第一話 出会い
七年前――。
中学生になりたての僕は、これといった取柄はなかったが、
小学生のころから誰とでも遊んできた経験から、クラスメイトならすぐ仲良くなれるだろうと思っていた。
しかし不運なことに、僕は入学二日目にして風邪を引いてしまい、何日か学校を休んでしまった。
回復するころには、すでに自己紹介する機会を失っていた。
朝、教室で挨拶をしたら返事を返してくれるようなクラスメイトはいたが、忘れ物をしたときに貸してくれるほど仲のいい友人はいなかった。
どうすればみんなともっと仲良くなれるのか。
クラスを観察していると一つ気づいたことがあった。授業中でも自由時間でも、一瞬にしてみんなの注目を集められる生徒がいることだ。
みんなができないことを簡単にこなしてしまうやつ、ここぞというタイミングで人を笑わせることができるやつ、そこにいるだけなのに存在感のあるやつ……。
そいつらを見ていると、僕たちはまるで一つになったような一体感を持つことができた。
その空気は、いわゆる人気者が持っている特有の
ある体育の授業の時だった。
「
先生に指名され、僕は前に出て走り幅跳びの見本をすることになった。
「そこから走って、この白線で踏み切るんだぞ」
縦二メートル、横五メートルほどの四角い砂場の前に、白い踏切板が埋め込まれていた。
使い込まれているのか、板はところどころ剥げており木の部分が露出している。
幅跳びなんて、僕にはテレビで見たくらいの知識しかない。たしか数十メートルほど離れた位置から走り込んで、白線でジャンプし、空中でおおきく空気を掻いて砂に尻もちをつく、あれだ。
人前に立つなんて滅多にないから、走り出す前から僕は緊張していた。ここで一発、みんなにいいところを見せられれば、もっとクラスメイトと仲良くなれるかもしれない。
「上松、いいぞー」
砂場をならした後、先生が合図をする。皆の視線が僕に集まるのを感じた。
意を決して走り出す。
勢いよく飛び出したものの、前のめりになった身体に足が追いつかなくなってきた。
蹴った力が身体の後ろへ抜けていき、「あっ」と思った瞬間には、踏切板の手前で僕は盛大にこけていた。
大きな音を立てて砂利がすれる音が響く。幸いにも前についた手と地面についた膝を擦りむいただけで済んだが、僕が立ち上がってもみんなが何も言わないのが逆に怖かった。
一瞬の静寂の後、クスクスとみんなが笑い始める。
顔が熱くなるのを感じた。
先生は怪我の心配をしてくれたが、手足の怪我なんてどうってことない。僕は早くみんなの意識の外へいなくなってしまいたかった。
「じゃー、代わりにお前やってくれるか」
「ういーっすー」
僕の代わりに選ばれた彼は、周りから「今度は転ぶなよー」と茶化されても、「ばーか!」と緊張した様子もなく笑顔で返していた。
彼は何事もないように華麗に踏み切り、ふわりと砂場に着地した。
「すげー跳んだじゃん!」
「あの人って陸上部?」
「サッカー部らしいよ。すごいね」
みんなそんな彼をみて口々に賞賛した。彼はみんなから注目を浴びているのが照れくさいのか、おどけたように笑っている。
「うわ、靴に砂入ったわー!」
みんなは彼を取り囲んでおり、僕は蚊帳の外だった。
小学生のころ、いつだって自分は世界の中心で、なにをやってもできてしまう天才なんだと勘違いをしていた時が懐かしい。
結局凡人以下の僕の存在なんて、人気者やヒーローの引き立て役にしかなれないのだ。
それ以来だろうか『諦め』という想いがだんだんと身体の奥へと染み渡り、僕の中には曲がった心が根づいていた。
人に慕われている人や輪の中心にいるような人を見たりすると、発作的にネガティブな感情がわき上がってきた。
それと同時に、ヒーローという存在は、なんど出会っても憧れてしまう。諦めているはずなのに、集団に一人はいるそいつに、僕はいつも目が離せない。足の速いやつ、勉強ができるやつ、友達と仲良くなるのが上手いやつ、度胸のあるやつ……。
そんなヒーローを見る度、自分もああなりたいと願いながらも、自分の出来の悪さを自覚させられるばかりだった。
あの体育の授業以来、なんだか居心地が悪くて、クラスで居場所がなくなった僕は、人気のない場所を探してさまよっていた。
昼食の時間も、一人で食べている姿を見られたくなくて校舎を歩きまわった。
人の流れに逆らって、校舎を上がっていくと、蛍光灯が切れているのか、薄暗い廊下が現れた。
奥に明かりがついている教室がみえる。
光に導かれるように廊下を進む。春も終わりだというのに、空気がひんやりとしていた。
教室の前に立ち、ドアに手をかけ、スライドさせた。
急な明かりが眩しくて目を細めながら見ると、そこは学校の図書室だった。
日差しが優しく差し込むその図書室は、初めて訪れたのに、どこか見覚えのある場所のように感じた。
「ドア、閉めてくれるかしら?」
入り口で突っ立っていると、司書教諭の先生に注意された。
あわてて中に入ると、室内に静寂が戻る。
外とのつながりを持たない、閉め切られた空間。そこにいる人の世界をつつんで大切に守ってくれるようだった。
僕は本棚の間を縫って歩いた。
小学校の頃の図書室はいつもにぎやかで、たくさんの生徒が休み時間の度に訪れていた。しかしみすずが丘中学校の図書室は、閑散としていた。本はたくさん置いてあるのに、人の姿が見当たらない。
校舎の四階で一番隅にあるせいだろうか。生徒の教室がある一階や二階から行くには四階まで上るのは遠く、グラウンドの方が行きやすい。そもそも、図書室の存在に気がついていない生徒の方が多いのではないか。自分も今日ここに来るまで知らなかった。
広さは教室の半分くらいで、でも本の数はとても多い。棚の数がそれを表していた。
本を読むのは久しぶりだった。目にとまった本を開いてみる。
物語の中での僕は、勇者でありヒーローであり人気者だった。どんな困難にぶち当たっても絶対に裏切られない。どんな敵も倒して勝利する。
物語を読み終えた僕は興奮した。
びっしりと並んでいる本の中でじっと集中する読書は、いつもより物語に引き込まれる感じがした。まるでここは現実と物語の狭間のような、ふしぎな空間だった。
僕は敗北のない世界に少しでも長くとどまりたいと考え、図書室へ毎日通うようになった。それと同時に現実世界にはどんどん興味を失っていった。
ある日、図書室の本を物色していると、いくつかの本が小さなイーゼルスタンドとともに立てかけられていた。その本の表紙には小さな紙が貼られ、手書きで簡単なあらすじが書かれていた。
図書室では月ごとに本の紹介ポスターやポップが、図書委員によって作成される。今月のテーマは『借りられてない書籍ランキング』だった。壁に貼られたポスターには十冊まで記載されており、タイトル・ジャンル・借りられた回数が書かれていた。
つまり生徒から不人気のため、残念にもランクインしてしまった本たちが、この低い本棚の上に晒されているというわけである。
人気ではなく不人気というあたりにセンスが感じられ、僕はどんな生徒が考えたのだろうと興味がそそられた。そのランキングを、僕は勝手に『不人気ランキング』と命名することにした。
『不人気ランキング』に載っている書籍の大半は、タイトルを見ただけでも難しそうな専門書ばかりだった。しかし、その中に一冊だけ小説が混ざっていた。
『六位 小説・星ふる夜の中 貸出回数・二回』
六位という、上にも下にもなりきれない状況が自分と似ている気がした。
並べられていたその本を手に取ってみる。
ハードカバーで厚さが三センチほどある、いかにも純文学っぽい見た目をしていた。
表紙の絵は、満天の星空の中にひとりぽつんと立っている少女が描かれており、星空もそうだがその少女の表情になんだか目が離せなかった。
この時の僕は、中身も確認せず、すぐに借りてしまった。
今思うと、表紙の絵も『不人気ランキング』も、きっと彼女の作戦だったのだと思う。なぜって、一回も借りられていない本ぐらい、ここにはいくらでもあるはずなのだ。図書室の奥に十センチぐらいの厚さの本だってたくさん置いてある。二回も借りられている小説が『不人気ランキング』の六位に入るわけがない。
しかしこの時の僕はいともたやすく、まだ顔も知らぬ図書委員の術中にはまってしまったのだ。
僕はほぼ毎日図書室へ通っていたため、一年生の終盤には図書室にある有名な小説の大半は読み終えてしまっていた。
そんなとき見つけた『星ふる夜の中』は次に何を読もうか迷っていた僕にとって、お腹をすかせた動物にエサを与えたようなもので、読み終えるのに時間はかからなかった。
今まで小説は一週間に一冊のペースで読み終わっていたが、この『星ふる夜の中』は三日とかからずに読んだ。始めは主人公の平凡さに読むのをやめようかと持ったが、中盤を過ぎると主人公がヒロインに対して一歩ずつ近づいていき、最後は切ないクライマックスを迎えるのだ。
しかし夢中で読んだために夜更かしをしてしまったため次の日の学校では、なんの科目を受けたのか記憶がないくらい僕は爆睡していた。
朦朧とした意識の中、四階の図書室へ行き本を返しに行った。すぐにでも帰宅しベッドで横になりたかったが、返却期日が迫った本があったため、僕はなんとか返しに足を運んだ。図書室で力尽きる可能性もあったため、図書室に着いてすぐ受付に本を渡し、今日は帰宅することにした。
授業も聞かずあんなに寝たのに、僕は帰ってきてからすぐに自分の部屋のベッドへ潜り込んだ。温かい布団の中でウトウトしながら『不人気ランキング』を考えた図書委員について想像する。
頭の中にパッと思い浮かんだのは女の子の姿であった。長い黒髪を背中まで伸ばしていて、椅子に座って文庫本を読んでいるところだった。そんな僕は彼女から少し離れた席に座っている。そして、日を送るごとにお互いの席は近づき最終的には隣に座っているところを想像するのだ。
なんともわかりやすい僕の妄想だが、黒髪の女の子の存在は事実でもあった。なんせ毎日通っている僕にとって、図書委員は比較的身近な存在だ。といってもクラスの友達より交わす言葉の種類が多いだけで、話す内容としてはレンタルDVDショップの店員さん並みである。
普通の図書委員はおきまりの単語を吐き、無表情で受付をしてくれる。これが単調作業の末路なのだ。
だがそのおかげで僕は彼女を見つけることができた。あの『星ふる夜の中』を借りた日、貸出受付に立っていたその黒髪の彼女が僕の持ってきた本を見て表情を崩したのだ。つまり、本を手渡したとき、はっと目を見開いたのである。
一瞬のことだったので普通の人であれば気づかないだろうが、僕はその変化を見逃さなかった。そしてすぐに彼女の名札を記憶した。
『桐谷 礼』
そうして彼女がポスターを書いた図書委員だと確信して以来、僕は彼女のことを目で追うようになった。
ここの図書室は縦長の作りになっており、窓が西側に面していた。受付カウンターは廊下側の端で、すぐ横にドアがある。中央には六つの大きな机が二列で並んでおり、その周りの壁にはびっしりと本が整頓されて並んでいた。
桐谷はとても真面目な性格のようだった。休み時間や放課後、僕が真っ直ぐ図書室に来ても、カウンターにはすでに桐谷がいた。
何度か桐谷より早く来てやろうと、授業が終わってからすぐに向かってみても、その時間には図書委員の仕事を始めていて、桐谷の遅刻は見たことがない。
今日も僕は、窓を背にしてカウンターとドアが見える場所を陣取った。棚からなるべく大きめの本を選び、わざと本を立てて読むようにする。そうして身体をかがめ視線だけを左に向けて、いつものように桐谷の観察をはじめた。
ここ数週間の桐谷を見ていると、図書委員は貸出・返却が主な仕事で、人が少ないと自由にしているということが分かった。今現在も桐谷が読書をしているということは、図書室にいる生徒が少ないということだ。
月末に近づくと、本の紹介ポスターやポップの制作で奥の準備室にこもって作業が行われるようだった。そこは図書委員しか入れない秘密の部屋で、ときおり控えめな笑い声がドアを通り抜けて図書室にも響いた。どんな話をしているのだろうかと聞き耳をたてるが、たいてい扉が閉まっていて聞き取ることができない。
いつもは常にカウンターに人がいるが、その時期はみな奥へ引っ込み誰もいなくなることもある。もともと図書室に来ている生徒も少ないので、正直問題ないっちゃ問題ないのだ。用がある人はカウンターに置かれた呼び鈴を鳴らして図書委員を呼ぶ。だが桐谷だけはいつもカウンターで読書にふけっていた。
僕は何度かあのポスターについて桐谷に声をかけようとした。だが、ことごとくタイミングを逃していた。貸出をしてもらっているときや、棚の整理をしているときに言葉を発しようと口を開くが、声をかける勇気が出る前に桐谷は貸出作業を終えていたり、他の図書委員に話し掛けられたりしているのだ。
「返却日は、一週間後です」
そう言われ続けて、二ヶ月がたった。
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