第三十話 成長

 今日もいつものように、山本先生の授業を教室の後ろから見学する予定だった。

 昼休み、僕は自分が座る用のパイプイスを空き教室から運んでいた。

 ちょうど千景の教室の前を通ったので中を覗くが、千景姿は見当たらなかった。たしか真ん中の後方あたりが千景の席だったと記憶している。しかし記憶違いなのか他の女子生徒が座って雑談をしていた。

 あとで千景のクラスの授業を見学しに行くと話そうと思ったのに。いないのは残念だった。

 そのまま職員室に向かおうとしたら、ふと気になることがあって立ち止まった。

 視線をさきほどの席に戻すと、そこに座っている見知らぬ女子生徒がこそこそと机を漁っている。教科書を取り出すとくすくす笑いながら席を立った。


 僕は五限の時間に千景のクラスの授業見学に向かった。

 後方のドアの近くにイスを置き、山本先生の国語の授業を見学する。

 千景の姿を見つけると、やはり座席は真ん中後方で間違いなかったようだ。

 もう授業が始まるというのに彼女は落ち着きがなく、席とロッカーの間を行ったり来たりしている。

「じゃあ、前回のつづきから誰か読んでくれるかしら」

 生徒たちの朗読が始まり、席を立って順番に読み進めていく。

 真ん中までくると、不意に朗読が止まった。

「清水さん、どうしたの? 読んでくれる?」

「教科書がなくて……」

 教室内からクスクスと笑う声が聞こえた。

「あらそう。忘れたのなら今日は隣の人にお願いして見せてもらいなさい」

 山本先生に笑い声は聞こえていないらしい。

 僕は昼休みのことを思い出し状況を理解した。あの時見た女子生徒は、千景の教科書を盗んでいたのだ。

 僕は桐谷がいじめられたときのことを思い出した。

 教科書に落書きをされたり、スリッパで過ごしたりしていた当時のことを。

 僕は何もできなかった。

 今度は自分でどうにかしなければ、そう思って立ち上がった。

「山本先生、すみません。少しお時間いただいてもいいですか」

「どうかしましたか? 上松先生」

「実は僕、清水さんの教科書を持っている人を知っているかもしれません」

「どういうことですか?」

「昼休みに偶然この教室を通りかかったのですが、ある生徒が彼女の席に座ってたみたいで。その時はそこが清水さんの席だとは知らなかったのでなんとも思わなかったのですが、記憶違いじゃなければその子が教科書を持っているんじゃないかなと」

 僕の発言に生徒たちがざわついた。山本先生も少し動揺しているように見える。

 直接的には言わなかったが、僕が犯人を知っているという意味は伝わったようだ。実際は横顔を少し見ただけだったけど、今の犯人の気持ちになって考えれば僕でも見つけられるはずだと自分を信じた。

 僕はしゃべりながら生徒たちの様子を観察した。教室の後ろで話す僕に対し、みんな身体ごと視線を向けているのに僕の方を見ない生徒が三人いた。そのうち女子は一人である。

「その人物は、清水さんの見た目とは全くにつかない人物でした。なので僕はよく覚えています」

 僕は話しながら、その中の女子生徒のもとへ歩いた。

 その女子生徒の横にしゃがみ顔をのぞき込むと、彼女は「ひっ」と言って身体を震わせた。

「ちょっと、机の中見せてもらえるかな」

 僕が笑顔で言うと、観念したのか「ごめんなさい」と言って彼女は千景の教科書を机に出した。

 僕は彼女にだけ聞こえるくらいの小さな声で話しかけた。

「なんでったのかな?」

「清水さんを、困らせたくて……」

「何で困らせたかったの?」

「……嫌いだから」

「嫌いだったら人のものを盗んでいいことにはならない。もし嫌なことがあったのなら、清水さんに直接言えばいいし、先生に話してみてもいい。いじめをすることは、相手だけじゃなく自分も周りも傷つけるんだ」

 僕の言葉を聞いた彼女は首を垂れた。

 山本先生に途中で止められるのではないかと思っていたが、僕の行動を一部始終見守ってくれた。

 授業の後、周囲の視線を気にして彼女は千景に謝りに行ったようだ。

 これで千景へのいじめが収束するといいが……。

 山本先生には「少し反省点もあるけど、よく頑張りました」と言われた。


 その日の放課後、千景と会うと一言目にお礼を言われた。

「あの後は大丈夫だったか? みんなの前で俺が無理やり叱っちゃったから、もっとひどくなったりとか……」

「ううん、大丈夫。私ね、あのあとちゃんと話してみたんだ。なんでいじめるのって」

 私には今を楽しくする力があるって言ってくれたから。千景は僕が言った言葉を覚えてくれていた。だから千景は自分から、渦中かちゅうに飛び込んだらしい。

「そしたらね、先生に言う価値もないほどつまんない理由だったの。びっくりしちゃった」

 千景は楽しそうに笑って言った。

「もう仲直りしてきちゃったから、安心して!」

 そんな千景につられるように俺も笑った。

「そっか。それはよかった」

 桐谷の姿が脳裏によみがえる。僕は七年前から一歩前に進めたような気がした。



「これだ!!」

 実習終了まで残り二日。図書室に千景の大きな声が響いた。

 図書室内のすべての目が、千景に向けられる。司書教諭の宮本先生の目がジロリとこちらを見た。

「静かに」

「ごめんなさぁい」

 怒られて千景はペロッと舌を出した。

 宮本先生が消えると同時に、はるかが急いで本棚から戻ってきた。千景の持っている本の中を横から覗き込み、パッと顔が明るくなる。

 大きな声を出せないため、無言で手を握り合い、二人は表情で会話していた。

 最近忙しい日が続いていたため、僕は本を手にしながらうとうとしていた。千景の声に対し反応が遅れる。

 僕が千景とはるかを見ると、彼女らはこちらの視線に気がつき、二人で駆け寄ってきた。

「上松先生! わかったよ、暗号の解読方法!」

 二人は解読するための本を持ってきた。二人とも満面の笑みである。

 千景がその本を見せてくれる。

 僕は驚きとともに、七年前から縁のあるその本を受け取った。

 まさか、と思った。

 なんでこれが解読本なんだ……? 僕もこの本は一度試したのに。

 今手元にあるそれは、あの『星ふる夜の中』だった。

「これは、どういうことだ?」

 これで解読できるなんてまだ信じることができなかった。

 視線を二人に戻した。彼女たちは嬉しそうに笑いかけてくる。

「先生がいる間に分かってよかった!」

「あのね、私たち、結局暗号の本には目ぼしい解読方法は載ってないんじゃないかって思ったの。だから、作り手側のことを考えてみることにしたんだ」

 千景は会ったこともない桐谷のことを考えて、目を細めた。

「先生の彼女って私と同じで、図書委員で本好きだったんでしょう? だからもし私がこうやって手紙を書くならって、考えてみたの。もし私なら、先生と思い出の本を使うと思った。だって、解読してほしいもん」

 千景の細めた目は、桐谷の笑った姿に重なった。僕は視線が引き寄せられる。

「だからね、先生が前に試したって言っていたこの本を、改めて見てみたんだ」

「それで、これに行きついたのか……。でも俺もこの本は一回調べたんだ。これを使ってどうやって解読したんだ? 俺はなにを間違えていた?」

「ううん、先生の解読の方法は間違ってなかったの。『ページ、行、文字』の考えは正しいんだよ」

「どういうことだ?」

「これは先生が利用した市営の図書館で借りてきたものです」

 はるかが、見た目は全く同じ二冊の『星降る夜の中』を僕の前に並べる。

「これを見てください」

 はるかが同じそれぞれ同じページを開いた。それぞれの本の内容を比べると、半ページほど内容がずれている。

「そんな。なんで同じページなのに内容がずれているんだ……」

「後ろの書誌情報を見てください。図書館にあったものは第十一版、学校に蔵書されていた方は初版なんです」

 僕はこの本を購入したときのことを思い出していた。古本屋のおじいさんが初版は貴重だと確かに言っていた。

 つまり、俺が確認していた『星降る夜の中』は、桐谷が暗号作成に使用した『星降る夜の中』とは異なるものだったのだ。

「そうか、そういうことだったのか」

 僕は無意識に笑っていた。

 そりゃあ、解けるわけないよな。まさかそんなところを見落としていたなんて。

 僕は表紙を開き、蔵書日を確認した。

 七年前、安岡とこの本を購入し、ここに持ってきたときの日付が記入されていた。

 おそらくこの文字は桐谷の字だろう。

 僕はそっと、その数字を指でなぞった。

「大変だっただろう? 俺がいない日も調べてくれてたそうじゃないか」

「先生のこと、驚かせたくてさ」

「すごく驚いたよ。まさかまたここで、この本に行きつくことになるなんて……」

 千景ははるかと一緒に「やったね」と笑顔でハイタッチをした。

 前より仲良くなっている二人の様子を見て、僕も顔がほころぶ。

「お前ら、すごいよ」

 二人に微笑みかける。千景とはるかは照れくそうに笑った。

 僕はカウンターに視線をむけた。

 記憶の中の桐谷がそこに座っていた。彼女の姿は中学生のままだ。

 桐谷はそこで『星降る夜の中』を読んでいる。ページをめくっては、何かを紙に書き込んでいるようだった。

 ここで桐谷は暗号を考えていたのか。

 当時の桐谷に思いを馳せる。きっとここは彼女の居場所だったのだ。

 僕は胸が詰まる思いだった。

「あとね、勝手に解読しちゃ悪いと思って、まだ全部は解読してないから安心して!」

「だから、彼女じゃねーしっ!」

 何度同じやりとりをしたか忘れたが、今回はニヤニヤする千景を見ても腹は立たなかった。

 正直なところ解読と同じくらい、二人がより仲良くなっていることが嬉しかった。

「じゃあせっかく気を遣ってもらったから、あとは一人で読んでみるよ」

「あとで内容教えてね」

 本を抱えた僕は二人にお礼を言って、図書室をあとにした。



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