいはい、じゃあ背中もね。後ろ向いて」

「ああ」


 なんだか俺の妹とはいえ、国民的アイドルに背中を拭かせているとか申し訳なくなる。いたたまれなくなって、脱衣所を兼ねた洗濯機のところへ向かおうとすると、ガシッと沙耶乃から肩を掴まれた。


 素肌に直に沙耶乃の手入れされた綺麗な手が触れ、その柔らかな感触に変な気持ちになってしまいそう。俺の高鳴った鼓動なんて、知らないと言わんばかりに沙耶乃は追い討ちをかけるように言った。


「お兄ちゃん、ズボンがまだだよ」

「いやいや、なに言ってんの!?」


 振り向くとにっこりアイドルスマイルしている。


【知られざる実態! 国民的アイドルの妹に欲情した実兄、彼女の前でパンイチになる場面を激写】


 文春砲が「はい喜んで」と炸裂しそうなシチュエーションにもまったく怯む様子もない沙耶乃は反論した。


「廊下濡らしたら、私がお母さんに叱られちゃう……」


 さっきまでの笑顔が消えしょぼんとうなだれる沙耶乃を見たら、悲しい思いをさせたくないからか、俺は覚悟を決めて脱がざるを得なかった。


 沙耶乃は止まることを知らない。


 膝立ちで俺のバックルとチャックに手をかけようとしてくる。いやいや、こんなの男のあれをなにする手前にしか見えないって!


 俺が手を持って、制止すると上目遣いで、


「お兄ちゃん、だめ?」


 とか聞いてくる。


「ひ、ひとりでできるから!」


 暴走する沙耶乃の世話焼きに狼狽うろたえながらも、なんとか自分の手で脱ぎ終わると沙耶乃は残念そうにしながらも、俺を揶揄っていた。


「お兄ちゃんと結婚したら、ご飯よりもお風呂からだね!」


 主語が抜けていて、誰と結婚するのか分からない。綾香に振られてしまった俺は果たして結婚なんてできるのか?


 俺が現実に引き戻されていると沙耶乃は明るく告げる。


「お兄ちゃん、お風呂沸いたよ!」

「色々、ごめん……ありがと」

「いつもお世話になってるからねっ!」


 俺は袋のなかの制服を、洗い物かごを経由せずに直接洗濯機に放り投げた。パンツを脱ぎ全裸になっていると沙耶乃が脱衣所のドアを開けて現れる、なんてことはなかった。


 いやそんな期待なんてしてない!


 かけ湯すると、冷えた身体にお湯が染み入る。軽く汚れを流し、湯船に浸かると生き返ったかのような心地よさが身体中を巡る。


 冷え切った身体は温まったが、心だけは置いてけぼりだった。



 苦すぎる失恋……



 もう綾香の顔はちゃんと見れそうになかった。そんな傷心の俺を優しく包んでくれた沙耶乃。


 沙耶乃は綾香の鋭利な心のナイフが深く胸に刺さったままの俺から必死に引き抜こうとしてくれているように思えてしまう。


 だけど、このまま沙耶乃の優しさに甘えたら、俺は失血死しかねない。


 だって、沙耶乃は俺の実の妹なんだから……



 綾香に振られたことで、傷口から漏れる透明な血がぽたぽたと湯船に落ちる。それと同じくして沙耶乃の優しさにも涙していた。


 ギイィィ!


「のわぁぁぁーーーっ!?」


 突然お風呂場のドアが開いたので、びっくりして変な声で叫んでしまった。肘で腫れぼったい両目を覆うように隠したあと、少しずらして前の様子を窺うと妹がドアの前にいた。


「紗耶乃さん!?」

「遅いから様子見にきちゃった!」


 ぺろっと舌を出して、おどけてみせる紗耶乃。しかしおどけた仕草と裏腹に様子見というには格好がヤバ過ぎた!


 バスタオルをチューブドレスのように巻いて、お風呂場に入ってきたのだ。まさか脱いだら、『私スゴいんです!』みたいになってないだろうな、とか俺は妹に変な気持ちを抱いてしまっていた。

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