第3話 アイドルの卵

 女の子はおっさんに言い出せないのだろうか? 沈黙したまま、後ろのおっさんだけがにやにやといやらしい笑みを浮かべていた。


(到底許されざる行為ではないと思う!)


「体調優れないなら、譲りますよ」

「えっ!?」


 お年寄りや妊婦などの人たちでなく、いきなりほとんど歳の変わらない俺から声をかけられたことに戸惑うかわいらしい女の子。


 彼女は体調が悪いわけじゃないことくらいすぐに分かるが、痴漢しているおっさんから遠ざけるためだった。


 俺は彼女の返事も聞かず立ち上がり、場所の替わり際に耳元でそっと告げる。俺の言葉を受けて、彼女はきゅっと手を握った。


「ごめんね、これ持っててくれる?」

「あ、はい?」


 大事な大事なスタークジェガンの箱がつぶれたらたまらないので彼女の膝上に預けると俺はすぐさまおっさんの手を掴み、後ろ腕に締め上げた。


 ターゲットの女の子が席に座ってしまったことで、また別の女の子を物色しようとしていたのかもしれない。ちょうど場所を離れようと後ろを向いたときだったので簡単に捕まえることができた。


 だが……


「君はいきなり何をするんだっ! こんなことして、ただで済むと思っているなよ」

「ふーん、ここで俺に握り潰されたいか、次の駅で降りるか、選べよ、おっさん」


 乗客はトラブルに巻き込まれたくないのか、混んできているのにも拘らず、サッと空間を開けたのでおっさんをドア際に押し込んで、身動きを制限する。


 そして、振り向いて俺に文句を言うおっさんの顔の前でゆっくり野郎のシンボルを握りつぶすようなポーズを取った。


 おっさんは焦ったのか、


「私が何をしたっていうんだぁ! ガキのくせに……警察に訴えてやるっ!」

「どうぞ。だが、訴えて困るのはどっちだ? あんたがあの子に痴漢してたのは分かってんだよ!」


 俺たちの二周りどころか、三周りは歳上のくせに若い子に痴漢しておいて、つくづく往生際の悪いことをほざいているおっさんにムカついていた。


 俺が席に座っているはずの女の子を見ると……



 いない!?



 マズい! 被害者が証言してくれないと、俺が加害者になってしまうと思った。


 父さん、母さん、紗耶乃、ごめん!


 俺は真面目に生きてきたが、どうやら犯罪者に落ちてしまうらしい。芸能人の家族が下手な正義感を振りかざし、冤罪で人を痴漢呼ばわりなんてしたら、紗耶乃の輝かしい芸能人生に汚点を残してしまう……


 こんな美味しいネタを芸能記者が放っておくわけがない。今も誰かがスマホで動画を撮っていて、TwitterやらYoutubeで拡散されりゃ、次の日には記者や芸能レポーターで家が囲まれて、引きこもらざるを得ない。


 家族、特に妹に迷惑をかけてしまうのがたまらなく嫌だった。紗耶乃は藤原さんが絶賛するように俺みたいな陰キャと比べるまでもなく、輝かしい未来が約束されているんだ!



 紗耶乃――――。



 兄ちゃん、今年はおまえと別れて、檻のなかで臭い飯を食いながら、紅白で歌う姿を見守っているよ……。


 ううっ、ずずずっ。


 そう思うと涙と鼻水がこぼれそうになる。俺が絶望に打ちひしがれ、おっさんを掴む力が緩みそうになってしまいそうになったときだった。


「こ……この人、痴漢です! 私の、私のお尻を触ったんです!」


 いなくなったかと思われた女の子はちょうど俺の真後ろに立っていたみたいで、痴漢を訴える声がかかったことで俺は安堵した。


 紗耶乃の晴れ舞台を父さん、母さんと応援しながら見られるっ! 父さんとテレビの前でサイリウム振りながら、ヲタ芸で応援する姿を想像していた。


 しかし、いつの間にこの子は俺の背後を取ったんだ? まだまだ俺も修行が足りないらしい。


「だそうだ、観念しろっ!」

「ううっ……」


 俺に再び力がみなぎり、おっさんの腕を締め上げ、身体もがっちりドアへ押しつけた。


 もう逃げられないぞ!


 それでも被害者である女の子がおどおどしていると、


「そうよ! そうよ! 私、痴漢行為を撮ってたんだから!」


 彼女が震える声で勇気を振り絞り、おっさんが痴漢していたことを訴えたことで、潮目が変わり、向かい側の乗客がスマホでおっさんのお触りを撮影していたことを打ち明けてくれる。


『末広駅、末広駅~』


 ちょうど車内アナウンスが流れてきたので、撮影していた女性客にお願いして、三人で駅員に突き出し、痴漢の身柄は警察に引き渡されることとなった。


「ありがとうございます、ありがとうございます。このたびはなんとお礼を申し上げてよいのやら……本当にありがとうございました」


 痴漢されてしまった女の子はぺこぺこと何度も俺たちに頭を下げていたが、目の前に座って撮影してくれていた女性客は、「女の敵が一人減って、スカッとしたよ!」と一言告げて、またホームへと戻ってしまう。


「じゃあ、俺も人を待たせてあるから、行くね」


 と彼女に告げると、三番出口に向かって歩く俺のあとをついてきていた。


「あの、もしかしてYMS劇場に向かわれてますか?」

「あ、うん。そうだけど……キミも?」


「はい! 私……実は黄泉坂の研修生なんです。これから公開リハがあって……よかったら、見にきてもらえますか? ちゃんとお礼がしたいんです」


 劇場までの道中、彼女は話してくれた。


 あのおっさんは地下鉄に乗る女の子をターゲットにしており、リハのために乗り込んでくる彼女に対して、よく痴漢を働いていたらしい。


「私、ずっとあの人に狙われてたんです。止めてって言えれば良かったんですけど、身体がこわばってしまって……ダメでした」


 時間や車両を変えても駄目だったようだが、怖くてなかなか言い出すことができなかったそうだ。


「だけど、今日あなたがいてくれたから、ようやく痴漢だって言えました! 私をあの人から救い出してくれたんです!」


 彼女は俺の手を両手で掴んで、離してくれない。大通りで多くの人に見られているというのに。


「いや、それはいいんだけど……みんな見てるから」

「ご、ごめんなさいっ」


 顔を真っ赤にして、慌てて俺の手を離す。こうやって間近で彼女の顔を見ると、文句なしでかわいい。


 黄泉坂メンバーに選ばれるのも納得がいく。


 黒髪のツインテールにくりっとした大きな目、少し小さな口であどけなさの残る印象。だけどアイドルに選ばれるだけあり、そこまで身長は低くない、紗耶乃より少し低いくらいか。


 こんなかわいいアイドルの卵のお尻を何度も触るなんて、あのおっさん……余罪もバレて、臭い飯を食いやがれってんだ!


 アイドルの卵だというのに全然すれてなくて、恥ずかしそうにしながら、並んで俺と歩いていると劇場に着いた。表の出入口は活況だったが、彼女は研修生ということで玄関を素通りして、裏口へと向かった。


「本当はゆっくりお茶でもしながら、お礼がしたかったんですけど……今日は時間がなくて」


 申し訳なさそうにする彼女だったが、


「今日、絶対にいい舞台にできそうな気分なんです。これ、よかったら受け取ってください。まだ研修生なので……恥ずかしいんですが」


 警備員さん受付台で彼女の鞄から取り出したサインペンと色紙にササッと何かを書いて、渡してくれた。



【朝霧ゆの】



 色紙に書かれたポップな字体を見ると、そう読めた。かなり練習したのだろうか、こなれている感が充分に伝わってくる。


「ありがとう、黄泉坂メンバーのサインがもらえるなんてうれしいよ。正規メンバー入りしたら、もうお宝だね!」


 俺がそう言うと彼女は顔を赤らめて、顔を手で覆ってしまった。


「ご、ごめんなさいっ! もう行かなきゃ」


 恥ずかしいのか、俺に背を向けると通用口に向かっていきなり走り出し……


「危なっい!」


 俺が焦って声をかけたときにはすでに遅く、ゴンと通用口のドアにぶつけて、ふらふらと俺のほうに寄ってくるので抱きかかえ、倒れるのを防いだ。


「大丈夫?」

「はいっ! いつものことなんで」


 ドアを開けて、彼女をエスコートすると恥ずかしいのか、走り去ってしまう。あどけなさとドジっ娘要素……その性癖の奴らには刺さるかもしれないな。


 サインの裏には彼女の……LINEのアドレスが書いてある?


 大丈夫か!?


 いくら痴漢から助けたと言っても、アイドルの卵が一般人にそんなの教えて……でも内心はうれしかった。


 俺が警備員さんににやにやされながら、顎に手当て走り去った朝霧さんの余韻に浸っていると、



「おにぃーー……ちゃん!」



 いきなり後ろから紗耶乃に声をかけられ、ビクッとまるで浮気でも見られてしまったときのように身を引いてしまった。


 心を落ち着かせ振り返ると、俺をジト目で見てくる妹の姿。


「お兄ちゃん、朝霧ちゃんといちゃいちゃしてた……」

「機嫌直せよ……あれだよ、あれ、なんていうの、漫画とかみたいに痴漢されている女の子を助けたんだよ、それがあの子」


 紗耶乃は重度のブラコンで結構嫉妬深いんだよな……まあ、血のつながった妹だから、あくまで兄妹愛の裏返しに過ぎないと思うんだけど。


「帰りにブリュセルのワッフルサンドケーキを奢ってくれたら、許してあげるね」

「太るぞーっ」

「へへーん、今日二キロも痩せたから、大丈夫だもーん!」


 サラッとハードなリハの内情を明かす、紗耶乃。すごく頑張ってる妹を見ると自然と甘やかしたくなってしまうのが俺の悪いところ。


「分かった、分かった! じゃあ、俺の奢りだ。好きなの全部、買って帰ろう!」

「やったーーーっ! お兄ちゃん、大好きっ!」


 ひしっと俺に屈託なく抱きつく妹の紗耶乃。今は地味モードになっているからいいけど、これが白石さやの姿だったら、マジでヤバいから!



 そんな妹と忙しくも微笑ましい週末を終え、俺はついに三度の正直で幼馴染の綾香の靴箱へ古風にもラブレターを入れていた。

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