2. トイレの花子さん。
花子さんの鋭い視線が向けられている。
何度もノックしたことを咎めるヒステリックな視線だ。
「本物の、花子さん……?」
常間先輩がぼそりと呟いた。
どうやら彼にも見えているらしい。
「まさか、一発目であえるなんてなぁ」
ふんっと鼻を鳴らした少女は偉そうに腕を組んで、値踏みでもするかのようにアタシたちを見る。
姿はイメージ通り赤いスカートに切り揃えた前髪の少女なのだが、想像していた花子さんの印象とはだいぶ違い高慢ちきな様子だ。
不意にフフッと笑った。
「さて、何して遊ぼうかしら?」
こくんと首を傾げてまっすぐな前髪がさらりと揺れる。
「いや、別に俺たちは遊びに来たわけじゃ……」
「おままごと? あやとり? それとも――」
常間先輩の言葉を聞かずに、花子さんは卑しく目を細める。
いつの間に手にしていたのだろうか、花子さんの右手には包丁が握られていた。
「先輩にげッ——」
瞬きの一瞬、視界から消えた。
そう認識した時には花子さんの包丁が常間先輩の首元へと伸びていた。
「殺されに来たのかしらぁ!?」
「先輩!!」
咄嗟に先輩を押しのけ、花子さんの前に出た。
ギラリと光沢を放つ包丁が鼻先の空を切った。
「くそっ」
七つ塚の花子さんは男子生徒を襲う。目的は常間先輩だ。
「男子を襲っていたのは本当みたいだな。先輩は下がってな」
「玲那!」
立ち上がり歩み寄る常間先輩を制して、額から冷たい汗が流れるのを感じながら、都市伝説の少女を見据える。
瞬きも許されない緊張感がアタシの鼓動を早くした。
彼女は飛び上がるとアタシの首をめがけて包丁を振った。
一瞬ので間合いを詰め、急所を狙い確実に仕留めようとする判断は正しい。
だが、アタシには勝てない。
「――」
包丁が届くよりも先に彼女の懐に入る。
腹に一発。嘔吐き前屈みになる顔に一発。掌底を打ち込んだ。
花子さんは掌底をくらった勢いのまま便座に腰掛けるようにして倒れた。
みぞおちへ攻撃が効いたのだろう、肉体のない身体で空気を吸おうともがいている。
霊体に空気なんて必要ないだろうに。
花子さんは荒い息を無理矢理落ち着かせ睨む。
「……あり得、ない……」
その目は驚きの色が隠せていない。
「生きてる人間は霊体に触れられない。と、でも思ったか?」
見えるなら触れる。触れるなら殺してしまう事だってできる。
それがアタシが生まれ持ち、磨き上げてきた才能だ。
「アンタくらいの悪霊なら簡単に成仏させてやれる」
「化け物ね……」
そうかも知れない。と思った。
これまでも何度も怪異を退治した。
アタシの家系がそういう一族だったからだ。
幼い頃から怪異と闘うために修練に勤しんだ。
見えない悪意から人々の平穏を守る為。それがアタシの使命だ。
「化け物を狩れるのは化け物だけなんだぜ?」
花子さんの首に手を掛ける。
そもまま握り絞めて潰してしまえばこの彼女は死ぬ。
すでに死んでるのだから死ぬって表現が正しいかは分からないが、確実に消滅させることができる。
ゆっくりと締め上げると、手を引き剥がそうともがく花子さんの爪がアタシの皮膚に食い込む。
「玲那、待ってくれ」
常間先輩がアタシの肩を掴んだ。
「襲われた生徒はいても、怪我や霊障を受けたって生徒はいないんだ。脅かすだけで人を傷つける意図はないんじゃないのか?」
興奮した獣を諭すような声が癪に障る。
「そうは言っても、今明らかに殺意を持って襲ってきただろ。放っておけばそのうち犠牲者が出るぞ。今、消さないと」
「花子さんの話を聞いてからでも遅くはないだろう」
確かに噂話が広まる程度で、死傷者も行方不明者も出てはいない。
しかし、常間先輩を狙う刃は確実に殺意を持っていた。
常間先輩は「頼む」と怒りにも焦りには見える力強い視線でアタシを見る。
「……ったく、しょうがねぇ」
花子さんの首を締め上げた手をゆっくり緩める。
その場に崩れ落ち咳き込む彼女に常間先輩が手を差し伸べた。
「大丈夫か?」
差し伸べられた手を払いのけ憎たらしく目だけをこちらに向けている。
アタシだって怪異なら無差別に退治しているわけじゃない。
校庭の首吊りの怪異だって、無害だからそのままにしている。
「おかしなことをしたら分かってるな?」
喉を押さえる花子さんに釘を刺す。
常間先輩は膝を突き花子さんに視線を合わせる。
「花子さん、男子生徒を襲うのは何か理由があるんじゃないのか?」
常間先輩が優しく問いかけると花子さんはにこりと微笑んだ。
可愛らしい表情の奥にやはり殺意が孕んでいるように見える。
彼に特別な恨みがあるかのようだ。
「やっと見つけたのよ……」
「ん? 何?」
花子さんの背後、便器の中から無数の手が蛇のように伸びる。
それはアタシを無視して常間先輩を掴んだ。
「え? ちょっと、なになになに!?」
「ほら、言わんこっちゃねぇ!」
無数の手は常間先輩を便器に引きずり込もうと引っ張っている。
「ま、待ってくれ、話し合おう!」
「話すことないわ」
冷たい声は明確な拒絶を示していた。
「おい、このまま行かせると思うか?」
アタシは常間先輩の襟を掴み引き留めた。
しかし、無数の手は未だ常間先輩を引きずり込もうと引っ張っている。
「邪魔をするな!」
叫び声とともにビュンッと風を切る音。鞭のようにしなった手が目にも止まらない早さで襲い来る。
あんなモノをまともに喰らったら肉が裂けるどころか、喰らった部位ごと切り落とされてしまうだろう。
それにこの狭いトイレじゃ避けることも難しいそうだ。
さて、どうするべきか。考えていると常間先輩がくぐもった声を漏らして顔を真っ青にしている。
引きずり込もうと引っ張る無数の手とアタシが掴んだ襟で首が絞まっているようだ。
「先輩、すまない」
咄嗟に手を離すと、常間先輩はトイレから伸びた手に引っ張られて勢いよく花子さんの下へと飛んでいった。
「うおおお!!」
「な、に!?」
花子さんがうろたえている。
その瞬間をアタシは逃さない。
彼女が常間先輩に気を取られていうちに一気に駆け抜け距離を詰める。
「まっ!」
気付いて鞭を向けるが、アタシの方が早い。
目一杯の力を籠めてタイルを踏みしめる。ありったけの力で拳を固める。
タイルを蹴り上げると一瞬で間合い埋める。
この一振りの拳でけりをつける。
突き出された拳が相手を穿つ。
「ま、待って!!」
「な!?」
突如、少女の声にアタシの拳は制止された。
三度の“待て”に頭にきたアタシは声の主を睨みつけた。
そこには気の弱そうな女子生徒が佇んでいた。
女子生徒は動かずにジッとしている。
花子さんはアタシの拳を前に頓狂な顔をしていた。
「そ、その子、悪い子じゃ、ないと思うから……」
張り上げた声が次第に弱くなっていく。それだけでも気の弱い子だと分かってしまう。
「なんだてめぇ?」
「田中さん?」
引張力吹っ飛ばされアタシの下で這いつくばっている常間先輩がつぶやいた。
「知ってんの?」
「同じクラスの
よく見ると部室前にいた女子生徒だ。
田中京香はアタシと常間先輩を一瞥して、花子さんを見た。
前髪で隠れているが彼女の目はしっかりを花子さんを捕らえていた。
「もう、良いの。私のためにこんなことしなくて、良いよ」
後悔を振り絞るように声を上げる。
「あなたが願ったのよ? 男子を懲らしめてって」
「ごめんなさい……私が間違ってた」
「今更取り消せないわ」
田中京香は決意を固めたかのように息を吸った。
「私、弱いままは嫌なの。貴方に守られてばかりじゃいられない。自分自身でなんとかしたいの」
彼女の目はさっきまでの弱々しいモノではなく、頑固として揺るがない覚悟の眼差しをしている。
花子さんはフンっと鼻を鳴らしてアタシたちに背を向けた。
「おい、逃げるのかよ」
「ええ、貴方には勝てそうにないもの」
あっけらかんとそう言うと虚空に消えていってしまった。
「どういうことだよ……」
田中京香を見るとビクッと肩を振るわせる。
睨んだつもりはないのにそんな反応されるとさすがに傷つく。
「あ、あの、ごめんなさい……」
「事情は話してくれるんだよな?」
そう聞くと彼女はこくりとうなずいた。
「私が花子さんに会ったのは一月くらいだったと思う……」
◯
その日の放課後、教室の掃除をクラスメイトに押し付けられた京香は体調が悪かったのにも関わらず断ることも出来できなかったそうだ。
腹痛に耐えながら一通りの掃除を終え机を定位置に戻すと、四階のトイレに駆け込んだ。
四階のトイレはなぜか使う人が少なく、いつでも一人になれる穴場だった。
トイレに篭ってしばらくのこと、人が入ってくる気配があった。
たまには使う人がいるんだと珍しく思ったが、その気配は京香が入っている個室の前で止まった。
コン、コン、コン。
「はーなーこーさーん。あーそびーましょー」
ノックと共に聞こえたのは男性の声だった。
いきなりのことに戸惑い動転していた。
口を強く押さえて男が去るのをジッと待った。
そんな京香をよそに、男は扉をガタガタと揺らし始めた。
ガタガタガタ。コンコンコン。ガタガタガタ。
「……ひっ!」
執拗に扉を揺すられ、必死に我慢していた喉の奥の悲鳴が漏れてしまった。
それを聞くと男子はそそくさとどかへ行った。
その後、彼女は外に出ることができずにしばらくの間その場で声を殺して泣いていたという。
「憎い?」
その時、幼いくともはっきりとした女の子の声がドアの向こう聞こえた。
「……え」
足音も何も聞こえなかった。今その場で出現したように突然だった。
「クラスにも馴染めず、日直や掃除を押し付けられて、その上女子トイレ男子が入ってきて、こんな嫌がらせをするなんて――あなた、彼らが憎くないの?」
決定的ないじめは起きてない。ただ、良いように使われるのに不満を募らせていたのは事実だった。
断れたら楽なのに、とは思うけど断るのにも精神を摩耗する。
断れてもその罪悪感が京香を苛む。
「はぁ、こんな思いばっかり、もう嫌」
今までため込んだ感情がため息と共に零れ出る。
「わかった。私がやり返してあげるわ」
「え?……ちょと、まって! あなた誰なの!」
急いでドアを開けてると視界の端を赤いスカートが駆け抜けていった。追いかけるころには女の子の姿はどこにもなかった。
◯
「それから一週間くらいした後だったかな。花子さんの噂話を男子がしてるのを聞いちゃって」
トイレを出ると外はすっかり暗くなっていた。暗い校舎をおどおどした田中京香の気配を背後に感じながら廊下を歩く。
「部室前にいたのって」
「このとこについて、常間くんに相談しようと思って、常間くんだけは私に優しかったから……」
伏し目がちの目でチラチラと常間先輩を見つめている。どこか特別な感情でも抱いているように見える。
一方でその常間先輩と言えば、さっきから黙ったまま何か思いつめるように眉間を抑えていた。
「先輩、さっきから黙ってるけど……」
常間先輩はハッとして、フゥっと深いため息をついて、悩ましいく目を閉じた。
「……その、男子ってのは俺のことかもしれない……」
すまなかった、と深々と頭を下げる。
「おい、いきなりどうしたんだ」
怪訝そうに聞くが常間先輩は口を閉ざしている。
「やっぱり、常間くんだったんだ」
口火を切ったのは京香だった。
常間先輩は驚いた表情で京香を見上げた。
「知っていたのか」
ふふっと口元を隠して笑う京香はとても可愛らしい。
「同じクラスになってから声が似てるなってずっと思ってた。それにオカルト好きって聞いたから、もしかしたらって」
「田中さん、あの時は本当に悪かった」
常間先輩はより深く頭を下げる。
「ううん。大丈夫。常間くんが悪い人じゃないのはちゃんと知ってるから、顔上げて」
京香が花子さんにあったあの日、女子トイレに現れた男子のは常間先輩だったのか。
そういえば先輩は以前もトイレの花子さんのことを調べたと言っていた。
男子生徒の中で噂が広まったのもその後だったとか。
どおりで花子さんは殺意むき出しで常間先輩を襲ったわけだ。
「私、もっと強くならなきゃ」
そう言って京香は照れくさそうに笑った。
「先輩……京香さんがいい人で良かったなあ」
アタシは常間先輩に冷たい視線を送る。
「ああ」
常間先輩もなぜか照れたように笑う。
笑いあう2人は恋人同士のようにお似合いだ。
「ったく、何青春してやがんだ。アタシは先帰るからな、あとは2人でよろしくやってろ」
校門前まで来てアタシは2人に背を向けて歩く速度を上げる。
すると「まって」と京香さんに引き留められた。
「あの、えっと、ありがとうございます……」
言い淀む彼女を見て自分がまだ名乗っていないことに思い至った。
「此木鈴那。1年だ。アタシは何もしてないよ。花子さんを止めたのはアンタだろ」
ううんと京香は首を横に振る。
「でも、ありがとう。玲那さん。あなたがいなかったら私のせいで常間くんが……」
感謝を言われてもアタシは本当に大したことはしていない。花子さんを殴っただけだ。アタシにできるのはそれだけだ。
これ以上謙遜しても仕方ないのでこの会話は常間先輩に預けるとしよう。
「だってよ。常間先輩。田中先輩がいい人でほんと良かったな」
振り返って常間先輩の方を見ると、誰もいない。
街灯の光に照らされただけがそこにあるだけだ。
「おい、先輩……」
どこを見渡しても彼の姿はない。
「常間くん? あれ? なんで……?」
やられた。アタシたちは騙されたんだ。花子さんは諦めていなかった。消えたように見せかけて油断するのを待っていたんだ。
知っていたはずだろ。怪異は人を騙す。これはアタシの失態だ。
「うそ……」
どうして、とその場に泣き崩れる京香に掛ける言葉が見つからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます