存在意義

山野エル

存在意義

 本当は怖かった。

 俺を見つめる子どもたちの視線が。

 中央都市の監視網を逃れて、ポツポツと点在する集落を本と共に巡る。そのたびに、こう訊かれるのを恐れていた。

「どうして危険を顧みずにこんなことを?」

 俺には信念などなかった。

 ただ、娘に読ませていた本を誰かに読ませたかっただけだ。その本を読んで誰かが感動を覚えるのを見れば、娘のひとりの時間をそれらの本が埋めてくれていたんだと認識することができる。それを見ることでしか、俺は過去を肯定することができなかった。

 ──人間に知識を与えるため?

 ──失われた文化を残すため?

 ──機械に反旗を翻す精神を養うため?

 俺の活動をそう理解しようとする声があることは知っている。だが、そんな高尚なものなどではない。


 娘は死んだ。

 人工筋肉の素材として流用され、脳は戦略機の人工知能に転用された。娘が戦いの道具になることなど、認めることなどできなかった。だから、俺には娘の遺伝子をこの世から滅するほかないのだ。

 娘のいない世界に反旗を翻すほどの価値はない。


 あの書棚の本は娘の存在を示す唯一の証だ。焼け残った本を自宅から引き取ったのだ。

 娘は薄汚い七番街から出ることができなかった。本を乗せて外の世界を浮動車で走る時、娘を後ろに乗せているような気になっていた。こんな広い世界があるんだということを、彼女が生きている間に見せてやれなかった。

 その程度の人間なのだ、俺は。


 物思いに耽る俺の腕が震えた。中央都市の紙殲隊が動き出したのだ。

「奴らが動き出した! もう出る!」

 書棚のそばに集まっていた集落の住民から溜息が漏れる。それでも、大人しく本を戻していくのは、この後に何が起こるのか分かっているからだ。

 浮動車に乗り込もと、そばに少女が立っていた。

「ほんやさん、また来てくれる?」

 あの頃の娘と同じ年頃だろうか。真っ直ぐとした瞳が俺を捉えて離さなかった。その眼差しも娘のようで……。


 本当は怖かった。

 紙の本をそばに置いている限り、俺に安寧の時はない。永久に逃げ回ることを決定づけられているのだ。

 娘にこの朽ちた世界を見せるのは──いや、本と共に集落を巡るのは、もう潮時だと思っていた。

 俺の目の前に現れた少女の短い言葉と眼差しが俺の魂を締めつけた。

 その少女の思いを裏切ることは、俺にはできなかった。

「必ずまた来るよ」

 顔が引きつっていたかもしれない。だが、少女の表情がパッと明るくなった。

「お元気でね、ほんやさん!」

 男たちが倉庫の扉を開いてくれる。その隙間を縫うように浮動車で走り抜けた。


 呼び止められないように浮動車を走らせた。

 今の俺はもう、言い訳のようなこの活動にすがるしかない。

 弱い自分を脱ぎ捨てて、次の集落へ向かう。

 それが本屋なのだ、と自分に言い聞かせて。

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存在意義 山野エル @shunt13

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