第22話 Hの話-10
壁にぶつかり、飛び散る残骸。
それは、何処かで見たことがあった。
そして、脳裏を過ぎる記憶。
「あっ……あぁ……あぁぁぁぁぁぁ!!」
気づくと私は絶叫していた。
壁に駆け寄って、私自身が握り潰してぐしゃぐしゃになったそれを懸命にかき集める。
しかし、もう、全てが遅かった。
「ごめっ……ごめんなさい! 兄さん! わたっ、私! そんなつもりっ……なくって……!!」
ベットに力無く横たわる兄に涙を流して縋り付く。兄は天井を見つめたままで、その顔に表情はなかった。
「あ……あぁ……」
私は恐怖する。
兄さんに嫌われたのではないかと。
急いで、手を拘束していた手錠を外して自由にした。しかし、手錠が外れても、兄さんは一切動く様子を見せなかった。
その虚ろな眼は、ただ天井を見つめている。
「に、兄さん……兄さん!」
体を揺すっても揺すられるまま、視線だけが僅かに動いて私の方へと向くが、その目は決して私を見ている訳では無い。
私はその頬に平手打ちをした。乾いた音が室内に響く。衝撃のまま兄さんの頭は壁の方へ向き、 ただ私の手による赤い痕が残っただけに終わった。
兄さんは、壊れてしまったのだろうか。
私が、壊してしまったのだろうか。
「うっ……うぅぅ……」
ベット横で、項垂れて涙を流す。
兄さんは何でも受け入れてくれる。
私の全てを赦してくれる。
どんな時も、私の傍にいてくれる。
それは、幻想だったのだろうか。私にとって都合の良い勘違いだったのだろうか。
「ひ、ひな……た……?」
掠れた兄さんの声が聞こえて顔を上げる。こちらに向けられた瞳は間違いなく私を捉えていた。
「どう、したの……? なんで、泣いてるの……?大丈夫だよ、お兄ちゃんがいるから……」
よろよろと力無く腕が上がり、私の頭の上に置かれた。そのまま、優しく撫でられる。
「兄さん、兄さん……私、わたしっ……兄さんに酷いことした!」
「大丈夫、だよ……お兄ちゃんは、ひなたの味方、だから……」
意識はまだ朦朧としているのだろう。私の頭を撫でる手は酷くゆっくりとしていた。
──かつてを、思い出す。
両親を亡くしたばかりの頃。兄さんはただ泣くだけだった私を今のようにいつまでも撫でてくれた。味方だと、傍にいると、そう言ってくれた。
──あぁ、やっぱり兄さんは兄さんなんだ。
兄さんは何も変わっていない。私がどんな酷いことをしても怒らない、赦してくれる。
そう、愛してくれている。
口元が、緩む。
「……ふふ」
「あぁ……やっぱり、ひなたには、笑顔が似合う、よ……」
兄さんの言葉と手つきは段々と弱々しくなっていき、そしてゆっくりと瞼を閉じた。微かな、寝息が聞こえる。どうやら寝てしまったらしい。正確には、気絶したのかもしれないが。
こんな風になってしまうほど、あの玩具は兄さんにとって心の支えの一つだったのだろう。私との、思い出の品。私を大事に想ってくれている証。
それを壊しても兄は赦してくれた。昔のように、泣いている私を慰めてくれた。
──なんだ、思い過ごしだったんだ。
兄さんは私を愛している。私をなにより大切に思ってくれている。私を護ろうとしてくれている。
予想外の出来事ではあったが、兄さんの愛を再確認することが出来た。僥倖、といっていいだろう。
「兄さん……」
パジャマ越しに、その胸元を人差し指の指先でそっと撫でる。
「……くっ、ふふ」
私はこのままでいいんだ。素直になった私を、兄さんは受け止めてくれたのだから。
これからも、兄さんを愛そう。
そして、私だけを愛するようにしよう。
私だけの傍にいてくれるようにしよう。
私だけしか見えないようにしよう。
それが、それこそが、兄さんの幸せでしょう?
兄さんを満たせるのは私だけ。兄さんを傷つけるのも、癒せるのも私だけ。
だからこそ、邪魔者は排除せねば。私と兄さんの安寧の日々にノイズを齎す存在。憎むべき敵。
──東雲エレナ
兄さんにしつこく付き纏うストーカー。いつも遅くまで何処かへ連れ回す。兄さんは優しい性格だから、きっと断れないのだろう。
だから、私が代わりに排除しよう。
少し、調べた。やはり殺すのは駄目だ。
鑑別所に送られ、何処の誰かとも分からない
何年も兄さんから離れて過ごすなんて不可能だ。とても耐えられる気がしない。
私が壊れてしまう。別の方法を考えないと。
私が汚してしまった兄さんの部屋を片付けながら、思案を巡らせる。
しかし、これといって、良い案は浮かばなかった。
例えばいじめでの登校拒否。いや、アイツはそんなことで傷つくような人間では無い。寧ろ嬉々としてやり返すような人間だ。
例えば、間接的な殺害。残念だから両親すらいない私には、そういった筋との関わりは一切ない。
そうなると、兄の口から、直接関わらないように告げさせる。
やはり、これが一番効果的だろう。好意を寄せる相手から直接的に拒絶の言葉を聞けば、諦めるはずだ。きっと、一度では駄目だろう。付き纏う度に、何度も何度も告げる。そうすれば、直に離れていくはずだ。
少し時間は掛かるかもしれないが、幸い、待つことにはなれている。
ただ、兄さんは優しい。
ストーカーとはいえ、拒絶しろと言われて、素直に承諾するとは思えない。
まぁ、その場合は、少し痛い思いをしてもらおう。暴力など振るいたくはないが、私が悪い訳では無い。あの女が悪いのだ。あの女が、私に暴力を振るわせる。
なんて、なんて、憎たらしいのだろう。
「……あの
舌打ちと共に、つい本音が出てしまった。
兄さんの方を見て、変わらず寝ていることを確認するとほっと安堵の息を吐いた。兄さんの前で、そんな口振りは許されない。品行方正文武両道の、理想の妹でいなければいけないのだから。自慢の妹にならないと、いけないのだから。
兄さん、私があのストーカーから解放してあげるから。兄さんと私の二人の世界を邪魔する人間は、きちんと排除するから。
私はベッドに近づき、兄の唇にそっと口付けを落とした。
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