第21話 Rの話-10
◆❖◇◇❖◆
「おかえりなさい」
誰もいないはずの室内から、底冷えのするような声が聞こえた。
真っ暗な中、玄関の扉を開けた正面に妹が立っていた。ただ、その場に立っていた。
体が固まり、ドアを開けた体勢のまま動けなくなる。
何故。その疑問は直ぐに消えた。
「今日は部活が早く終わったの。早く荷物下ろしてきて、兄さん。お夕飯、もう出来てるから」
「う、うん……」
妹の言葉で、やっと体が動くようになる。変な汗が背中をつたっていくのを感じる。そそくさと靴を脱ぐと、妹の方を見ないようにしながら自室のある二階へと向かっていく。
上がりきる前に一瞬、下を見る。
一切の光を失った瞳がこちらをじっと見つめていた。見なければ良かった、という後悔に苛まれながら僕は自室へと入った。
その日の夕飯は、焼いた鯵を中心とした和食だった。お味噌汁の具も蜆だ。
ほっと一息をつく。
もしニンニクが多く使われたものや、鯖、アサリを使ったものであれば、その先が予想出来てしまうから。
鰻という、あからさまな物が出てきたことさえあった。
妹と二人、食卓につく。
昔は、どんな風に過ごしていただろう。どんな会話をしていたのだろう。
今は、妹がたまに話しかけてくる程度。僕は何を話していいのか分からず、自分から話を振ることは無い。
何となく、箸で綺麗にアジの身を解して口に運ぶ妹の姿を見る。
その見た目も相まって、大和撫子、という言葉を想起させる。今の姿を見ていると、まるで今までのことが悪夢のように思えてくる。
「……っ」
しかし、唐突に鋭い痛みが鳩尾から走り現実へと押し戻される。先日、妹に殴られた場所だ。叩く時は顔だが、殴る時には顔より下を狙う。まるで苛めのようだな、と自嘲した。
「どうかしましたか?兄さん。箸が進んでいない様ですが。お口に合いませんでしたか?」
「あっ、ううん。いつも通り美味しいよ」
僕は、上手く笑えているだろうか。
じっとこちらを見つめる視線に心臓が早鐘を打ち始める。一分以上にも感じた数秒の後、妹の視線は再び手元へと戻って食事を続ける。
そうして、居心地の悪い食事の時間が過ぎていった。
「片付けるよ」
「大丈夫です。兄さんは座ってゆっくりとしていてください」
いつものやり取り。
家事は全て妹がやっているから、せめてそれくらいはしようと提案してみるのだが、いつも首を横に振られてしまう。
分かってはいたことだが、自分の無力さを感じて椅子の背もたれに体重をかけて天井を見上げた。
僕には、なんの価値があるのだろう。
妹のように容姿が優れているわけでも、成績が良いだけでも、スポーツが得意なわけでもない。
言ってしまえば、性別が違うだけの只の下位互換だ。
しかし、そんな僕に価値を見出す人間が二人ともいる。二人とも、僕にはとても釣り合わない存在だ。……尤も、妹が僕に向ける感情は純粋な好意では無いが。
考えても答えの出ることの無い、無為な思考を続ける。
そうしている内に、意識が遠のいていった。
「…………んっ」
いつの間にか、寝ていたようだった。さっきまで見ていたリビングの天井とは違う。見慣れた自室の天井だ。
ふと、腕に違和感を覚えた。
「……えっ?」
カーテンから差し込む僅かな月明かりに鈍く光を返すのは、銀の鎖。僕の両手はベッドの両端に手錠で括り付けられていた。
状況が分からずに一先ず手を動かす、しかしガチャガチャと音を立てるばかりで外れる様子はなく、寧ろ手首に食いこんで痛みを感じる程だった。
「おはようございます。兄さん。睡眠導入用の短時間のものを使ったので、ちょうど良かったですね。着色もなかったですし。色々と持っていて損はないですね」
耳に届く鈴の鳴るような透き通った声に、僕はゆっくりと顔を向けた。元々部屋にいたようだ。部屋の真ん中に、帰宅した時のように只立っている。
ゆっくりと、妹は僕の方に歩みを進めた。月明かりは胸元までを照らすだけで、その表情までは伺いきれない。
「兄さんは悪い人ですね。また、あの女でしょう?」
妹の指が、服越しに僕の胸元を撫でる。
もどかしい感覚に小さく声が漏れそうになるのを、唇を噛んで抑えた。
「……あの女だけじゃない。兄さんは、どうして私だけを見てくれないんですか」
その声は憎しみを孕んでいた。
それは紛れもなく、僕に向けられた憎悪、そして怒り。
妹がカーテンを開く。月明かりが部屋全体を照らし出した。いつもの、僕の部屋。けれど、僕の視線は床に向けることしか出来ない。妹がどんな表情をしているのかが怖くて、上を見ることが出来ない。
「そう……あの女だけじゃない。例えば、そう、これだって。これも兄さんを誘惑する害悪の一つ」
声が少し遠のくのを感じて顔を上げると、妹は僕の机の上にある棚へと手を伸ばしていた。
そこには、僕が唯一の楽しみとして時間がある時に少しづつ作っていたプラモデルが数体置かれている。
「あっ……」
声を漏らした瞬間に、妹の手が棚の上を一閃した。数体のプラモデルが勢いよく棚から飛んでいき、壁に当たり嫌な音を立て、床に散らばった。
パーツが取れたとか、そういったレベルでは無いだろう。妹の力だ。無惨に割れているに違いない。
大したショックは無かった。全く無かったわけではないが、飛び散った破片を見ても特段大きな感情の揺れはなかった。もう少し思い入れはあったと思っていたから、それが悲しくもあった。
「……あっ」
妹の方へと視線を戻す。一体だけ、難を逃れたプラモデルをその手に持ってしげしげと眺めていた。
それは、数年前。妹が誕生日にプレゼントしてくれたもの。嬉しくて、初めながらに軽く塗装にも挑戦してみた。結局、失敗して酷く不格好になってしまい、それ以来ただ説明書通りに作るだけになってしまったけれど。
妹はじっとそれを眺め、僕の方を一瞥する。
目が合う。
──そして、それを、握りつぶした。
バキバキと、プラスチックの割れる音が静かな室内に響く。異様に力の強い妹にかかればあっという間に原型は失われ、それを真下に落とすと、足で壁に向かって蹴り飛ばした。
声が、出なかった。
「どうしました?兄さん」
妹は、微笑みを浮かべている。
何かを、言いたかった。
妹が、近づいてくる。
何も、言葉は出ない。
──ただ、心の中で、何かが砕ける音がした。
◆❖◇◇❖◆
「はあっ……!」
飛び起きる。
時計を見ると、まだ午前二時だった。
酷く頭痛がして、体は寝汗でぐっしょりと濡れていた。
棚の上を見る。そこには何も無い。
床の上に視線を落とす。そこには何も無い。
手を動かす。そこには手錠は無い。
部屋の入口を見る。そこには妹はいない。
形容しがたい感情が浮かび上がりそうになり、霧散した。
僕は立ち上がって、机の上にあるいくつかのシートから何錠かの薬を取り出し、水もなしにそのまま飲み下した。
何も考えない。
何も考えたくない。
僕は再び、ベッドの中へと入った。
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