第二十九話 今という時間

 手紙について話して以来、千景は『パズル解読』やら『暗号入門』などと書かれた本を読みあさっているようだった。

 最近では僕が図書室にやってきても、カウンターにいる千景はこちらに気づかないことが多い。

 カウンターで本を読む姿は、さながら桐谷のようだった。

 ある日、図書室の扉を開けると、珍しく千景がこちらに顔を向けた。

 眉を八の字にして不服そうな顔をしていた。

「なにかあった?」

 千景は教室でも暗号の本を読んでいるようで、それをクラスメイトの男子にからかわれたらしい。

「教室で読まなければいいのに」

「だって早く解読したいじゃない」

「僕はもう、七年も苦戦しているよ」

 実習中、暇を見つけては図書室に通って手掛かりを探していたが、取っ掛かりさえつかめない。

 手紙をもらった直後は近所の図書館や資料館を駆け回ったこともあった。しかしここまでくると、諦めの気持ちが半分以上を占めていた。だから、千景が必死に解読しようとする姿を見ると、僕も変わったのだなと思い知らされる。

「それに、先生には時間がないんだし……」

 一瞬なんのことを言っているのか分からなかった。それを感じたらしい彼女は、図書室の壁に掛かっているカレンダーを指差した。

「先生、あと二週間で実習終わりじゃん」

 もちろん知っていた。僕にはタイムリミットがある。だけどここにいると、今この時間が永遠のように感じてしまうのも事実だった。

 僕はこの手紙のことが、桐谷のことが忘れられなくてここに戻ってきた。だから、諦めるつもりなんてなかった。

 しかし実習中、毎日のようにここに通っていたが、解読できそうな本はなかった。

「実習が終わるまでに分からなかったら、もう諦めるよ」

 言葉にすると、本当にここで終わりという気がした。

 肩の荷が下りるかと思ったが、より気持ちが重くなった。

「大人はそうやって、すぐ諦めるんだから!」

 お通夜のような空気を壊すように、千景は明るい声で言った。眉間にしわを寄せ、ほほを膨らます。

 そうか。僕ももう大人になってたのか。

 千景の言葉に励まされた。もう少しだけ頑張ってみてもいいかもしれない、そう思えた。

 暗号を解読するという目的があるおかげか、千景は以前よりも前向きだった。クラスメイトからのいじめも気にしなくなっているようだった。

 ちょっとだけ安心した。このまま千景が気の合う友人を見つけてくれればいいと思っていた。

「ほら先生も、はやく解読頑張ろうよ!」

「わかった、わかった」

 こうして僕は千景と一緒に桐谷の暗号を解読することになった。



『ref.p/l/c

 11/3/13,23/24/59,25/98/11,12/47/22,1/2/9,6/45/58,17/30/26,……』

 僕は改めて、千景に暗号の手紙を見せた。

 それを見た千景は、眉間にシワが寄ると同時に、首も徐々に左に傾いていった。

「何度見ても意味がわからないよ……」

「まあ、俺も七年解読できてないからな」

「この『ref.』ってさ、なにかの英単語かな?」

「あぁ、それはreferenceの略語だよ。論文とかで使われる『参考、引用』って意味なんだ。例えば、各都道府県の面積を調べたときに、その情報はこの本とかサイトを参考にしましたよって意味で『ref.国土地理院 : 平成29年全国都道府県市区町村別面積』って書くんだ」

「へー、そうなんだ。じゃあ『ref.p/l/c』ってことは『p/l/c』を参考にしましたってことだよね?」

「そうだなー。『ref.』が論文やレポートで使われる単語だったから、『p/l/c』は『page/line/character』つまり『ページ、行、文字』かと思ったんだけど、上手くいかなくてな」

「どういうこと?」

「心当たりのある本で、十一ページの三行目の二十三文字目の文字っていう風に文字を組み合わせてみたんだけど、文章にならないんだ」

 僕はこの手紙を受け取った後、『星降る夜の中』を近所の図書館で借りてきて家で試してみたのだ。しかし、上手くいかなかった。

「だから、違う意味の暗号なのかもしれない」

「なるほどね」

 千景は腕を組んで考え込む。

 手始めに僕と千景は、図書室にある暗号やパズル関係の本の内容をを片っ端から目を通していくことにした。

 学校の図書室なので、パズル関係の本なんてそんなに置かれていないだろうと思っていたが、意外と関連しそうな書籍が次々と見つかる。

 僕と千景、二人して毎日のように図書室に入り浸る。しかし二人の力をもってしても桐谷の暗号の解き方はまったくわからない。

 千景も万策尽きたとばかりに音を上げた。

「先生の彼女、なに考えてるのかさっぱりわからない……」

「だから、彼女じゃないって……」

 取り組み始めてから一週間。解読本の膨大な量に、二人して机に突っ伏していた。

 近くにあった本に千景の肘が当たり、ドサドサと本が床に落ちる。

「ほら、落ちたぞ……」

 二人とも起き上がる気も出ず、数秒間落ちた本を無視していると、誰かが近づいてくる音がした。

 その足音の主は落ちた本を拾い上げる。

「あのう……」

 僕でも千景でもない声が、後ろから聞こえた。

「ああ、拾ってくれてありがとう」

 僕がむくりと起き上がると、そこには以前僕が話を聞いた、瓶底のような丸眼鏡をかけた彼女が立っていた。

 彼女は蒔田まきたはるかと名乗った。

「すごい量の解読本ですね」

「ちょっと調べているものがあってね」

 僕はそれとなく暗号が書かれた紙を、はるかの視界に入らないところへ移した。

「それって、授業かなにかの課題なんですか……?」

「いや、授業じゃないんだけど、まあ、僕の課題みたいのものかな」

「……はるかちゃん、それね、上松先生の好きな人からの手紙なんだよ」

 千景が小声でこそっと彼女にばらしていた。しかし、僕には完全に聞こえている。

「お前なあ!」

 千景の頭をぐりぐりと懲らしめる。千景は痛い痛いと言いながら、僕の手から逃げようともがいた。

 そんな中、はるかは両手を口元に当て目をキラキラさせる。

「つまり、先生宛ての恋文なんですね! 面白そう!」

 話しかけてきた彼女は頬を赤らめて興味津々といった目をして言った。

「まあそうなるのかな……」

 僕が気恥ずかしくて頭をかくと、千景はするりと僕の腕を抜けて、彼女の後ろに回った。

「先生のために頑張っているのに、こんな仕打ちひどいよねえ?」

「たしかに暴力はいけないですね」

 僕は少しムッとしたが、千景が友達を作りいいチャンスだと思った。

「わかった、俺が悪かった。それでさ、蒔田さん。僕ら暗号が解けなくて、困っているんだ。もし興味があるようならきみも手伝ってくれないか?」

 僕ははるかのことを見た。

「はい、私でよければ力になります!」

 はるかは笑顔で、快く引き受けてくれた。


 三人で解読をすることになり、まだ試せていない解読方法を試すスピードは以前よりも格段に上がった。

 中学生当時に読んだであろう本が解読のカギになるのではないかと推測した僕たちは、そのころに出版、学校図書して購入した本も確認することにした。

 はるかは市民図書館にも精通していて、なんと学校の本は既に九割近く読破しているという。そのため大量の本を改めて読み返す手間は省けたので、僕たちは一つ一つの可能性をつぶしていくことができた。

 また、僕が図書室に行けない日や土日も千景ははるかと会って解読を行っているようだった。二人は上手くやっているようで、僕ははるかを誘って正解だったと改めて思った。


 数日ぶりに図書室へ行くと、千景がカウンターに突っ伏している姿を見つけた。

「どうした?」

 千景は僕に気づくと、腕の中に埋めていた顔をこちらに向けた。

 千景の表情が芳しくなかった。最近は元気な日が続いていたので、どうしたのだろうかと尋ねてみると、彼女は「不安なの」と答えた。

「最近毎日が楽しいから」

 千景は遠くを見つめるような目をして、弱々しく笑った。

「だから、これが終わってしまったら、って考えちゃって」

 千景は苦しそうだった。

「でも、今は楽しいんだろう?」

 僕は千景の目を見つめた。

 彼女は黙ってうなずくが、笑顔がない。

「たしかに時間には限りがあるけれど、楽しいからこそ今を楽しまないと」

 穏やかに僕は言葉をつむいだ。

「もし楽しい時間が終わってしまったとしても、清水は自分でこれからを楽しいものにできるはずだよ。だって、今を楽しいものにできたのは清水自身の行動のおかげなんだから。大丈夫。俺が保証する」

 僕は力強く言った。

 そうかな、と千景はつぶやく。

「それに清水がそんな顔してたら、蒔田も心配するぞ」

 そう言うと、ちょうどはるかが図書室に入ってきた。

 はるかは僕に元気よくあいさつすると、にこにこしながら千景に話しかけた。

「千景ちゃん、お待たせ!」

 はるかの笑顔を見た千景は、つられるようにみるみる笑顔になる。

「そうだね、私、今を楽しむ!」

 そう言うと千景ははるかの手を取り、解読の続きをしに図書室の奥へ向かった。

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