寡黙な森
例えば、今飲んでいるアイスコーヒーがこの先一度も、一滴たりとも口に含めなくなるとして、僕はそれに向き合う事ができるだろうか。
その事実を悲しみ、怒る事もせず、黙ってそれから遠ざかってしまうのではないか。
例えば目の前で何かが失われる(それは自発的に消えたり、あるいは誰かに奪われたり、あるいは己の手によって)として、その瞬間、僕はそれについて、何かを強く思うのだろうか。
夢を見た。
ひどく静かな夢。
白い森の中で、僕は当ても無く彷徨っている。
白い森というのは、雪ではない。
深く、濃い、霧だ。
そして、静かなのは、この夢が無音だからなのか。
もしかすると、その森に生命が無く、風も雨も無く、独りである僕が言葉を発する必要が無く、ただ黙りこくっていたからか。
ゆっくりと、葉のあるのか無いのか分からない木々の間を歩く。
その間も、土を踏む音や、息を吸って吐く音は聞こえなかった、と思う。
僕はここで、喫茶店に一人で居た女性を思い出す。
その女性がしている事(アイスコーヒーを飲み、読書をし、たまに席を外したかと思うと、煙草の香りを連れて戻ってきたり)は、何ら可笑しな事では無くて、それなのに何故、その行動ひとつひとつを丁寧に思い出せるのだろう、と本気になって考えてみた。
結果、すぐに答えは出た。
彼女が、ひどく美しかったからだ。
(「ひどく美しい」というのは、同義では無く、並べるには可笑しい言葉な気がするが、「非常に美しい」「とてつもなく美しい」は違うのだ。何かが)
容姿の話ではない。
所作、仕草が、ひどく美しかった。
彼女がどのようにして煙草を吸うのか。
吸いさしに付く紅を、漏れる煙の形を、想像した。
目にした彼女も、想像上の彼女も、美しく、そして静かであった。
この森は似ているのだ。
その彼女と。
だからか。
恐怖を感じたり焦慮に囚われる事も無く、冷静で居られるのは。
突然、見知らぬ、音の無い場所に、独りにされても。
或いは、この森に放られて、僕自身、無になったのかもしれない。
脳味噌が思考を辞め、風景を映すのと、歩く為だけの筋肉達だけが活動している。
そういえば、暑いとも寒いとも感じていないような。
…僕は、さもすると、人間そっくりなロボットにでもなったのか?
しかし、こんな余計な事を考えてしまうくらいには、脳味噌は機能しているみたいだ。
どれくらいの時間、歩き回っていたのか。
疲れてはいない。と思う。
景色は依然、真っ白な森から変わっていない。
僕はここで初めて、足を止める。
そして(いつから持っていたのか)右手にある栞を高く振り翳し、自分の左膝に向かって手を下ろした。
肌に直角に触れた栞は、本来の柔らかさを無視して、膝を貫通する。
ちょうど、職人の手によって磨かれた鋭い包丁で、崩れる事なくトマトを真っ二つにするように。
視界が斜めになる。
ぐらり。
どうやら僕の左脚は、僕の手によって、膝から上と下で分断されてしまったようだ。
真っ白な世界に、深い紅色が映えた。
綺麗な切り口から、血液が溢れて止まらない。
僕はその切れ味の良すぎる栞(栞とは本来、読みかけの本に挟んで使う物だよな?)で、自分を細かく、小さくしていく。
右膝、手首、腕の付け根、局部、耳、舌。
(栞でさえも武器になるのだな)
鼻に栞が触れようとした時、突然、何かが香った。
燃える、におい。
煙草の、におい。
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