【KAC20237】誘う男

雪うさこ

誘う男


 喉がゴクリとなった。

 こんな場所で……。 

 え、困るよ。

 本当に困る。


 陶磁器のように滑らかで雪白な肌。

 仄かに朱みのさす頬。

 軽く開かれた色味のない唇は、何か言いたげに見える。


 その唇に、自分の唇をくっつけた時に感じる冷たさと、甘さを想像しただけで、体の芯が熱くなる。


 だめだよ。

 こんなところで。

 だって、仕事中だぞ?


 昼飯食べたばかりじゃないか。

 確かに、市長はいない。

 今日は議会だ。

 おれは市長室で留守番。

 そこに急にやってきたのは幼馴染のせつだった。


「市長は議会で……」


「いないんでしょう? 知っている。今日はこの書類を届けに。市長から内々に提出するように言われていたから」


 雪は茶封筒に入ったそれを市長の執務机に置くと、おれを見つめた。


 ああ、そんなに熱い眼差しで見つめないでおくれ。

 まるで誘われているみたいじゃないか。

 いくらおれでも、そんな。

 仕事中だぞ?

 閉めきれていない扉の隙間からは、他の部署の音が聞こえてくる。

 夕方まで誰も来ないとわかっていても。

 誰かが来る可能性だってゼロではない。


 おれの心臓は大きな音を立てて、その存在感を誇示してくる。


 日本人であるにもかかわらず、雪のその不思議な白緑の瞳は、おれの顔を熱っぽく見つめているばかり。


 雪が悪い。

 雪が悪い。

 雪が悪い。


 おれを誘うからだ。

 仕事場で。

 しかもこんな業務時間中に。

 

 そっと手を伸ばして、その細い腰を抱き寄せる。

 おれたちの距離は一気に縮まった。


「実篤……」


 その唇から、おれの名が囁かれるたびに。

 おれの中の熱は昂る。

 ほっそりとした長い指がおれの唇に添えられた。


《キスして》


 そう言われているみたい。


 おれは堪らなくなり、雪の唇に自分の唇を寄せる。

 すると雪も背伸びをして顔を近づけてきた。

 唇と唇が触れ合うかと思われた瞬間。

 雪は囁くように甘い声で言った。


「ご飯粒。ついている」


「へ!?」


 驚いてからだを起こし、雪の指先を見つめると、そこにはご飯粒が一つくっついていた。


 慌てて雪から手を離し、口元を撫でて確認する。


「大丈夫。一つだけだよ。子どもみたいじゃない。見つけたのがおれでよかったね。ますます頭のネジが緩んでいるって思われるところだったね。じゃあ、その書類。おじさんに渡しておいて。おじさんがいないからってサボってないで、さっさと仕事して。実篤は仕事遅いんだから」


 彼は「じゃあ」と手を振ってから市長室を出て行った。


 おおおおー。

 そうか。

 ご飯粒ついていたんだ。

 あーよかった。

 見つけてくれたのが、雪で。


 おれはそれでも心配になって、急いで秘書席の引き出しを開けてから、鏡を取り出した。


 よかった。

 一粒だけだったみたいだ。


 安心したら気が抜けた。

 椅子の背もたれに背中を預けてから、ふと我に返る。


「あれ!? おれ、なにしようとしていたんだっけ? ああそうだ。雪とキス……。まあいいや。帰ったらのお預けだな!」


 おれは帰ってからの出来事を想像しながら、幸せな午後のひと時を過ごした。




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【KAC20237】誘う男 雪うさこ @yuki_usako

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